諏訪春雄通信 74


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 芸能界では市川新之助の隠し子騒動が話題になっています。週刊ポストの先週号が特集でとりあげ、最後に田口章子さんのコメントが掲載されていました。この世界では発言に細心の注意をはらう必要がありますが、田口さんの発言は無難なものだったのではないでしょうか。

 私のところにも、2月25日にテーミスという硬派の月刊誌から取材の申し込みがありました。今更、新之助パッシングにくわわる気などさらさらないのですが、依頼してきた記者が、私の『歌舞伎へどうぞ』(ポプラ社)という著書をよく読んで、誠意のある応対をしていましたので、会ってみる気になりました。

 じつは私は今回の騒動をとおしてかんがえてみたいテーマがありました。歌舞伎役者の芸のつくり方ということです。オーバーな表現をすれば、明治時代に歌舞伎が近代化の道をたどったときから、未解決のままにとりのこされた課題でした。

 よく知られていますように、明治以降の近代歌舞伎の進路をきめるのに大きな貢献をしたのは九代目の市川団十郎でした。彼のねらいは二つありました。一つは歌舞伎関係者の地位をひきあげること。もう一つは歌舞伎に合理主義をもちこむことでした。

 前者の試みの象徴が興行師の守田勘弥、学者の依田学海らとくんで実行した演劇改良運動でした。歌舞伎を高尚な演劇にするために、脚本の改定、劇場の設立、音楽の改良などのさまざまな試みとならんで、種々の方法によって歌舞伎関係者の社会的地位の向上がはかられました。

 後者では、演技における心理重視が注目されますの。彼の心理主義は、身体と心をわけ、心が主で、身体は心命令にしたがうものとかんえることでした。歌舞伎の演技にハラとよばれた〈心=意味〉をもちこみ、ハラが観客につたわることを歌舞伎の演技の目的としました。いわゆるハラ芸です。

 この心理主義は、

  1. 観客が芝居へ参加する路をとざし、観客を舞台から一方的におくられる情報の受け取り手にした。
  2. 演劇における身体の役割をかろんじ、役者の肉体から観客の肉体へとどく共感の回路をとざした。
  3. 言葉から感覚への働きかけをうばい、意味をつたえる論理性だけに限定した。

 などの現象を生み、歌舞伎を薄味なものにしてゆきました。

 明治以降の近代・現代歌舞伎がしだいに薄味なものになりながらも、なお新劇やヨーロッパ演劇の亜流になりきらず、古典劇として、江戸時代歌舞伎がもっていた混沌の力を完全に失うことがなかったのは、皮肉にも、九代団十郎の以上のような試みが不徹底に終わったことにありました。

 現代の歌舞伎役者は、たしかに社会的地位をたかめ、一般社会との交流もさかんです。しかし、歌舞伎役者をとりまく閉鎖社会は多少変質しながらも保たれています。実質的、心情的な閉鎖性が、じつは歌舞伎役者の芸の鍛錬にもはたらきかけ、心では統御しきれない役者の肉体をつくりあげ、歌舞伎の古典劇の力を維持してきたのです。

 このあたり、もうすこしわかりやすくお話しましょう。

 閉鎖性は役者馬鹿といいかえることができます。世間の常識にうとい舞台一筋の役者気質です。よい意味の役者馬鹿であって、常識人とはなりきれないところから、混沌とした歌舞伎の演技の力が生みだされているのです。

 閉鎖性とは、また、部分にこだわって全体を知らないことです。古典歌舞伎をささえる型の演技の根本精神、部分から全体へという方法は、この閉鎖性が生み出したものなのです。

 市川新之助にかぎらず、多くの歌舞伎役者はテレビや商業演劇の舞台に出演することによって、この閉鎖性から抜け出さざるを得ない状況をむかえます。一般人とまじわることによって社会的常識を身につけ、歌舞伎の演技とは正反対の全体から部分へという演技方法を体得します。

 新之助がきびしく批判されたのは、一般社会と交流しながら、依然、閉鎖社会のモラルのなかに身をおいたことにあったのですが、しかし、演技の面では、閉鎖性にとどまりつづけるべきなのです。つまり、古典歌舞伎が確立していた部分から全体へという演技方法を守ることです。

 歌舞伎役者が一個の社会人として閉鎖性から抜け出すのは当然です。しかし、むずかしいのは、社会人としては閉鎖性から脱出しながら、役者としては閉鎖性のなかにとどまることです。そのメッソードがまだ確立されていません。

 六代中村歌右衛門、二代中村鴈治郎、七代坂東三津五郎などなど、無意識裡にそのメッソードの探求と保持につとめた役者はこれまでも多くいました。

 これらの先輩にまなんで、近頃稀な逸材である市川新之助が歌舞伎のメッソードの探求と確立につとめてほしいというのが、私の期待です。

 これからの歌舞伎は、この伝統的な部分から全体へという方法と、猿之助などが追求している、全体から部分へという二つの方法を並存させながら、全体として活性化してゆくことになるでしょう。

 こんな内容を40分ほど、私はテーミスの記者有路昇さんに話しました。あらかじめ私の『歌舞伎へどうぞ』を熟読してきていた有路さんは、むずかしい理屈をよく理解してくれたようですが、じっさいに記事にできるかどうかは別問題です。私の趣旨が曲解されないことを願うだけです。


 3月1日(土曜日)、栃木県鹿沼市板荷の祭りアンバサマを見学してきました。同行は私のほかに石井優子・下野ひろ子・白石広子の三氏。池袋に午前8時40分集合、乗り換えをくりかえして東武日光線新鹿沼についたのは11時まえでした。

 アンバサマは3月の第一土曜日・日曜日の両日、通称アンバサマとよばれる大杉神社の境内に鎮座した神輿が板荷地区全戸をまわり、悪病除け、家内安全を祈願する行事です。

 大天狗・小天狗獅子をひきつれ、そのあとにはオートバイとリヤカーを改造した屋台にのった太鼓、鼓、笛などの大杉囃子の連中がにぎやかに行列をもりあげます。

 通常の家では小天狗が土足で家内にはいりこんで悪魔払いをおこない、お札を配るだけですが、特別料金を出して希望した家では、大杉囃子が演じられます。それらの家ではうどん、お酒、煮物、赤飯などで一行を接待します。私たちは一行についてまわりながら、この祭りの雰囲気にひたることができました。

 雨が降り出し、寒さもくわわってきましたので、途中でこの行列からわかれて、大杉神社をおとずれました。板荷のアンバサマは、常陸国稲敷郡桜川村阿波にまつられる本社大杉神社の祭神大物主神の分霊を、江戸時代に勧請したものです。アンバサマは阿波に由来する言葉と説明されています。神輿に安置された記録によると、この行事は江戸時代の安政年間(1854〜59)ごろからはじまっています。

 関係者が出払ってしまった境内の寄り合い所では、担当地域から動員された年輩の婦人たちが、祭りに使用する道具類の準備・整理にあたっていました。今晩はここに行列がもどり、直会をおこなうのだそうです。

 アンバサマは、関東から東北にかけてかなりひろく流布している神で発祥地は茨城県稲敷郡阿波の大杉神社です。地名の阿波は安場ともしるされ、大杉神社はアンバサマとよばれていました。関東各地では疱瘡を主とする疫病除け、利根川水系流域の水運業者からは航海神、千葉から岩手にかけての太平洋岸の漁村では漁業神として信仰されていました。

 アンバサマが熱狂的に信仰されはじめたのは江戸時代の享保年間(1716〜36)からで、1727年には江戸市中にアンバ大杉踊りが大流行したという記録がのこされています。

 アンバサマは天狗の姿で各地に飛来し、悪魔を退散させるということで、村々では神社から天狗面をかりうけ、村中で祈祷するという習俗もひろくおこなわれました。その祈祷にさいしてはアンバ大杉囃子の歌と踊りをともなうところが各地にありました。

 アンバサマが天狗信仰とむすびついているのは、本社大杉神社の縁起に、天狗のような神霊が、阿波の大杉に出現して、水難の救助や疫病の退散に顕著な霊験をしめしたからといいます。大杉神社は現在は三輪信仰の大物主神を主神とするようになっていますが、この神はのちにこの地方に疱瘡が流行したときに大和の三輪明神を分霊したもので、天狗が本来の祭神であったとみられます。『太平記』にしるされて有名な大塔宮護良親王の逸話からもあきらかなように、天狗はしばしば大杉の頂上に出現しました。

 天狗については、この通信でくわしくのべることになりますが、仏教信仰では悪神、それ以外、ことに修験道系の信仰では善神とされています。 

 午後6時近く、池袋にもどって解散しました。本来なら、そこで直会をすべきなのですが、一つの理由はまだ小さいお子さんのいる下野さんことをかんがえたのと、もう一つの理由は、前の晩の深酒で、酒を飲む気になれなかった私の都合からでした。

 今回はこの辺で失礼します。


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