諏訪春雄通信 67


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 通信65でのべた「勉誠ブックレット 智慧の海叢書」のための見本原稿「浮世絵―日本人の視覚革命―」(400字で約120枚)を2日まえに完成して、勉誠出版編集部へ送付したところ、本日(12月21日)、じつにみごとな見本組みが返送されてきました。文庫本の大きさで、31字13行組み、107ページ、大きな活字の読みやすい仕上がりになっています。

 これを校正し、私のほうで図版を10点ほどえらび、キャプションをくわえて送りかえせば、すぐに本になります。この完成見本をそえて、執筆依頼状とともに、執筆予定者にお送りしますので、多くの方々が趣旨に賛同して、このシリーズに名をつらねてくださることを願っています。

 私の「浮世絵―日本人の視覚革命―」は、江戸時代のはじめに、整版印刷の普及によって大量の情報を入手することが可能になり、日本人の生活と考え方を根本から変えた情報革命の時代が到来したこと、その情報革命を文字による思考革命とともに担ったのが浮世絵による視覚革命であったという論旨を展開したものです。

 日本人の国民性と文化の特質は、近代以降に蓄積された洋風と、それ以前の伝統的な和風に二分することができます。その和風の重要な部分は江戸時代に形成されてのちにうけつがれています。和風の本質をさらに、融和、諧謔、洗練、美意識、季節感などのことばであらわすなら、それらの育成に浮世絵のはたした役割は想像以上に大きかったというのが、私の結論です。

 通信65で、私が予告した見本原稿の題は「浮世絵の方法」でした。錦絵の誕生、見立て、遠近法、構図、人間描写法など、やや専門的な方法論に焦点をあてて論じるつもりでしたが、勉誠出版社長の池嶋洋次さんと、この叢書の狙いについて話しあっているうちに、内容をもうすこし拡大し、一般化したほうがよいだろうとかんがえて、途中から方向転換したものです。成功か失敗かは、書物ができあがったときに、実物を手にとってご判断ください。

 東京書籍の「新日本古典百選」は、同社の創立百周年の記念出版となる大掛かりなものです。現在、私以外の共同監修者への就任依頼作業をすすめている段階です。その結果が判明しましたら、顔ぶれとともにご報告しましょう。

 通信65にひきつづき「日中霊魂観の比較」についてのべます。妖怪と幽霊の区別の問題です。

 両者を区別するたいせつな視点の一つは生と死の違いです。幽霊であるためには死が絶対に必要な条件ですが、妖怪はおおむね生者であり、かならずしも死者である必要はありません。死者としての妖怪も存在しますが妖怪の一部をしめるにすぎません。死と生を連続しているとかんがえる、ある種の宗教的見方をべつとすれば、通常の感覚では、生きていることと死んでいることのあいだにはかんたんに超えることのできない距離があります。この距離に注目すれば、妖怪と幽霊は区別されなければなりません。

 大事な視点の二つめは人間とそれ以外の存在の違いです。幽霊は人間の形で出現します。他方、妖怪は人間以外の形であらわれます。人間も、動物や自然物と区別できないような肉体をそなえています。生老病死の四つをまぬがれることはできませんし、死んで無機質にもどることは動植物と変ることはありません。しかし、だからといって、人間は動植物とおなじであり、そのあいだに違いがないといってしまっては、人間の本質を見誤ることになります。人間は自然とたたかって文化をつくりあげてきた精神や知性の働きをそなえています。この人間はほかの動植物や日月星辰、風雨雷鳴とは異なるという認識の生みだした存在が幽霊です。

 じつは、人間も人類の信仰のごく初期の段階では、その能力の一部分が肥大化されて自然環境と同類とみなされ、信仰の対象になっていました。男女の生殖能力にたいする信仰が生みだした陽物信仰や原始ヴィーナス(大地母神)信仰などがその代表例です。これらの信仰対象の神々が状況の変化で信仰対象からはずれると妖怪になります。それらはあくまでも妖怪であって幽霊ではありません。

 妖怪と幽霊をわける三つめの視点は異界と他界の区別です。この二つはおなじ意味でまぎらわしい使い方をされることもありますが、本来は意味と用法を異にすることばです。他界はほかの場所、死者の世界という二つの意味をもち、後者の意味では中国に出典をもとめられず、日本の鎌倉時代になってはじめて用例のあることばです。他方、異界は異人という概念とむすびついて新しくつくられた術語で、通常の辞典類には立項されていません。

 異界は空間的な概念です。人間が日常生活をいとなむ空間とかさなり、あるいはその周辺にひろがる非日常空間をいいます。この異界は内にたいする外の語であらわされる関係概念であって、その位置は相対的にうつり変ってゆきます。たとえば、昨日まで村の外にひろがる未開の地であって異界を形成していた場所が、今日は開発されて内にとりこまれ、異界はさらにその外にひろがってゆきます。

 これにたいし、他界は空間概念のほかに時間概念もあわせもっています。現世の非日常空間であるとともに、人間が誕生前および死後の時間をおくる世界です。他界もまた、この世にたいするあの世、此岸にたいする彼岸などの語であらわされる関係概念ですが、しかし、その関係は異界のように可変的なものではなく、絶対的に固定されています。死者のおもむく先である他界が現世に隣接するちかい所にあると意識されることはあっても、現世が他界と同一と意識されることはけっしてありません。異界とこの世界との関係が可塑的な同心円であらわされるとすれば、他界と現世との関係は隣接する二つの円を固定してしめすことができます。

 このように異界と他界を定義したとき、妖怪は異界の存在であり、幽霊は他界の存在といえます。妖怪はひろい意味で異人の範疇にくわえることができ、異界が変化してこの世界にとりこまれると、異人としての妖怪も土地の守護神になったり、隣人となったりすることすらめずらしくはありません。これにたいし、他界の住人である幽霊は、他界が現世に変ることがないのと同様に、他界性をうしなって現世の秩序に組みこまれてしまうことはありません。生者こそが妖怪の中心をしめ、幽霊は死者であると強調したことの意味はここにあります。

 わかりやすい例でしめしましょう。

 「鶴女房」は日本全国にひろがっている昔話で、若者に命をたすけられた鶴が、人間に姿をかえて女房になり、織物をつくって恩返しをする話です。女房はけっしてのぞいてはならないと若者にいって機屋にこもって布を織ります。若者は金持ちになったが、約束をやぶって機屋をのぞくと、鶴が自分の羽をぬいて布を織っていました。女は正体を見破られたことを知り、もとの鶴になってとびさります。

 鶴が妖怪性を発揮するのは、機屋という異界にこもっているときです。この異界はこの世をはなれた特別の場所にあるのではなく、村のまずしい若者の家のなかにあります。異界がこの世と同心円でかさなっていることの意味がここにあります。異界は夫ののぞき見という行為によってかんたんに消滅し、鶴も妖怪性をうしなって現世にとりこまれてしまいます。

 「子育て幽霊」も東北から奄美にまで分布する昔話です。一文あきないの飴屋に毎晩一文もって女が飴を買いにきます。不思議におもった飴屋が跡をつけますと女は墓地にきえました。墓のなかから子供の泣声がし、「お棺のなかの六道銭をつかって赤ん坊をそだててきたが、その銭もつきた」となげく女の声がきこえます。おどろいた飴屋が墓の主に知らせて墓をほりかえしてみますと、母親の死体のそばに赤ん坊が生きていました。

 赤ん坊をそだてるために母親の幽霊が出現します。彼女の正体はあばかれましたが、彼女が他界性をうしなって現世の秩序にとりこまれることはありませんし、他界も依然他界のままです。

 以上、妖怪と幽霊の相違をわかりやすくしめします。

 妖怪…生・人以外・異界  幽霊…死・人・他界

 今回はこの辺で失礼します。次回は中国の神々についてのべます。


諏訪春雄通信 TOPへ戻る

TOPへ戻る