諏訪春雄通信96
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7月28日(月曜日)午後2時から、朝日生命の企業誌『月刊ABC』編集室の天野美穂さん、ライターの宇佐美雅彬さん、ほかにカメラマン1名の訪問をうけ、同誌連載の「彼の人に学ぶ」でとりあげる葛飾北斎についてのインタビューが2時間にわたっておこなわれました。
ライターの宇佐美さんが質問し、私がそれにこたえ、のちに宇佐美さんが文章化するという手順でした。
この企画は最初、作家の高橋克彦さんが候補にあがり、高橋さんが私を推薦したようでした。私が2001年に吉川弘文館から刊行した『北斎の謎を解く』を読売新聞の書評欄でとりあげ、絶賛してくださったのが高橋さんであり、その縁で今回も推薦してくださったものでしょう。
同書で私が強調したことは、彼の生涯で百回近くの転居、四十種近くの画号の変遷、奇矯な言動、中期以降の画題の選択、画風の変化などが、すべて北斎の神仙思想、道教信仰で説明できるという趣旨でした。そのために、私は中国にはじまって、韓国、台湾などの道教信仰を調査し、その成果を本書に取り入れています。今回のインタビューでも、もちろん、そのことを中心にのべました。
しかし、今回、宇佐美さんの質問をうけて、こたえているうちに、さらに、
18世紀半ば以降の日本文化に神仙思想ブームがおとずれた。
北斎晩年の画風に漢画が大きな影響をあたえた。
北斎晩年の画風は写実ではなく写意または写神である。
などの重要な考えに到達することができました。すぐれたライターの職業感覚に触発された結果でした。以上のうちの1など、今後さらに追いかけたいテーマです。
研究室でインタビューをうけていたときに、桃山学院大学名誉教授の沖浦和光先生から突然に電話がありました。用件は、アジア文化の事務局から依頼していた会報の最終記念号の原稿がすこしおくれるという伝言でしたが、先生のことですからそれだけではおわりません。現在執筆中の本の話が長々とつづき、インタビュー中の私は電話を切るきっかけをみつけるのに苦労しました。
しかし、先生の執筆テーマはさすがに眼のつけどころがちがいます。安倍晴明一族が渡来氏族であったというものです。私も『安倍晴明伝説』(ちくま新書)を執筆したときに、その可能性がちらと頭をかすめなかったわけではないのですが、陰陽道という職掌と聖神社を介して、渡来民や被差別民の支持をうけたとのべるにとどめ、安倍氏がもともと渡来氏族であったとまでは書きませんでした。
安倍氏が渡来氏族であったとすると、陰陽道の歴史の新しい展開がみえてきます。
先生の論旨の重要な部分は会報最終記念号に書いてくださるとのことですから、ご期待ください。
今回は鬼についてかんがえます。日本の鬼はかんたんに正体をつかまえさせません。私は、日本の鬼をとらえるためにまず中国の鬼について検討します。
【鬼とは何か】
鬼は一般的には妖怪のなかにふくめられている。幽霊を妖怪のなかにふくめる研究者は当然であるが、幽霊と妖怪をわけてかんがえる学者でも、鬼は妖怪にふくめている。しかし、鬼は死者でもあるし(幽鬼など)、生者(酒呑童子など)、人でもあるし(安達原の鬼女など)、人以外の存在でもある(天邪鬼など)。あきらかに妖怪と幽霊の二つの性格がかさなりあう存在である。
こうした両者をあわせた性格をもつという本質は中国の鬼をかんがえるといっそうあきらかになる。本書で妖怪や幽霊と鬼を別枠であつかう理由である。
とらえにくい鬼の本質
一九九四年三月に刊行された雑誌『フォークロア』(本阿弥書店)の特集「春来る鬼」で「鬼とは何か」というテーマで文化人類学者の小松和彦氏と対談した民俗学者の宮田登氏は、節分のときに「鬼は内、福は内」ととなえる地方のあることを例にあげて、鬼は善悪両面をもつ両義的な存在であると主張している。日本の民俗学は柳田国男以来伝統的に鬼に悪神だけではなく善神としての性格をもみとめる傾向があり、宮田氏の発言は日本の民俗学を代表しての発言であった。
それにたいして小松和彦氏は、「鬼というのは基本的に怖いものであり、ネガティブなものであり、そういうものとしてかんがえておかないと、わたしたちがつかっている鬼ということばの意味がどこかに行ってしまうんだとおもいます」と主張し、二人の見解は対立している。
鬼というものは悪い存在なのか、善悪二つの性格をかねているのか、もっとも基本の本質論で見解がわかれていることになる。
漢字の鬼(き)ということばにもじつに複雑な意味がある。『大漢和辞典』(大修館書店)の「鬼」の項目にはつぎの七つの意味がかかげられている。
イ 死人のたましひ。人が死ねば心思をつかさどる魂は天にのぼって神となり、形体は地に帰り、形体の主宰である魄は鬼となる。
ロ ひとがみ。人鬼。祭られた死人の幽魂。天神地祇の対。
ハ ひとがみの中、特に定められた神位を安置する場所のないもの。
ニ 冥途の中にあって不可思議の力ありと信ぜられる人格。
ホ 人を賊害する陰気、又は現体。もののけ。ばけもの。
ヘ 姿が見えなくて禍難をもたらすものと信じられる人格。
ト 想像上の生物。人形で双角あり、面貌獰悪、裸体で虎皮をふんどしとする。
鬼にきわめて複雑な意味と用法があることはわかるが、鬼の本質についてはあきらかではない。
鬼の本質については、これまでも幾人かの研究者が規定しようとしてきたが、変幻自在、なかなかその正体をつかませない。
山に住む精霊とかんがえたのは折口信夫であった(「鬼の話」一九二六年、「春来る鬼」一九三一年)。折口によれば、精霊はこの地上の村落近くの自然物のなかにひそんでいる霊魂であって、隙あらばつけ入り、災いをなす恐ろしい霊物である。神と精霊は対立する存在であり、畏怖と尊敬をもってむかえられる神と、恐怖と忌避の対象としての精霊と、その性質は異なるとはいっても、その相違は相対的でしかなく、容易に精霊が神になることもあれば、神が精霊の位置に下落することもあって、可変的であった。この眼に見えない山の精霊に形をあたえたものが鬼である。
虚空を主要な舞台とする大自然の猛威が古代人によって鬼として形象化されたとしたのは近藤喜博であり(『日本の鬼―日本文化探求の視覚―』桜楓社、一九六六年)、和歌森太郎は、本来的には荒ぶる神、人々に災禍をもたらす霊が鬼と称され、のちに死者の世界を構成する死霊としての鬼が観念されるようになったとかんがえている(「山と鬼」『山岳宗教と民間信仰の研究』桜井徳太郎編、名著出版、一九七六年)。
鬼を五つの系統に分類したのは馬場あき子氏である(『鬼の研究』三一書房、一九七一年)。
(1) 日本民俗学上の鬼(祝福にくる祖霊や地霊)
(2) 山伏系の鬼、天狗
(3) 仏教系の邪鬼、夜叉、羅刹、地獄卒、牛頭、馬頭
(4) 放逐者、賎民、盗賊などがそれぞれの人生体験ののちに鬼となった人鬼
(5) 怨恨・憤怒・雪辱などの情念をエネルギーとして復讐をとげるために鬼となった変身譚の鬼
「おに」ということばは、十巻本『和名類聚抄』によると、隠の字音のオンに母音のイを添えたものという。すなわちつぎのように説明されている。
鬼、和名於尓、ある説に曰く、隠の字は音於尓の訛なり。鬼は物に隠れて形を顕はことを欲せず、故に俗に隠といふなり。人の死したる魂神なり。
物に隠れて姿をあらわすことを欲しない、人の眼に見えないものがおにであるという趣旨である。平安時代中期、十世紀半ばのおににたいする考えがここに表現されているが、「人の死したる魂神」という説明は、のちに詳述するように中国の鬼にたいする観念が反映している。
おにということばが文献にあらわれたのは平安時代にはいってからで、右の『和名類聚抄』のほかに『竹取物語』、『伊勢物語』などにかな書きの「おに」があらわれている。
漢字の鬼の字が文献にみえはじめるのは、『出雲国風土記』の大原郡の阿用(あよ)の郷の地名の由来を説明した個所である。
昔、或人、ここに山田をつくり守りき。その時、目一鬼来りて、佃(たつくる)る人の男を食ひき。
この「目一鬼」をふつう目一つの鬼(おに)と訓んでいる。この鬼をおにと訓む確証はないのであるが、ほぼおなじころに成立している『日本書紀』の欽明天皇五年(五一四)十二月の条に「鬼魅」「魅鬼」の用例が出、古来の各種の注釈書はすべてこれをおにと訓んできている。
また、斉明天皇七年(六六一)八月の個所には、天皇の喪の儀礼を朝倉山のうえから大笠を着てのぞき見している鬼がいたという記事があり、これもおにと訓まれている。漢字の鬼におにという訓をあてる慣習は、これらの書が成立した八世紀の前半ごろから徐々に生まれつつあったとみてよい。
しかし、鬼とおには完全に一致するのではなく、両者にはずれもあったはずである。その一致とずれを検証してゆこう。
中国の鬼
中国の古代学者にとって鬼は最大の課題であった。多くの論が展開されてきた。それらを参照しながら中国の鬼についてかんがえよう。
鬼という文字は中国の甲骨文字にすでにみえている。そのいちばんはじめの意味は「人によく似た形をしている異獣」であり、その異獣は「ミ猴科の類人生物」つまり類人猿であるとする説が出されている(朱天順『中国古代宗教初探』人民出版社、一九七八年、王昭洪他『幽冥王国 鬼之謎』山西高校聯合出版社、一九九二年、など)。
漢代になるとそこから変化して、人の死後の霊魂を意味するようになる。漢代の『礼記』には「人は死ぬと鬼という」とか「衆生はかならず死ぬ。死ねばかならず土に帰る。これを鬼という」などと説明されている。また後漢時代の『説文解字』には「人の帰するところ鬼となす」とほぼおなじような説明をしている。つまり、中国で鬼というのは、はじめは異形の動物であり、のちに死人または死人の霊魂をさすようになった。
また、以上の書物とほぼおなじころの『春秋左氏伝』には「匹夫匹婦は強死(凶死におなじ)すればその霊魂はなおよく人に憑依して、もって淫獅ニなる……鬼帰するところあれば獅ニならず」とある。淫獅ニか獅ニいうのは祟りをはたらく悪鬼のことである。
ここで中国の学者をなやましてきた鬼についてのむずかしい問題が生じてくる。古代の文献がのべているところまとめると、人が死ねば鬼になり、その鬼が帰るところがないと恐ろしい悪鬼になる、ということになる。その鬼の帰るところとはどこか、という当然の疑問がわいてくる。
これについて、中国の学者の通説としては、鬼の帰るところとは祖先なのだとしている。後継ぎがなくだれも祭ってくれない鬼は悪鬼となり、後継者があってあとの祭りをしてくれる鬼は祖先になるのだという(呂理政「鬼の信仰及びその相関儀式」(台湾国立清華大学人文社会学院他主催「中国祭祀儀式と儀式戯劇研討会」一九九四年五月、提出論文)。
中国人は、祖霊になっていない鬼をつぎの三種にわけている(前掲呂理政論文)。
家鬼 新しく亡くなった人で位牌はあるがまだ葬式がおこなわれていない鬼やおなじく位牌はあるが後継者のいない鬼など。
野鬼 位牌もなく祭られることもない鬼。
視S 凶死(殺害された死)、横死(寿命でない死)、疫死(疫病による死)などで死体は外にさらされ、位牌もなく祭られることもない鬼。
中国の祭祀や宗教儀式はこれらの鬼から危険な性質を除去することを目的にいとなまれることになる。葬式は家鬼を祖霊に転化することを目的にし、野鬼や視Sを駆逐する儀礼が儺であり、なだめ懐柔する儀礼が祭(祭鬼とも)である。
中国の死人にかかわる鬼は、死体としての鬼と、死体がきえたのちも活動する霊魂としての鬼の二種がある。このような中国の鬼は幽霊とかさなる。事実、幽鬼ということばは幽霊とおなじ意味で使用されている。幽霊とおなじように姿かたちをあらわすこともあり、また霊魂に由来する、生身の人間のもつことのできない超越性と、しかし、本来は人間であることにもとづく、現世の人間と同様な限界性と、両様の性格をもつことになる。そのような鬼の性格をあらわす代表的な話を紹介しよう。
むかし、仲のよい夫婦がいた。なかなか子が生まれず、妻は三十五歳になった年に身ごもったが、出産することなく亡くなった。夫は悲嘆にくれたが隣近所の人々にはげまされてようよう葬った。
あくる日の夜、近所のなつめ屋が店をしめようとしていると、一人の女性がなつめを買いにきた。そののち、毎晩、おなじ時刻になるとその女性がなつめを買いにき、そのことが、数年つづいた。噂が高まり、なつめ屋は道士に相談した。道士が鉢に水をくませ、女のはらった銭をうかべると、水のうえに浮かび燃えて紙銭にかわった。道士は画符を店先に貼らせた。その晩から女性はあらわれなくなった。
その夜、夫の夢に妻があらわれて、なつめ屋がなつめを売ってくれなくなったので、はやく子をひきとってくれるよう頼みこんだ。夫がおどろいて妻の墓をほりかえしてみると、まるまると太った子がなかにいて、まわりになつめの皮がちらばっていた。(文彦生編・鈴木博訳『鬼の話』青土社、一九九七年)。
さきに「幽霊と妖怪の区別」の節で紹介した日本の「子育て幽霊」の類話である。中国では鬼にふくめられているが幽霊である。幽霊であるがゆえに墓場からなつめを買いにあらわれたり、夫に夢のなかで語りかけたりする超能力をもつが、他方、道士の画符を突破できない限界ももっている。前掲『鬼の話』からもう一話引用しよう。
むかし、年とった母と一人息子が山奥でくらしていた。まずしかったので、息子は三十近くまで嫁もむかえられなかった。ある時、旅の美しい娘が一夜の宿をもとめてき、それが縁となって、その娘は息子の嫁となった。やがて子が生まれ、さらに三年がたった。
一人の道士がとおりかかり、嫁の姿をみてぶるぶるとふるえた。道士は、嫁のいないところで、老母と息子に、嫁は人ではなく鬼であり、二人の油断をねらって二人を噛みころしてたべてしまう積りだとつげた。納得しない二人に一振りの宝剣をあたえ、今夜、嫁の跡をつけ、この剣を入り口にかけ、嫁の正体を見とどけるようにとすすめた。
その日の真夜中、老母と息子は嫁がはいった西側の室をそっとのぞくと、頭を首からはずしてあらっていた。びっくりした老母たちの気配に嫁が出てこようとしたとき、剣の発した金色の光にうたれて彼女は室内にもどされてしまった。
正体をみられたと知った嫁は、自分が無実の罪でころされた鬼であること、閻魔王の許しを得られず、落ち着く先がなく放浪していて夫に出あったこと、老母と夫を害する気などまったくないことなどを打ち明け、今までどおり家族で暮らせるよう泣いてうったえたが、道士は承知せず、剣で女鬼に首をはねてしまった。
のこされた子どもが十八歳になった年、街で「息子よ」とよびかけてきた娘に出あった。その娘は、家にきて、自分が父親とわかれた以前の妻であると名のり、閻王の許しを得て人間の娘に生まれかわり、夫とともに暮らすことができるようになったのだとかたった。そののち、息子が十八、母が十五の母子が家族仲よく暮らした。
以上みてきたように、中国の鬼観念の基本に死人、つまり幽霊があることは確実であるが、しかし、実際に中国人が鬼とかんがえてきたものは死人にかぎられず、万物すべてが鬼になることができると観念してきた。たとえば、『中国風俗辞典』(上海辞書出版社、一九九〇年)は「鬼」について、
宗教観念の一つ。万物の精霊をさす。万物が霊をもち、精霊は不滅であるという信仰により、山鬼、水妖、木魅、花妖などのよび方がある。そのなかでも特に人の死後の霊魂をさすことがある。
として、人の死後の霊魂を重視するが、鬼はそれだけにかぎられず、万物の精霊を鬼というのだと説明している。このような考え方は中国人に共通するもので、『漢語大詞典』(漢語大詞典出版社、一九九三年)も鬼の項目で「人の死後の霊魂」「祖先」とならべて「万物の精霊、鬼怪」をかかげている。
ここでおもいおこしたいのは、『礼記』などよりも十世紀以上もふるい資料である商(殷)代の甲骨文字では、鬼を人によく似た異獣としていることである。中国の少数民族は自分たちの祖先をかならずしも人間とはかんがえず、多様な動植物を自分たちの先祖と観念していた事実である(「中国の神々」)。鬼の原義はこのような動物神の祖先をひろく包括しており、やがて人々が人間の祖先をかんがえるようになった漢代になって、人間の祖先、つまり死人を意味するようになったとみられる。
私がこのようにかんがえるのは、おそろしい鬼を追いはらう儀礼の儺は、文献資料にかぎっても、漢代をさかのぼって、はやく周代に存在したことは確実であり、そこで追放の対象とされた鬼は、野鬼や視Sなどの人鬼にかぎられず、疫神、悪獣などの人間に不幸をもたらすあらゆる存在が悪鬼として追いはらわれていたからである。つまりそうしたもろもろの悪が正当にまつられない鬼であったとみられるのである。
万物の精霊としての鬼は、「人間の妖怪」の節で引用した『山海経』に数多く登場してくる。そこで、「鬼」偏をともなう名称のつぎのような存在は、本質的に自然精霊系の鬼とみることができる。
?(かい)氏(し)(西山経)夕日影をつかさどる。 神光鬼(西山経)人面獣身にして一足一手。 孟槐(北山経)ヤマアラシのような形で赤い剛毛。 鬼斤雀(東山経) 烏のような形で白い首をし鼠の足に虎の爪で人を食べる。 鬼国(海内北経)人面で一つ目。
もちろん鬼という字を使用しなくとも鬼とおもわれる存在は『山海経』に数多く登場している。
中国の鬼についてまとめておこう。
鬼は本来は自然に存在する精霊であり、のちに主として死者をさすようになった。このころまで、鬼は畏怖すべきものではあっても、善悪を超えた存在であった。しかし、祖先という観念が一般化したとき、祭祀をうける祖霊とうけない鬼とにわけられて、鬼は悪またはマイナスの存在とかんがえられるようになった。
善悪を超えた存在であったとき、鬼は神、妖怪、幽霊の三者を包括していたが、マイナスのイメージを付与されるようになった段階で神とわかれる。
神とわかれた鬼は、妖怪と幽霊の両者をふくむ。
以上を総合して、「鬼は人格化された精霊」と規定することができる。
この中国の鬼観念は、日本人の鬼観念とかさなり、しかもかなりずれます。とらえにくい日本の鬼が、中国と比較することによってあきらかになりますが、そのまえに次回は朝鮮半島の鬼についても概観しておきます。
今回はこの辺で失礼します。