諏訪春雄通信98


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 NHKハイビジョン・スペシャル
「見果てぬ夢〜画狂老人・北斎〜」を制作中のスローハンドという会社から「遠近法についてお話をうかがいたい」というFAXがはいり、11日(月曜日)午前11時から研究室で、ディレクターの坂本康子氏と2時間ほどお逢いしました。質問の中心は、北斎の芸術は最後に何をめざしたのか、北斎の遠近法はヨーロッパの遠近法とおなじかちがうか、画狂と名のった彼の人間性はどのようなものだったのか、などでした。

 私の著書『日本人と遠近法』(ちくま新書)、『北斎の謎を解く』(吉川弘文館)の二冊をすでに読んでこられたので、私の話はよくわかっていただけましたが、遠近法そのものを説明するのに若干苦労しました。

  1. 遠近法といっても多種多様であり、いわゆる線遠近法はもっとも素朴・単純な形式であること。

  2. 線遠近法の消失点は一個ではなく複数あるばあいがほとんどであり、多くは画面をはずれた位置にあること。

  3. 北斎が追求・完成した芸術は、伝統的な視点移動の描法とヨーロッパの視点固定の描法の調和であって、ヨーロッパの線遠近法ではなかったこと。

などを説明して、ようやく納得してもらいました。北斎の作品、たとえば「くだんうしがふち」をコンピューターで線遠近法にえがきなおしてみるなどという試みは、おもしろいとおもいました。

 坂本さんは、話好きの闊達な方で、下請け制作会社の苦労話など、興味深い話をたくさんうかがうことができました。

 おなじように北斎で取材をうけた
「月刊ABC」のほうははやくも原稿が完成してFAXで送られてきました。さすがに専門ライターが仕上げた文は読みやすくしかも要点がつくされています。
 
 見出しだけをぬきだしてみます。私の著書の論旨がみごとにとりこまれています。
  
引越は九三回、名前(画号)は三二、奇行の謎を解く
 変人奇人の画狂斎
 謎解きの発端は鳳凰と竜
生涯にわたり成長変化した天才絵師
 誕生から修行時代
 北斎を名のる
北斎を動かした北斗信仰と道教(老荘思想)
 九三度引越の謎
 画号と画風
 日本に根付いた道教
 極端な遠近法とデフォルメ
芸道の精進で仙人をめざす葛飾北斎
 毎日描く獅子の絵 
 北斎の昇仙
変化と進化を怖れなかった偉大な芸術家
 北斎の完成形
 
 人に読んでもらう文を書くためにはどのような工夫が必要か、いろいろかんがえさせられて参考になります。学術論文と一般向け文章とを問わず、まず読んで理解される文章を書くことがもとめられるはずです。

 この通信でお送りしてきた
『天皇の由来』(改題、約500枚)と『妖怪・幽霊・鬼』(約600枚)が、訂正増補をくわえて整理したうえで、私の手もとをはなれ、それぞれに出版社のほうにわたりました。

 そこで、以前に依頼をうけてそのままになっていた
角川選書のために新しく300枚前後の原稿を書きおろすことにしました。テーマは日本の王権神話と中国長江流域文化です。今までの研究成果のすべてをそそぎこんでみようとおもいます。また文章にも工夫をくわえて問答体の形式をとってみました。この通信では、興味のありそうな部分だけをぬきだしてお送りします。
  
〔質問〕王権神話が日本の神話の根幹となっていることがよくわかりました。当然、これまでも多くの研究が集中してつみかさねられてきたはずです。何かあたらしいことがいえるのでしょうか。

 日本の神話研究はさかのぼれば、平安時代以前から朝廷でおこなわれていた『日本書紀』の研究会にまでさかのぼることができます。この研究会は
「日本紀(にほんぎ)を読む」として、最初の記録は『日本後紀』によると弘仁三年(八一二)に出てきますが、この年にはじまった研究会とはかんがえられません。もっと古くからおこなわれていたとみられます。

 江戸時代に
国学が誕生しますと、その学統にぞくする学者、思想家たちはすべて『古事記』を中心に神話研究にうちこんできました。神話の研究の歴史は、日本国家の歴史とおなじくらいに長く古いといっても過言ではありません。そうした神話研究の中心の課題が王権神話であったことはいうまでもありません。

 明治以降、
ヨーロッパの神話学が日本にはいってきますと、神話研究の主流は比較神話学となり、国文学、歴史学、神話学、文化人類学、民族学、考古学、民俗学などの各分野のすぐれた研究者が多数参加して、日本の神話の系統研究も、緻密にしかも膨大な量が生み出されてきました。私のような門外漢がいまさら口出しをする余地などはまったくないといってよいのかも知れません。

 しかし、じつはこれまでの日本の神話研究は大きな空白部分をかかえこんでいたのです。それは、
中国神話が正当な扱いをされてこなかったということです。

 私は昭和五三年(一九八八)に
『日本の幽霊』(岩波新書)という本を出しました。今から一五年以前のことです。私の最初の日中比較民俗学のまとまった研究書でした。そのなかの「中国人の他界観」という節でつぎのようなことをのべました。私の中国神話にたいする原点がここにありますので、すこし長くなりますが、我慢しておつきあいください。

 中国は幾度も王朝が交替した。王朝が交替するたびに、新しい歴史がつくりなおされ、前王朝の遺制が破壊されたので、『古事記』や『日本書紀』が伝えたような体系的な神話や伝承が後代に残らなかった。中国神話の研究が立遅れている根本の理由はそこにあり、さらに、それに加えて、もともと孔子が『論語』の中で「子は怪力乱神を語らず」といった国柄なので、神話や伝承の類についての研究はあまりさかんではなかった。
 
 しかし、一九五〇年ごろ、つまり解放の翌年ごろから、中国の神話研究は、苗、蔵、瑶などの少数民族のあいだに伝えられてきた
口承神話に注目しはじめた。文化大革命によって一時的に頓挫したが、七七年に復活、前にも増して活発に研究は続行され、少数民族のあいだにそれこそ無尽蔵といってもよいほどに貴重な神話が蔵されていることが明らかになってきた。
 
 それらの中には、西南中国の納西(なし)族のあいだに伝えられた創世神話のように、日本の『古事記』に伝えられた神話ときわめて類似した構造を持つみごとな体系をそなえたものもある。中国神話に体系はないというこれまでの定説は完全に葬り去られたといっていい。

 この文で私が指摘したような事態は現在になってもそれほど大きく変わったとはいえません。一五年経過しても中国神話と日本神話の比較研究は進展していません。私じしんで中国少数民族の神話の研究をすすめようとおもったことには以上のような事情がはたらいています。

 もうすこし説明しましょう。中国小数民族の神話研究がおくれている最大の理由は、日本人に利用しやすい形で中国神話が紹介されていないことです。
まったくないのではありません。
  
苗族民話集  村松一弥  平凡社  一九七四年
山東民話集  飯倉昭平・鈴木健之  平凡社  一九七五年
中国の神話  君島久子  筑摩書房  一九八三年
中国の神話 伝説  伊藤清司  東方書店  一九九六年
中国少数民族のむかし話  邱 奎福  一九九八年
四川省大涼山イ族創世神話調査記録 工藤 隆 二〇〇三年

などが刊行されていますが、しかし、量は多くありませんし、児童向けの昔話といった体裁をとっているものがほとんどです。さらに問題は、中国の神話研究の主流が文献に記載された
漢民族の神話にむかっていることです。

 自他ともにゆるす中国神話研究の第一人者は
中国神話学会の主席をつとめる袁珂(えんか)だろうとおもいます。氏の代表的著作は、『中国神話伝説詞典』(上海辞書出版社、一九八五年)であり、この書は日本語に翻訳されて『中国神話伝説大事典』(大修館書店、一九九九年)となって刊行されています。たいへん便利な書で私もよく利用しますが、しかし、少数民族の口承神話はまったくとりあげられず、文献に記載のある漢民族の神話があつかわれています。

 日本人の中国神話の研究者の多くもこうした中国の研究動向の影響をうけていたために、日本神話との類似性が気づかれなかったのです。

〔質問〕中国には、漢民族をのぞいて五十五の少数民族がいるはずです。この多数の民族の神話がすべて日本の神話と関りをもつのですか。

 ちがいます。日本神話と同一の系統の神話をつたえているのは、長江(日本では揚子江とよばれることが多い)流域の
稲作文化をつたえている民族です。

 同一系統の神話をつたえるということは、その二つの集団が、人的、文化的交流のあるばあいがほとんどです。もちろん、おなじ人類が誕生させた神話ですから、直接交流のない集団間に類似の傾向をしめすということもあるでしょうが、長江流域の少数民族と日本の神話の類似は、あきらかに
人的、文化的交流の結果です。

 広大な中国を南北の地域に二分することは古くからおこなわれていました。
「南船北馬」ということわざがあります。中国では、南方は河川や湖沼が多いので、交通機関として船舶をもちい、北方は山野が多いので馬をもちいるという意味であり、転じてあちらこちらといそがしくかけまわる意味にもなりました。

 このことばの出典は紀元前二世紀ごろに成立した
『淮南子(えなんじ)ですが、そこでは、南北ということばは使用されておらず、北方の胡人と南方の越人を対比しているにすぎません。しかし、中国人が古くから、南北にわけて中国の地勢をとらえていたことは、『春秋左氏伝』の昭公九年の記事に巴・楚などの南土と粛慎、燕などの北土を区別して記述していることからもあきらかです。

 ヨーロッパ人たちもはやくから中国を南北にわけて理解していました。イタリアの地理学者の
プトレオマイオスが、二世紀に作成した世界地図によると、中国は北方のセリカと南方のシーナとが区別されており、長安に相当するメトロポリスがその中間に位置させられていました。このセリカとシーナという北中国と南中国をあらわす呼称は、カタイとマンジと変えられて、十三世紀のマルコポーロの時代にうけつがれていました(鶴間和幸氏「中国文明への新しい視点」『四大文明 中国』NHK出版、二〇〇〇年)。

 中国の
南北の境界を淮河(わいが)・秦嶺(しんれい)ラインにもとめる見方は、一八七〇年代に中国本土を南北に縦断したドイツの探検家F・フォン・リヒトホーフェンなどを先駆として、『中国農業論』をあらわしたジョン・ロッシング・バックによって定着させられました(鶴間氏前掲論文)。

 バックは、中国に取材した有名なベストセラー小説『大地』の作者パール・バック女史の夫であり、一九二〇年代から三〇年代にかけて全国の調査をおこなって農業の分布図を作成し、
稲作の北限である年間降水量八〇〇ミリ、年間平均気温摂氏一五度の線以北の小麦地帯と以南の稲作地帯とにわけました。この淮河・秦嶺の境界線は、中国の南北をわける重要なラインとなっており、華北の陸田農業と江淮水田農業とをわける目安にもなっています(鶴間氏前掲論文)。

 たいせつな視点は、中国では、北と南では、気温も地勢もちがい、そのために、植生、生業、文化、信仰、政治などのすべての面で相違があったということです。その違いをあらかじめわかりやすくしめしておきましょう。

北(黄河流域) 狩猟・牧畜・畑作農耕  天の信仰   巨大王権交替
南(長江流域) 稲作農耕        太陽の信仰  弱小王権交替
 これと比較するために、日本の文化体系をかかげます。
日本      稲作農耕        太陽の信仰  天皇制の永続

 くわしい説明はこれからしていきますが、この比較によって、神話もふくめて日本の文化体系を考慮するときに、中国の南方文化を検討する必要があることがおわかりでしょう。

 中国の
少数民族を、その主要な居住地域に注目して、南と北にわけてみます。
まず、その境界を
淮河に設定すると、南に区分される行政地域はつぎの省、市、自治区になります。

 上海市 江蘇省 浙江省 安徽省 福建省 江西省 湖北省 湖南省 広東省 広西壮族自治区 海南省 四川省 貴州省 雲南省 台湾省 

 この
十三省・一市・一自治区を主要居住地域とする少数民族には、つぎのような種類があります(中国少数民族民俗大辞典編集委員会『中国少数民族民俗大辞典』内蒙古人民出版社、一九九五年、田畑久夫他『中国少数民族事典』東京堂出版、二〇〇一年)。

 トゥルン 高山 ワ スイ ナシ チャン チンポー ムーラオ プラン コーラオ マオナン プミ ヌー アチャン ドゥアン キン チノー チワン イ     ミャオ トゥチャ プイ トン ヤオ ペー ハニ  タイ リー リス ショオ ラフ

 以上の
三十一民族の保持してきた神話が中心の検討対象となり、さらに各地にひろがって居住している漢族の神話が参考になります。日本神話と類似性をもつ中国少数民族の神話とは、これらの南の民族が保持してきた神話ということになります。

〔質問〕日本は中国ほど複雑ではありませんが、けっして単一民族ではありませんし、文化も稲作だけには限定できない多様さをもっています。日本文化を稲作農耕、太陽信仰と規定することには疑問がありますが……。

 このご質問にたいする答えは次回にさせていただきます。

 今回はこの辺で失礼します。


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