諏訪春雄通信94
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NHKのBSテレビの番組制作会社AMAZONから、今年の冬に放映される「江戸開府400年」の記念番組の一つに『東海道四谷怪談』をとりあげることになったので、ぜひお話を聞きたいという連絡があり、7月17日(木曜日)、私の研究室でお逢いしました。倉内均さん、戸ノ嶋清信さんという担当の二人がお見えになり、1時間半にわたってご質問をうけました。その間、二人は克明にメモをとっておられました。
ねらいは、作品論ではなく、記念の歴史番組の一つとして『四谷怪談』をとりあげる意義と構成の仕方を、私の話からさぐり出そうということでした。そのために、詳細な場面割と梗概をしるした資料を用意してこられ、まず、第一場の浅草境内の場面からはじまって最後の蛇山庵室まで、遂次その意味を聞き出すというものでした。
浅草境内の場面について私はつぎのようなことを強調しました。
とりつぶされた塩冶家の浪人でありながら、主君の仇討という古いモラルにしばりつけられている四谷左門とどん底からどんな手段ででも這い上がろうとあがく伊右衛門という対照的な生き方の二人の人物を登場させる。この二人に今をときめく高野家重臣伊藤喜兵衛をくわえた三人は、全体として士農工商の階層秩序が崩壊した文化文政という時代の武士の生き方の三つの典型である。
左門が非人仲間から乱暴されるのは階層秩序転倒の象徴である。
武士ことば、上方下層町人ことば、上方上層町人ことば、非人ことばなど、多様な言語がこの場面で使用されているのは、当時の江戸の盛り場の言語状況の活写であり、そのなかで、18世紀半ばに成立していた江戸語が基本語となって、この芝居をうごかしてゆく。
全体として高野、塩冶両家の関係者が登場し、この芝居の時代背景となる『忠臣蔵』の「世界」が、文化文政期の江戸とかさねあわせて提示されている。
つぎの藪の内地獄宿の場面ではつぎのようなことをのべました。
この芝居をうごかすモチーフの一つ、女性原理と男性原理の対立、忠義・正義に代表される伝統的モラルと強者生存の新しい本能的生き方の対立という、二つの葛藤がここで提示されている。
お岩伊右衛門の陰画であるお袖権兵衛の男女の関係が説明されている。
武士階級出身でありながら最下層の売春婦として生き、しかも許婚のために操をまもろろうとするお袖は、古いモラルと新しい生き方にひきさかれる矛盾を一身に背負った人物である。
こんな具合に全部で13の場面の解説をおこないました。さいわいに『東海道四谷怪談』についてはいくつも論文や解説を書いており、講義や演習でも何回かとりあげたことがありますので、時折はさまれるお二人の鋭い質問が格好の刺激となって、まったく新しい見方を展開することができました。私にとっては高度に知的で充実した時間でした。
いま、『四谷怪談』をとりあげる意味を私はつぎのようにまとめました。
幕藩体制がくずれかかってまだ新しい秩序が見えてこない崩壊感覚が『四谷怪談』の時代背景にある。この感覚は科学や合理尊重の近代が崩壊して、非合理や反理性への関心が高まってきても、まだ安定した秩序を生んでいない現代人の感覚に通じる。
『四谷怪談』は男性原理(現世、昼、正義、精神など)にたいする女性原理(他界、夜、本能、肉体など)の痛烈な復讐の物語である。現在の日本では大人の原理(光、昼、秩序など)にたいする子どもの原理(闇、夜、本能など)の攻撃がはじまっている。女性原理の復讐開始のサインは一本の手や巨大な鼠である。最近の長崎事件ほかの未成年犯罪は子ども原理からの攻撃のサインである。
『四谷怪談』で、亡霊、殺し、近親相姦などの異常事件は、当時の朱引き図の周辺、つまり大都市江戸と関東の境界に位置する周辺部でおこっている。この作品では、異常は日常を補完する機能をはたしている。現在では事態はさらに進んで、異常事件は、日常と非日常の境界から、しだいに日常に侵食してきている。しかし、対処の仕方にもよるが、異常が日常を補完するという機能はまだ完全にうしなわれてはいない。
最後に戸ノ嶋さんからむずかしい質問をうけました。『四谷怪談』時代の怖さと現代の怖さは同じか違うか、という問題です。そのとき、じつは、私はうまく考えを整理できず、違うでしょうとだけいって、その内容をぼかしてしまいました。
『四谷怪談』の怖さは大衆が共有する公の恐怖であるのにたいし、現在は、個人が独自に感じる私の恐怖である、とそのあとにかんがえました。それはまた、非日常の恐怖にたいする日常の恐怖と、いいかえてもよいでしょう。
7月13日(日)の大会「東アジア演劇の形成と展開」は、手前味噌ではなく、充実した内容で終始しました。たくさんの収穫を得ましたが、そのなかから一つだけ、もっとも大切な成果をあげておきます。
最後のシンポジウムでの慶応大学の野村伸一さんの発言がきっかけでした。朝鮮半島の演劇が仮面遊びや人形遊びなどで、成熟した形をみせてきたのは13、4世紀であり、その引き金となったのは、民間のシャーマンによる死者供養、亡霊追善の鎮魂儀礼であったという指摘です。
この指摘は、そのまま日本の能や民間神楽の成立にあてはまります。時代もぴたりとかさなります。
しかし、能の誕生については、当日の講師の一人山路興造さんの、猿楽の滑稽伎をそのままに継承した滑稽劇や物まね劇が能の原型であり、死者供養の夢幻能はそののちにくわわってきた演目であったという、有力な反対意見があり、当日も強調しておられました。
私は、じつは、はやく『日中比較芸能史』(1994年)におさめた「日中韓の仮面劇」(初出は1990年)という論文で、この問題をとりあげていました。そこでは、東京大学の松岡心平さんの、死者追善の夢幻能こそが能の原型であり、その背景には、猿楽能の連中が勧進能の場で死者供養の劇や地獄劇を演じていたという状況があったという説によって、中国では12、3世紀の宋代から、日本や朝鮮では、遅れて14西紀ごろから、儺の変質にともなって、劇的なものの誕生がみられたという論旨を展開していたのです。
しかし、こうした説は日本の芸能史や演劇史の専門家からはとりあげられず、わずかに松岡さんが、能楽の研究者として、この方向で能の成立を解明しようとされているだけでした。
東アジアの演劇が個々バラバラに発生展開したのではなく、中国大陸にはじまって、その影響が、朝鮮半島や日本に波及したという、私のえがく大きな見取り図に、具体性をあたえられたという点で、今回の大会は真に意義のあるものだったといえます。
以上の問題に関わりをもち、また当日のシンポでも重要な話題になった、中国における道教と仏教の関係、目連戯について、私の考えをつぎにまとめておきます。「である」調であることをご容赦ください。
泰山信仰にみられるような道教系の他界観が、仏教の地獄・極楽観の浸透をうけたときにどのような変化をうけるか。以下、中国の代表的な亡霊劇「目連戯」によって、中国人の完成した段階の他界観を検討してみる。
目連戯は、釈迦の十大弟子の一人で神通第一の人といわれた大目ケン連(だいもくけんれん)が餓鬼道におちた母を救済したという伝説を劇化したものである。紀元前三世紀のころの西晋の人竺(じく)法護(ほうご)訳とつたえられる『仏説盂蘭盆経』によると、彼は母をすくうため、釈迦の教えにしたがって毎年七月十五日に七世にまでさかのぼる父母と現在の父母のために百味五果のご馳走をそなえ、あわせて多くの僧を供養する盂蘭盆の行事をはじめたという。いわゆる盆行事である。中国では、西暦五三八年、梁の武帝の大同四年にはじめて制度化され、宋元の時代にうけつがれた。
はじめ、仏教の法会としてはじまったこの行事は道教の教理にもとりいれられ、中元節(鬼節)として中国社会に根をおろし、朝鮮や日本にも伝来した。
目連の救母伝説はこの盆行事とむすびついて、主として仏教の僧や道教の道士たちによって内容が拡大増補されていった。その源流となったのが敦煌から発見された七世紀はじめの成立の『仏説浄土盂蘭盆経』であった。
唐の時代に世に流布した講唱用の変文『大目乾連(けんれん)冥間救母』、『大目連縁起』などがその影響下に生まれ、芸能や演劇の題材にもなって、多くの目連劇がつくられた。目連伝説が十二世紀の初め、北宋の時代までにすでに完全な劇としての形をととのえていたことは、北宋の人孟元老の著作で、首都の繁栄ぶりをのべた『東京夢華録(とうけいむかろく)』の中元節の記事に、
劇場の役者は、七夕が終わってからのちずっと『目連救母』の芝居を上演し、十五日で打ち上げるが、この日は倍以上の入りがある。(入矢義高・梅原郁訳注『東京夢華録』岩波書店・1993年)
とあることによってあきらかである。
目連劇には中国人の多様な精神構造が表現されている。なかでも注目されるのは、神、人、死者(鬼)の三者がつくりなす天、地、地下の三つの世界の交流の様である。
現在、福建省の仙游県の鯉声劇団が上演している『目連救母』について具体的にその間の関係をみてみよう(拙稿「写真特集福建省の目連劇」『日中文化研究2』勉誠社、一九九一年)。
主人公の傅羅卜のちの目連の父の傅相は仏を信じる心があつく、人びとに施しをしてひろく仏縁をむすんでいた。世尊(釈迦)は弟子の地蔵を老僧に化身させて傅相の素行を調査させる。また、十八羅漢もいろいろな乞食に化身しておとずれ、施しをうける。
ここに登場するのは仏教の仏たちである。釈迦の居処は西方極楽浄土になっており、通常の仏教の教理にしたがっているが、人間の信仰心にふかい関心をもち、積極的に人間界と交流しているところには、仏の神化とでもいうべき現象がみられる。仏が容易に人間に化身するのも興味ぶかい。
羅卜の母劉四真の弟劉賈は欲ぶかい男で借金のことで有人の王十万とあらそった。二人の争いは役人のもとにもちこまれたが、たがいにいいつのる二人をさばきかねた役人は、二人を五帝廟にゆかせ、鐘をつかせ、音響によって神意を問うことにさせた。劉賈は神を買収して首尾よく王十万から証文をとりもどすことができた。五帝は五人の天帝、五人の聖帝、五行の神などの各説があるが、いずれにしても神である。その神が劉賈のような欲ぶかい男に買収されて判断をかえるのであるから、きわめて人間臭い存在である。
父傅相が亡くなり、母の劉四真は服喪しようとしたが、おとずれた劉賈は姉に破戒して酒肉をたべることをすすめる。二人の議論が白熱化するにつれて二人の背後にはそれぞれに潔斎の神と酒肉の神があらわれて応援する。神が視覚化されて現前している。劉四真は弟のことばを入れて破戒する。
召使の銀奴は主人の破戒をいましめ、かえってはげしく打擲され、死を決意した。彼女の背後には彼女の魂が幽鬼となってあらわれ、彼女を地獄へつれさろうとしてその首括りの手助けをした。この幽鬼を中国人は「影」と表現する。「影」は背後にあって、その死の意思を具体的な行為として表現する。形態をもった遊離魂である。
劉四真の破戒の行為はすべてを見とどけた土地神から天上の最高神玉帝に報告され、玉帝の命令をうけた五殿の閻羅王は五方鬼らを劉四真の捕縛にさしむけた。
閻羅王は閻魔王のことである。十王信仰にもとづいて、地獄を支配する十王のうち、五番目の宮殿を支配するとかんがえられている。五方鬼は東西中南北の五つの方角にいる神である。彼らが劉四真を逮捕する様子は民間の習俗を反映している。鬼たちが組みあってつくった馬に鬼王が乗り、白無常、黒無常とよばれる人間の魂を拘束する鬼を先頭にしておとずれてくる。彼らは「劉四真を捕らえる」と大書された白紙をもっている。
劉四真の体の穴から魂がぬけ出、手足がふるえだした。鬼たちに打ちすえられて、口から血をはきながら地獄へつれてゆかれた。羅卜は釈迦から衣鉢と錫杖をあたえられ、地獄におりて母をさがしまわった。阿鼻地獄で盲目の母とあうことのできた羅卜の目連は母を開眼させた。閻羅王は劉四真らを畜類に転生させたが目連は餓鬼をすくう盂蘭盆会を盛大にもよおして母たちを昇天させた。
この目連劇から読みとれる神・人・鬼(死者)の関係はつぎのように整理される。
基本的な構造として、神は天、人は地、鬼(死者)は地下にいるという、三層の宇宙観をみとめることができる。天にいる最高の権力神を玉帝(正式には玉皇上帝、ほかに元始天皇、昊天上皇などもいう)といい、その下には三官、雷神、雷母、金童、玉女、帝釈天、韋駄天、観音菩薩、羅漢などがいる。地には人のほかに人の行動を監視する土地の神がいる。地獄の閻羅王をはじめとする白無常、黒無常、五方鬼などの鬼たちは地下に住んでいる。この地下の鬼たちは天の玉帝の支配下にあり、玉帝の命令をうけて、やはり地下へおとずれてくる死者たちをさばき、地獄に拘束する。
このような道教的な垂直宇宙観が目連劇の基本的な世界像とみられるのであるが、これと交錯するのが仏教的な水平宇宙観である。
目連劇の世界で玉帝とならんで大きな権力をもっているのが世尊つまり釈迦である。釈迦は地蔵菩薩や十八羅漢をこの世へ人間に化身させて派遣し、傅相らの行動を視察させている。目連の母が地獄へつれさられた直接の原因は彼女が夫の喪に服さずに破戒の行為をしたという仏教の戒律に違反したことであった。傅羅卜が母をすくうために目連となって地獄を遍歴してまわり、盂蘭盆会をもよおしたのも釈迦の教えにしたがったものであった。
釈迦のいるところは西方極楽浄土であり、そこから仏たちが現世にあらわれることは「東土へ往く」と表現されている。あきらかに水平宇宙観である。しかし、目連劇の世界では道教と仏教が複雑に習合し、主として道教に由来するとかんがえられる垂直宇宙観と、主として仏教に由来するとみられる水平宇宙観が交錯し、その結果、玉帝と釈迦は並立する権力としてその主権を共有している。玉帝の支配下に帝釈天、韋駄天、観音菩薩などの仏教系の神や仏がいるのもそのためであり、仏教の戒律にそむいた人々を玉帝が監視し、きびしく罰をあたえるのもおなじ理由である。
全体として中国では固有の道教が伝来仏教よりも幅ひろい分野を包括しているために、両者が習合しているとはいっても、道教系の玉帝の支配が民衆の生活にふかく浸透している。
やや楽天的な道教系のあの世観が、仏教の見方をとりこむことによって、かなりきびしい悲観的なあの世観にかわっている。死者がこの世の善悪の行為によって地獄と極楽にふりわけられ、地獄におちた亡者が十大地獄をへめぐって責め苦をうけるという観念も主として仏教のもたらしたものであった。しかし、他方、目連劇で地獄におくりこまれる人間が雷にうたれて死者としてつれさられるばあいと、生きたままでつれさられるばあいの両例があるのは主として道教系の観念である。
以上です。先行して紀元前から道教信仰が流布していた中国社会に、紀元後に佛教がはいってきました。有力な二つの宗教がどのような形で、中国人の精神生活に共存していったかがよくわかります。
つづいて朝日生命が発行している経営情報マガジン『月刊 ABC』からインタビュー取材の申し込みをうけています。テーマは「葛飾北斎」、日時は7月28日(月曜日)午後2時からです。この北斎論でも、私は、独自に中国や韓国を視野に入れてかんがえ、『北斎の謎を解く』(吉川弘文館、2001年)をあらわしています。インタビューの顛末はまたこの通信で報告しましょう。
東アジア社会を縦横にかけめぐりながら論理をくみたてるのはじつに楽しいことです。まさに学問の醍醐味そのものです。
今回はこの辺で失礼します。