諏訪春雄通信 73
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2月20日(木曜日)、朝早く東京を発ち、日帰りで、大阪市西淀川区野里の野里住吉神社の一夜官女祭を見学してきました。同行は東京から、私のほかに吉田敦彦先生と凌雲鳳さんの二人、大阪駅で田口章子さんが待っていました。
9時発の新幹線のぞみで出発し、目的地のJR東西線の御幣島(みてじま)駅についたのが12時、そこから徒歩で10分ほどの場所に神社はありました。こじんまりとした神社ですが、大阪府指定文化財のここの一夜官女という祭りはなかなか興味ぶかい祭りでした。
私たちが見学した行事は、神主一行が、神社を出発して、頭屋まで一夜官女七人を迎えにゆくところからはじまりました。官女は七、八歳から十三歳くらいまでの少女が祭礼の五日まえに抽選でえらばれます。巫女姿に扮したかわいらしいこの官女たちが特別に調達された供物をもった若者とともに、神主を先頭にふたたび行列を組んで神社にもどり、神にそなえ、祭典がおこなわれるという、単純な祭りで、全体は2時間半ほどですが、含蓄されている意味は深いものがあります。
まずかんたんに祭りの概要を説明しましょう。今は組織がくずれましたが、以前、この祭りは厳格な宮座制度でいとなまれ、座員は十五、六軒で構成されていました。この人たちが、祭りの五日まえに社務所にあつまって、抽選で頭屋(当矢としるします)一軒、女郎屋七軒、年行事二人をきめます。
当矢は神事の宿(通常の祭礼のお旅所にあたります)をうけもち、女郎屋は一夜官女と侍の役をにない、年行事はいっさいの雑務の世話役になります。祭礼前日、当矢で女郎衆七人と神主があつまり、ふるくからつたえられた作法にしたがって供物を調整しました。
供物でとくに注意されるのは、野里が淀川のデルタ地帯に位置しているところから海の魚はいっさいもちいず、川魚のフナ、コイ、ナマズなどを使用することでした。
この祭りには、講談でなじみぶかい岩見重太郎のヒヒ退治の伝説がまつわりついています。当日、神社で配布していた刷り物にそのことがしるされています。
この神社は永徳二年(1382)、足利三代将軍義満の創建とつたえられ、当時の野里村は右手をながれる淀川分流中津川の風水害と悪疫の流行により、悲惨な生活をしいられていました。古老たちは村をすくうために、毎年白矢のうちこまれた家の娘を神に人身御供としてささげていました。
ある年、ここをとおりかかった一人の武士が、娘の身代わりになって、ヒヒを退治し、村の難儀をすくいました。この武士が岩見重太郎だったというのです。そののち、村人は人身御供の作法を神事としてのこしたということです。今、神社の祭礼の頭屋を当矢としるすのはそのためです。
もちろん、これは伝説にすぎません。当屋と巫女の役割を交代でおこない、その役にあたった人たちを一年神主、一時上臈などとよび、人身御供の遺風とつたえる例はほかにもあります。兵庫県西宮市嗚尾の岡太神社などもそれです。
この祭りはほかの解釈も可能です。氾濫をくりかえした暴れ川の中津川を大蛇に見立てれば、毎年の大蛇への人身供犠と英雄による悪蛇退治の神話とも読めます。
また、頭屋(楽屋)での化粧と扮装、花道をとおっての役者の登場、神前(舞台)での歌舞上演と伴奏音楽(下座音楽)とみれば、みごとな一連の演劇の演出の原型となっています。
祭礼には直会(なおらい)が必須です。大阪へもどり駅前のワシントンホテル最上階の中華レストランでもよおした直会は最高にもりあがり、その勢いは帰りの新幹線ひかりの車中にまでもちこされました。いやがうえにもテンションのあがった吉田先生とかわした今年度のプロ野球談議は静岡をすぎるあたりまでつづきました。
当夜、あの車両にのりあわせた乗客の皆さん全員は、今年は阪神タイガースーの優勝の可能性がきわめてたかいこと、阪神と巨人が最後まで優勝争いをすれば、日本の経済は活性化し、しいては世界の平和につながるなどの高邁な理論を頭の真底にまでたたきこまれたはずです。安眠をさまたげられたぐらい我慢していただかなければ……。
中国の妖怪の話をします。
中国の妖怪は日本の妖怪と似ているところもありますが、全体としては日本の妖怪よりも怪奇で形態も複雑です。中国の妖怪について、十八世紀のフランスの博物学者ビュッフオンの「過剰による妖怪、欠如による妖怪、諸部分の転倒もしくは誤れる配置による妖怪」(『自然誌』)という定義はユーモラスですが、この説明では、中国の妖怪の形態の複雑さはわかっても、本質の解明にはつながりません。
分類は分類じたいに意味があるのではなく、本質の解明につながるものでなければなりません。
昨年、中国をおとずれたときに北京でおもしろい妖怪関係の書を買ってきました。麻国鈞編集『中国霊怪大観』(北京出版社・1994年)です。麻国鈞さんは、私のよく知っている人で、芸術研究院(ほぼ日本の文化庁にあたります)につとめて、芸能や民俗の研究に従事しています。
この書は、紀元前4世紀の晋代の『捜神記』からはじまって19世紀清代の『奇聞怪見録』まで59種の怪異を記述した文献から全部で566話の怪異談をあつめています。しかもその内容を、動物類、植物類、器物類、雑怪類に4分類しています。
たいへんわかりやすい分類ですが、気にかかる点が二つあります。一つは雑を設定したことです。動物以下の3分類におさまらないものがあるから雑がもうけられました。ということは、この分類がかならずしも最適のものではないことをしめしています。
二つめは、この分類が妖怪の本質を究明するのに役立たないことです。
日本の小松和彦氏は、つぎのような分類法を提案しています(『妖怪図鑑』安城市歴史博物館、1998年)。
この分類法がすぐれているのは、妖怪の母胎となった自然神をまず特立し、つぎに人格神の信仰の誕生以前に妖怪化した人間の妖怪を2として分類したことです。もっとも小松氏はこのなかに幽霊をふくめていますが、そのことはみとめられません。この二つの分類は人類の神観念と対応しています。さらに3はのちにくわしくみるように中国にはじまって日本に影響のおよんだ妖怪群です。
私はさらにこれに創作妖怪という分類をもうけ、全体として以下の4分類とします。創作妖怪は最近の妖怪ブームのきっかけとなったアニメや劇画、漫画に登場する妖怪です。
『中国霊怪大全』から中国の自然の妖怪の物語を一つだけ紹介しましょう。
「赤色桂の巨人」
交城県の南10里ほどの地にいつも怪物が出現し、夜道をいって、この怪物に出くわした人の大多数は病気にかかり、なかには命をおとす人もいた。この地の住民はこの怪物にひどくおびえていた。
あるとき、この辺の人が夜とおりかかったことがあった。彼は背に矢を負い、手に弓をもち、一人であるいていた。城の南郊外をあるいていたとき、一個の巨大な物を見た。形は巨人で、紅の衣服を着、頭に黒い布をかぶっていた。ちょうど酒にでも酔ったようにゆらゆらとゆれながらあるいていた。旅人は一瞬緊張し、弓に矢をつがえてはなつとみごとに命中した。怪物はすぐに後ろ向きに逃げだし、勇気のわいてきた旅人は、北にむかって後を追うと、一軒の旅館にたどりついた。
彼は旅館の主人に先ほど遭遇した事柄を話した。
2日め、県城にゆき、城の外、西の辺りの赤色桂の木に一本の矢がつきささっているのを見つけた。ぬいてみると、彼が昨晩射た矢で、矢の先からは血がしたたっていた。
この事件は県に報告され、県令が人を派遣して、この赤色桂を焼きはらってしまった。これからのち、交城県の南郊外には何事もおこらなかった。(『太平広記』巻369)
『太平広記』は中国宋代に編集された説話集で、日本の『今昔物語』以下の説話集に多くの材料を提供している書です。じつに多くの妖怪物語がおさめられており、『中国霊怪大全』もこの書から数多くの怪異談を集録しています。
今回はこの辺で失礼します。