諏訪春雄通信 78
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今回は、私たちが3月24日(月曜日)から調査した金砂(かなさ)田楽の話をしましょう。
金砂田楽というのは、茨城県久慈郡金砂郷町の西金砂神社と同郡水府村の東金砂神社の祭礼です。最大500人規模の行列が、72年ごとに1回、日立市の水木浜まで渡御する磯出大祭礼のさいに、各地で演じる田楽に注目した名称です。
平安時代の仁寿元年(851)にはじまって、今年平成15年で17回めだといわれています。JRの吊革広告、テレビ、新聞などが報じていましたので、ご存知の方も多いとおもいます。
大祭礼は、出発してから神社にもどるまで、7日間かかり、ご神体をのせた神輿を先頭にした行列の行程は往復75キロメートルにおよびます。途中、各地で神輿をすえて祭典をおこなうとともに、中染(水府村)、和田(水府村)、馬場(常陸太田市)、水木(日立市)、上河合(常陸太田市)などで、両神社の田楽(国選択・県指定無形民俗文化財)が演じられます。
祭礼のおこなわれる地域が広範囲にわたり、しかも期間がながく、神事も複雑であるために、この祭礼の全貌をつかむのは容易ではありません。いろいろな解説書の類(「特別展 磯出と神幸」常陸太田市郷土資料館、志田淳一『金砂大祭礼の歴史』茨城新聞社、他)も読んでみましたが、歴史や行事の解説をするだけで、本質を指摘した解説は皆無でした。
私も、じつは24日の午後、西金砂神社の行列についてまわっただけで、用務のためにその晩にはもう帰京しましたので、主要な祭礼行事はまったく見ていません。ただ、入手した資料を総合してかんがえると、この大祭礼の本質をとらえるキーワードは、神の還暦、神輿渡御、田楽の三つにまとめることができます。
神の還暦から説明します。金砂田楽は、磯出大祭礼とよばれるように、72年ごとに、両神社のご神体が日立市の水木浜で浜降りすることが、祭礼の最大の目的です。浜降りは海岸に出て潮水をあびる神事または行事で、神と人と両方があります。神の浜降りは、東日本の太平洋岸にひろくみられ、海水の浄化力によって蓄積した神の穢れをはらい、再生力によって弱体化した生命力を復活させることに目的があります。
なぜ72年めごとなのか。両金砂神社の祭神については、オオムナチノミコト、日吉権現など、各種の説がありますが、江戸時代、佐竹藩や水戸藩の庇護をうけているうちに、吉田神道(唯一神道)の影響をうけるようになりました。
吉田神道は中世末に吉田兼倶(かねとも)のとなえた神道の流派です。この流派では、人を守護する72神という思想があり、72を聖数として重んじます。この思想にもとづくという考え(前掲志田説)は説得力があります。
しかし、本質は神の還暦です。人は60年で自分の生年月日の干支にもどり、生命力を更新します。おなじように、両金砂のご神体も還暦をむかえ、神社創設の始原の時間にもどるのですが、吉田神道の教説にしたがって60ではなく72がえらばれました。そのさい、両金砂の祭礼についての信頼できる資料が近世以降にしかあらわれないという志田氏の指摘は重要です。
神輿渡御は、神が神社に常住するとかんがえられるようになった段階で、それ以前の神はうごきまわるものという観念と調和させるために生まれた祭礼行事です。したがって、神が遠方から出現する様子を神輿の巡幸として視覚的に表現します。もう一つのねらいは、神による悪霊除去、五穀豊穣、天下泰平の願いを成就することです。
巡幸のさいに常陸太田市から岡田町にむかう途中の十二丁田んぼで真弓山にむかって十二張の弓を射る神事なども悪霊除去で説明ができます。
なぜ田楽なのか。いわゆる田楽には、田植え行事とむすびついた田遊びの系統と、渡来の散楽芸をとりいれた狭義の田楽の二種類があります。後者の田楽は、はじめは専門芸人が演じていましたが、中世以降、寺社がパトロンとなり、祭礼のさいに演じられてきました。金砂田楽はこの後者の系統です。
金砂田楽は西金砂神社の「一本高足」のように古態の演目をふくんでいることが注目されますが、しかし、この田楽がいわれるように、平安時代前期までさかのぼって存在したとはかんがえられません。古くみても、中世中期以降に想定するのが自然でしょう。
このようにみてきますと、金砂田楽が平安前期にさかのぼる祭礼とはとうていかんがえられません。形式をととのえたのは近世前期、原型の成立は中世とみるべきでしょう。
あらゆる祭礼はその世界の始原の時間の再現にねらいがあります。金砂田楽も例外ではありません。祭りに参加する楽しみはその始原の時間にもどって、自己の生命力の更新をはたすことです。
凌雲鳳、石井優子、李明玉、三島まき、袁チンらの方々が今回の調査に同行されました。中国、韓国からの留学生が日本の祭祀に参加してどのように感じられたか。じっくりと感想をうかがってみたいものです。
妖怪の話は次回にのばし、今回は幽霊の話をします。『寺門興隆』という月刊誌に私が連載している幽霊学講座の二回目の原稿です。幽霊の研究からも日本人の本質がみえてきます。
幽霊学講座 U
幽霊もさまざまな体質をもっている
今回は幽霊の体質の話からはじめましょう。えっ、霊魂である幽霊に体質などあるのか、と不思議におもう方もいるでしょうが、それがあるのです。所詮幽霊とはいっても、この世の人間の想像力の影響をまぬがれることはできません。
幽霊は足がないだけではなく、腰から下もありませんでした(太平百物語)。しかし、出現するときにカランコロンと下駄の足音をさせる亡霊もいました(怪談牡丹灯篭)。幽霊は人間の魂に形のあたえられたものですから刃も空を切りますが、切られて赤い血をながす幽霊もいました(伽婢子)。
亡霊にも嗅覚があり、生臭物、ことに魚の匂いをきらいました(雨月物語)。亡霊も喉がかわいて水をもとめました(諸国百物語)。亡霊が恐れるものは牛王の札、陰陽師の書いた呪文の札などであり(諸国百物語他)、海音如来の仏像で幽鬼の害をふせぐこともできました(怪談牡丹灯篭)。また四十九日の物忌みをした人には幽鬼も近づかず(雨月物語)、身体に法華経の経文を墨で書いた人物の姿は幽鬼の目にははいりませんでした(諸国百物語)。
幽鬼の害をふせぐには以上の方法をいくつかくみあわせると効果をあげましたが (怪談牡丹灯篭)、しかし、霊力のつよい幽霊は呪文を書いた札のバリアーをものともせずに突破しました(狗張子)。
信じていただくために実例をあげましょう。
江戸時代の前期のお話です。京都の本能寺に修行の功をつんだ立派な坊さんがいました。医学もまなんでいましたので、信者の七兵衛という人の女房の治療をしていましたが、死病であったせいか効果もなく、ある日、髪の毛を逆立て顔が真っ赤になり、三日後になくなりました。
それからさらに三日後の晩、その僧が書物を読んでいますと、夜半に物音がしました。「泥棒」という声がしましたので、僧が駆けつけますと、台所で二人の寺男が震えていました。「七兵衛の女房がきて、喉がかわいた、水を飲ませよといったので、あまりの恐ろしさにそこに水があるから飲めといったら、水桶から杓子で水を飲みました。その後は知りません」といった。そのことばどおりに流しに水がながれ杓子が捨てられてあった。(『諸国物語』巻一)
幽霊の能力にも限界があった
幽霊といえば超能力ということになりますが、かならずしもすべてがそうではなく、意外にも、彼らの能力にも限界がありました。ここでは幽霊のさまざまな能力についてのべます。
幽霊は一日に千里を行くこともできましたが(雨月物語)、しかし、遠くへ行くために馬などの乗り物に乗ることもありました(諸国百物語)。死んだときの姿をそのままにとどめて成長もしなければ老いることもありません(雨月物語)。そのために長生きした妻と不釣合いになり、のちに死んだ妻といっしょにこの世に出現してきたときには、夫は二十四、五歳、妻は六十歳あまりということになりました(反古の裏書)。
懐妊したままで死んだ女の幽霊は自分の力で胎内の子を産みおとすことができず、とおりかかった知らない男に自分の腹をつきやぶってくれるようたのんでいます(太平百物語)。しかし母親の亡霊はこの世にのこした自分の子に乳を呑ませることができます(伽婢子)。また幽霊となった女が現世の男につれ添ってその男の子を産むこともありました(諸国百物語)。
その幽霊がまだ生きていると信じている人の眼には生前の姿を見せますが、すでに死んでいることを知っている者の眼には骸骨だけが映りました(三十石舟登始(よふねのはじまり))。恨みのある主人にだけ血しぶきの怪異を見せる召使の女幽霊もいました(太平百物語)。幽霊が現世に出現することができるのは中有にとどまっている三年の間だけで、その期間がすぎると、それぞれの業因によってどこかの世界に配属されました(伽婢子)。亡霊は現世の人の口を借りて意志をつたえることができました(太平百物語)。また他人の身体を借りて生まれかわることもできました(新説百物語)。自分の血を酒に変えて売る幽霊もいました(近代百物語)。
ここでもう一話例をあげましょう。江戸時代の始めのころの話です。
瓢齊という世に隠れ住んでいる人がいました。ふとおもいたって陸奥の名所を見物しようと、都を出て東海道を下ってくると箱根の山中でおもいもかけず、日が暮れてしまいました。道にまよって人のとおらない所へ出てしまいましたが、ちょうど一軒の酒店がありました。まず酒でも飲んで道をたずねようと、店にはいって「酒をくれ」というと、しばらくして一人の女が中から酒をもってきてくれました。
その酒の色は真っ赤で味も格別でした。飲みおわって「もう銚子一本もってきてくれないか」というと、女はいきなり泣きだしました。「酒をこれ以上もとめないでください。私はこの世にいたときは好き勝手に贅沢をして、毎日酒を飲んですごし、世間の迷惑もかんがえませんでした。そのため、死んでこの報いをうけています。酒を買う人がいると私の身体のなかの血をしぼって売っています。この苦しみをあわれんでください」といいました。
瓢齊はおどろき、また恐ろしくなって走りだし、ようやく本道に出てみると、陽はまだ高いではありませんか。人にこのことをかたっても、その場所を知る人はいませんでした。(『近代百物語』巻二)
哀しくもおかしい幽霊の性癖
幽霊にも趣味の持ち主がいて、笛を吹いたり(諸国百物語)、相撲をとったり(諸国百物語)、また腰元と生前にあそんだ双六の面白さがわすれられず双六をうつためにわざわざこの世にあらわれる奥方の幽霊もいました(諸国百物語)。
あの世で財産をもっている幽霊もおり、物事をたのんだ礼金として黄金十枚くれたり(諸国百物語)、あらかじめ木の根元に埋めておいた百両で自分の後の弔いを依頼したりします(諸国百物語)。財産をもたない貧乏な幽霊は生前の自分の家にともない、自分の供養のためにそなえられた食物を馳走して謝礼としています(雅俗随筆)。
死ぬ瞬間の執念がそのまま死後の幽霊の最大関心事になるため、その執心をはらしてやると幽鬼は成仏します。和歌の下の句ができないままに死んだ亡霊が下の句をあたえられて成仏し (譚海)、皿の数をかぞえる亡霊に不足する数を足してやるときえてゆく(皿屋敷弁疑録)のはそのためです。
幽霊は率直で信じやすい性格の者が多く、そのために死ぬ瞬間につかれた嘘を亡霊になっても見やぶることができず(水木辰之助餞振舞)、現世の方便のことばも容易に信じます(桑名屋徳蔵入船物語)。気丈な人間のまえからはすぐ姿をけしますが、気のよわい人間には執念ぶかくつきまといます(好色芝紀島物語)。
例話をあげましょう。
吉原の遊女屋三浦屋のやり手のお玉は使用人の源四郎としめしあわせて、客の刀屋手代から五十両の金をぬすみとり、その罪を遊女の敷島になすりつけました。二人は主人の留守に敷島をせめころし、その死骸を葛篭にいれて大川にながしました。その悪事がばれて三浦屋をおいだされ、深川の洲崎で夜明けを待つお玉と源四郎のまえに敷島の亡霊が出現します。
お玉「意気地のねえ男じゃねいか。」
源四郎「それだって出たものを。」
お玉「何が。」
源四郎「幽霊がよ。」
お玉「それがおまえ怖いのか。」
源四郎「怖くねえこともねえ。」
お玉「それじゃ円朝の話は聞けねえよ。」
トこのとき薄ドロドロにて船のなかへ陰火もえる。
源四郎「それそこへ陰火がもえた。」
トお玉見て、
お玉「煙草入れかしてくんな。陰火をかりて一服のもう。」(『好色芝紀島物語』)
幽霊が好きだという人はあまりいないとおもいますが、どうです、こんな幽霊の性癖を知ってみると、怖さがすこし薄れてきはしませんか。
幽霊はどんなあらわれ方をするのか
今回の私の講義もいよいよ佳境にはいりました。これからの私の話を知っていますと、幽霊の嫌いな方はうまく避けることができますし、少数派の幽霊好きの人は最良の逢い方ができます。
幽霊が現世の人に依頼や要求をするときは直接姿を見せるのがふつうですが、夢の中にもしばしば出現しました(英草紙)。現世の人にとりついてその口を借りることもありました(死霊解脱物語聞書)。
幽霊が出現するときは赤い怪光を発するか(狗張子)、青い火をともないました(歌舞伎の焼酎火)。鼠や蛇のような使いの獣を先駆としてこの世におくったり、手だけを出現させたりすることもありました(東海道四谷怪談)。
幽霊の出現する場所はまず墓場です。これは死者がそこに眠っているのですから当然です。
つぎに多いのが川、滝、海などの水辺です。私は、今、東京都台東区谷中の全生庵が所蔵している五十幅の円朝旧蔵幽霊画コレクション(『全生庵蔵・三遊亭円朝コレクション 幽霊名画集』ペリカン社、一九九五年)を眼のまえにして講義しています。このコレクションにはたくさんの水辺の幽霊をえがいた絵があります。
なぜ水辺に幽霊はあらわれるのでしょうか。
精霊ながしという民俗行事があります。盆に家々にむかえた先祖の霊をおくりかえす行事です。旧暦では七月、新暦では八月の十五日か十六日、辻、村境、川、海などで盆棚にそなえてあった仏への供物を水にながします。
みそぎという民俗行事があります。海や川の水で体を清め、罪やけがれをあらいながします。
この二つの民俗行事は共通の観念にささえられています。海上や海中、山中や山上に先祖の霊がすむ他界が存在するという水平他界の観念です。川や海辺はその他界へ通じる路であり、川水や海辺はその他界に先祖の霊や罪・けがれをはこぶ運搬力です。罪やけがれは他界で先祖の霊が浄化するのです。
幽霊が水辺によくあらわれるのは、仏教の地獄・極楽の他界観とはべつに日本人のなかに生きのびている水平他界観がはたらきかけ、亡霊は水を通路として往来しています。
全生庵の幽霊画には樹木、ことに柳を描きそえたものがみられます。もともと樹木は山の生命力を象徴するものとして神そのものとかんがえられていました。つぎの段階として、自然物の霊魂がうごきまわる段階がきたときに、神としての樹木はそうした霊魂のよりつく依代とみなされるようになりました。亡霊もまた霊魂として樹木によりつくのです。
樹木のなかでも柳はとくに幽霊とふかい関わりがあります。死者供養の塔婆に柳をもちいる風習はひろくみられるし、その木が根づけば死者の生まれかわったしるしとする俗信も山梨県などにみられます。さかのぼれば、中国でも墓地に柳をうえ、死人をほうむる棺や霊柩車は柳でつくります。日本で柳の木の下に幽霊の出現する例は中世くらいまでしかさかのぼれないことをかんがえると、柳の木と亡霊をむすびつける習俗は中国でじまって日本へ伝来したのではないでしょうか。
幽霊はまた行灯や火をたよりに出現します。そうした絵も円朝コレクションに多くみられます。
灯火や火もまた霊魂をまねく依代です。もともとは太陽にたいする信仰が変化したものです。闇を追放する光明、生命を生みそだてる力、火の浄化力などが太陽に象徴され、依代に変わっても、同一の信仰が灯火や火に付与されました。幽霊は灯火を頼りに他界から出現し、火や灯火の明るさにみちびかれて他界にかえってゆきます。
火はまた地獄で亡者を責めさいなみます。火の浄化力が罪をおかした亡者にとっては責め苦になるのです。亡者が現世に幽霊として出現するときには、この地獄の業火が彼らにつきまとってきます。陰火とよばれるものは、この地獄の業火です。
今回の講義には、皆さんが幽霊とつきあってゆくノウハウを盛りこみました。次回は、またべつの視点から幽霊の特性をあきらかにしましょう。
私は、自分の学問の方向は日本人と日本文化をあきらかにすることだと決めています。幽霊や妖怪の研究もその一貫です。
今回はこの辺で失礼します。