諏訪春雄通信 75


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 前回の通信で紹介した月間テーミスの有路記者から、新之助隠し子問題にたいする私の発言をまとめた以下のようなFAXが送られてきました。一読した印象は「何だこれは!」でしたが、よく読んでみるとかならずしも、私の意図からまったく離反しているわけでもありません。

 著書に『歌舞伎の源流』(吉川弘文館)がある諏訪春雄学習院大学文学部教授は、こう苦言を呈す。
「演技の約束事である『型』が長い歴史の中で作り上げられてきたことを考えれば、一般の女性と付き合うことでのプラス面はあまりない。江戸時代までは、幕府が歌舞伎界と社会とのかかわりを遮断するなど、もともと閉鎖的な社会に生きてきたのにもかかわらず、梨園は世間との関わりかたについて考えることを怠り、花柳界との間でのみ通用したモラルを“伝統”として現代の社会に持ち込んでしまった」
 『制外者(にんがいもの)』『河原者』と迫害されるなかで、低きに没し高みを目指してきた歌舞伎には、現代社会が失ってしまったものの考え方や感覚が残されている。世間知らずといわれながらも大事にされてきたのは、そうした価値があると認められているからだ。
 前出の諏訪氏が続ける。
「新之助さんはそこを見誤ってはいけない。これまで以上に芸に邁進し、観客に日常と違う何かを感じさせたり、伝統的価値を見出させていくことこそが、真に罪を償うことだ」

 地の文として書かれている『制外者』『河原者』以下の文は、私の『歌舞伎へどうぞ』からの引用が中心です。今回の騒動を歌舞伎役者の芸の問題とからめているのも、私の話の意図に合致しています。しかし、冒頭の「一般の女性と付き合うことでのプラス面はあまりない」というコメントは私の認識外のもので、下手をしたら人権侵害になりかねません。また、文意のよくとおらない箇所があります。

 そこで冒頭をつぎのように訂正しました。

 「現代の歌舞伎役者が舞台を降りたとき一般社会人として振舞い、花柳界以外の女性と付合う機会がふえたのは当然の成行きである。江戸時代までは……」

 また文意のよくとおらない箇所をつぎのようになおしました。

 閉鎖的な社会に生きてきたにもかかわらず→ 閉鎖的な社会に生きることを強いられたために

 何かを感じさせたり、伝統的価値を→ 何かを感じさせ、歌舞伎の伝統的価値を

 これをFAXで送り返しました。私の意図は、今回の問題をきちんと処理して、新之助がさらに歌舞伎役者として大成をめざして欲しいというところにありますが、ジャーナリズムはきびしく弾劾しようとします。文脈の違いはそこから生じています。

 町田市公民館が秋の講座の講師を連続6回依頼してきました。毎回、火曜日の午後2時から2時間、募集人員は115名です。江戸開府400年記念が総合テーマですが、担当者と話しあって、私が提出したプランは以下のようなものです。

 9月2日    朝廷と幕府―東アジア社会の権力構造―

 9月16日   幕府権力と文化―歌舞伎と文学の展開―

 10月7日   鎖国と海外の情報―日中混血の英雄国姓爺鄭成功の活躍―

 10月21日  江戸時代の型文化と日本人の信仰― 一神教と多神教―

 11月4日   江戸時代の妖怪―中国白蛇伝と安珍清姫物語―

 11月18日  江戸時代の幽霊―日中の幽霊の比較―

 関心をお持ちの向きはぜひ聴講に応募してみてください。

 「道具の妖怪」の話をします。
 日本の道具(器物)の妖怪は、平安時代の末ごろからさかんに活躍しだした妖怪で、
付喪神(つくもがみ)ともよばれました。つくもとは九十九の意味です。人間の白髪をつくも髪といいました。白髪の様子が植物の付喪に似ているからです。その髪を神に変えた表現です。白が百から一画とったということで九十九としました。つまり、つぎのような連想ゲームです。

  白髪→付喪  白→百マイナス1画→九十九  つくも髪→つくも神

 最後の〈つくも髪→つくも神〉の連想の根底には、道具類が百年経過すると精霊がやどり妖怪になるという俗信がありました。百年ではなく九十九年としたのは、完成した妖怪ではなく、道具から妖怪へ変わる過程の神という意味です。室町時代に成立した『付喪神記』という絵巻の冒頭に

  陰陽雑記にいう。器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす。これを付喪神と号すといえり。

としるされていて、そのあと、つぎのような奇怪な物語が挿絵入りで展開しています。

 世俗では、毎年、立春に先立って人家の古道具を払い出して路地に捨てる。これを煤払いという。これは百年に一年足らぬ付喪神の災難にあわないためである。
 平安時代の初めの康保のころ、歳末の煤払いで捨てられた京内外の古道具どもが、持ち主をうらんで妖怪となって仇を報じようと決意した。古道具どもは、古文の妖怪の古文先生の教えにしたがって、
陰陽の変化のはげしい節分の夜に、造化の神の導きで妖怪となり、舟岡山の奥に住んだ。彼らは京白河に出ては人畜をおそって食物とした。

 妖怪どもはさらに山奥に社殿を建てて造化神を氏神として祭りをおこなった。その神輿が渡御のさいに関白殿下の行列と出あい、関白殿下の肌の守りの尊勝陀羅尼から発した火炎によって追いはらわれた。
 宮中において、尊勝陀羅尼の法会がもよおされ、護法童子によって屈服させられた妖怪どもは山にはいって仏道にはげみ、解脱することができた。

 道具の妖怪があらわれるはやい例は『今昔物語』巻二十七の第六話「東三条の銅の精、人の形と成りて掘り出されること」でした。つぎのような話です。

 いまはむかし、東三条殿に式部卿宮が住んでおられたときのことである。南の山を身の丈1メートル足らずの太った五位の男が時折あるいているのみた宮があやしくおもって、陰陽師にたずねると、「これは物の怪ですが、人に害はあたえません。銅器の精で、御殿の東南の隅の土中におります」と占った。
 そこで東南の隅を掘らせたところ、
五斗入りほどの大きな銅製の口つきの容器が出てきた。それ以降、五位の小男があるきまわることはなくなった。

 道具の妖怪は、以上のほかにも、『百鬼夜行絵巻』その他に挿絵つきで登場してきます。中世になってなぜ道具の妖怪が日本に登場してきたのでしょうか。これを日本国内だけの視野で説明してきたこれまでの大勢のなかで、中国文献の影響をかんがえる田中貴子氏の卓抜な論があります(「『付喪神記』と中国文献―「器物の怪」登場の背景をなすもの―」『説話文学と漢文学』汲古書院、一九九四年)。

 田中氏はつぎのようにいいます。

  1. 『付喪神記』冒頭にいう『陰陽雑記』は漢籍文献に典拠をもとめることによって信憑性を高めようとする仮託の可能性がつよい
  2. 中国の六朝時代の志怪小説『捜神記』巻十二の「天には五つの気があり、それが変化して万物が形成されるのである……いやしくも天から気をさずかれば、かならず気がともなう。いやしくも形があれば、かならず性質が生ずる」、巻十九の「六畜(牛、馬、羊、犬、鶏、豚)から亀、すっぽん、草木の類にいたるまで、年老いたときはすべて神が宿って怪異を働くものだ。だからこれを五酉という。五酉とは五行それぞれのこのようなものが生ずることを意味するのであって、酉とは老年のことだ。すべて年をとれば怪異をおこすが、殺してしまえば、それで終りとなる」などの主張には『陰陽雑記』の引用ときわめて近い思想がうかがえる。
  3. 巻十二の中略した部分には春分秋分が物の変化する時分であると記されるが、これは『付喪神記』のなかで古文先生が説く「すべからく、今度の節分を相待つべし、陰陽の両際、反化して、物より形をあらたむる時節なり」という変身の論理と類似する。
  4. 『付喪神記』上巻末尾には、妖怪たちが人間の楽しみをすべて味わいつくそうと詩歌の会をもよおし、絵合わせ、博打、碁などをおこなう。これと類似の場面が『太平広記』の「姚康成」、「元無有」にみられる。鉄銚子、笛、箒、杵、灯台、水桶、こわれたこじりなどが空家でひそかに詩の会をもよおし、人にみられてしまう。

 以上の田中氏の説は納得できます。『捜神記』が『付喪神記』の直接の典拠であったとはいえませんが、年を経た器材類に精霊がやどり怪異をはたらくという思想の母胎が中国にあったという事実はうごかないとおもいます。

 私はさらに道具の妖怪中国先行論を補強するために以下の3点の理由をくわえます。

一 道具の妖怪の出現は中国がはやく、種類もゆたかであった。(実例はのちに紹介します。)

二 道具の妖怪誕生の思想的母胎となった非情成仏や五行化成の観念は中国ではやく生まれて日本へも伝来した。非情成仏は、草木国土ど情をもたないものであっても、みな成仏するという思想であり、天台宗の中心となる世界観で、ことに中国唐代の天台僧湛然がその著『金剛(金扁に卑)論』で強調するところである。その思想が日本にもはいって、草木成仏、草木国土悉皆成仏という表現ともなって、たとえば謡曲『芭蕉』『定家』などにもみえている(新川哲雄「『草木国土悉皆成仏』について」『研究年報 29』学習院大学文学部、一九八三年)。

三 道具の妖怪という観念は朝鮮半島にも存在する。これは日本から伝来したとも、朝鮮半島で誕生して日本に伝来したともかんがえられず、中国で形成された観念が朝鮮や日本へ伝来したとみるべきである。朝鮮では、広義の妖怪である鬼が無生物から生じることがあるとして、つぎのようにいう。「人間以外の生物が鬼になるのは、その寿命が長くなって人との接触が多くなったもの、あるいは人から苦痛をあたえられたものが、精気がこってたたりをする鬼になる。無生物、たとえば家具、器具などが鬼となるのは、その使用期間が長くなったもの、あるいは人体にふれたもの、ことに人の血、汗などにふれたものが鬼となる。これらの無生物が鬼になるのは、そこに鬼がやどったためとも、それらの無生物にも精霊が存在し、その精霊が鬼になるのだともかんがえられる。」(『朝鮮の鬼神』朝鮮総督符)

 紀元10世紀の末、中国宋代の人李ムが太宗の命令で編集した説話集『太平広記』に登場する道具の妖怪のほんの一部をつぎにひろいだしてみます。

 しゃもじ 枕 漆塗りの撞木 箒 靴 皮の袋 鐘 人形 陶人形 塑像 車輪 扉の板 木杵 燭台 水桶 われ鍋 木の柄杓 毛筆 漆桶 鼎 酒甕 鉄杵 甑 銚子 笛 将棋盤 簪

 まだまだ多くの例をあげることができます。ほとんどあらゆる器物が妖怪になっていることがわかります。つぎに見本として一話だけ、『太平広記』巻365から「動きまわる炊事道具」を紹介しましょう。

 唐の時代のこと。陽武侯鄭(糸扁に因)は罷免されて、嶺南の節度使に左遷され、のちにまた都の吏部尚書にもどされ昭国に住んでいた。鄭(糸扁に因)の弟の鄭?はそのとき太常少卿をつとめていた。

 兄弟二人が家にいて、厨房で食事の準備がされていたとき、竈のうえの飯鍋が自然にカタンカタンと音を立てて竈から一尺もはなれてうごきまわった。傍に十数個の平鍋があり、なかの食物はみなよく煮えていた。これらの平鍋もすべてみずからうごき、両方の取っ手が連続して音響を立てていた。

 炊事道具はゆれうごいて一陣となり、すべてがうごきはじめた。三個の平鍋が一個の飯鍋をさしあげ、前後に一列に整列して厨房から出ていった。

 長期間ほっておかれて不用となり、足のかけた鍋や平鍋で、もともと地上に捨てられてあったものが、このときは、足をひきずったり曲がったりしながら後について厨房の門から出ていった。この一隊は、うねうねとつらなって東へむかった。

 一筋の水路をわたるとき、多くの平鍋が軽々と越えたが、いくつかのこわれた鍋は越えることができなかった。このとき、鄭家の家族はみんながただびっくりして後を見送っていた。どうしてこんなことになったのか誰にも理解できなかった。

 こわれた器具が水路を越えられないのをみた一人の子どもが「妖怪なら足が折れたって河をわたるよね」と思わずいった。河をわたりおえた平鍋がこれを聞いてささげていた飯鍋をすてて、旋回して河にもどり、二つの平鍋ごとに一個のこわれ鍋を載せてすぐに飛びさっていった。

 この鍋と平鍋の行列は、ふたたび鄭オンの家の内庭にはいってき、大小順序よくかさなった。そのとき、空中から大音響が聞こえ、その鍋の重なりがくずれてしまった。鄭氏の家で所有の鍋や平鍋はすべて黄色の土や黒い煤の塊になってしまった。

 騒ぎはおさまったが、誰も原因を説明できなかった。数日して鄭オンは死に、間もなく鄭(糸扁に因)自身も後を追ったという。

 まさに日本の百鬼夜行そのものではないでしょうか。

 今回はこの辺で失礼します。


諏訪春雄通信 TOPへ戻る

TOPへ戻る