諏訪春雄通信101


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 久しぶりに台湾から帰国した小俣喜久雄君が我が家に来訪されて、数時間で
パワーポイントホームページ作成のソフトを私のパソコンに組みこんでくれました。いまは一中節の研究者として一家をなしている小俣君も、もともとは理系の出身者ですから、私を幼稚園児とすると、大学の講師並みのパソコン知識をもっています。手際のよい入力と説明をわきでわかったふりをして聞いていましたが、理解度は半分というところでしょうか。これで私も講義でのプレゼンテーションとホームページができるはずなのですが。

 台湾の大葉大学で助理教授となった小俣君から聞く
教員の研究成果にたいする大学や政府の評価はかなりきびしいものがあります。一年間、論文を発表しない講師は失職する恐れがあること、助理教授以上でも昇進がストップされること、学位をもたない研究者は一人前とはみなされないこと、研究成果は年末の賞与などに直接に反映することなど、日本の大学よりもはるかに先をいっています。

 一般に中国人も日本人も台湾の少数民族を
高砂族とか高山族とかよんで区別しませんが、事実は十種の民族が海岸地帯や山岳地帯などの僻地に居住しています。その出自は東南アジア系と中国大陸系に二分されます。大陸に出自をもつ民族はあきらかに越人の習俗を今日にのこしていて、『呉越春秋』などに記述される呉越の生活習慣を現代にみることができます。

 平成7年の11月から12月にかけて、小俣君の上司の葉漢鰲君を案内人に台湾南部の
魯凱、卑南、排湾の諸族の調査をおこなったことがあります。この三族はいずれも越人の末とかんがえられています。11月29日、屏東県霧台郷の魯凱部落で当時73歳の部落長から聞き取りをおこないました。老人の話は私の常識をくつがえしました。日本人に強制されて軍人になったのではなく(当時、台湾のテレビではくりかえし日本軍が強制的に先住民の若者を徴兵するシーンが放映されていました)、自分たちの意思で参加したこと、日本人が先住民の生活を真剣にかんがえてくれたことなどを語り、時間がきて去ろうとする私たちの車にすがって、涙をながして別れを惜しんでいました。

 翌日、屏東県東義郡にはいり、
排湾族の当時72歳の女性から聞き取りをおこないました。彼女が語る排湾の生活習俗、昔話、信仰の話は貴重でしたが、やはり意外であったのは、日本統治時代への回想が好意的で暖かいものだったことです。米主体への食生活の転換、首刈り習俗の禁止(彼女の子供時代、まだ首刈りをおこなっていたそうです)、児童の就学、環境衛生の改善などを日本人の功績としてあげていました。ことに少女時代の日本人小学校教師を心からなつかしんでいました。

 アジア各地で日本の植民地政策の悪評をさんざんに聞かされるのがふつうであっただけに、私は老人二人の話におどろき、感銘しました。
 あのお二人はまだお元気でしょうか。
日本人として過去の歴史を正当に評価するためにも、また台湾の少数民族の調査を実施したいものです。

 小俣君と酒盃をかたむけながらそんなことをかんがえていました。


〈質問〉長江中流域から越人、倭人によって日本へつたえられた縄文、弥生の文化のうち稲作以外の文化について説明してください。

 縄文文化を象徴する
縄文土器の出現は、約一万三千年まえにさかのぼり、終末期は、最近、約三千年まえにもとめる説が有力となってきたことについてはまえにのべました。いずれにしても日本の縄文時代は約一万年つづいていました。つづく弥生時代は、約三千年まえから、古墳の出現する三世紀前半、いまから約千八百年まえと、これも最新の研究ではかんがえられるようになりました(『朝日新聞』二〇〇三年八月二八日朝刊など)ので、千二百年ほどつづいたことになります。この縄文・弥生の両時代に、もちろん、中国南方からさまざまな文化がこの列島にながれこんでいました。

 
縄文文化の源流については、これまでに、北方起源説、南北起源説、大陸南方起源説(照葉樹林文化論)など、スケールの大きな学説が提出されたことがありますが、いずれも成立せず、結局、縄文時代一万年の文化を説明するには、黒潮にのって島伝いに北上した東南アジア系文化、東漸(とうぜん)した大陸系文化、南下した北方文化の三種の幾重にもわたる重なりとしてかんがえ、地道な実証にもとづく小さな学説の累積が必要です(拙稿「中国江南の遺跡と縄文・弥生文化」『日本人はるかな旅4 イネ、知られざる1万年の旅』NHK出版、二〇〇一年)。

 日本文化とふかい関りをもった江南の文化遺跡の各時代はつぎのように整理されます。
   河姆渡遺跡   約七千年まえから五千五百年まえ
   馬家浜文化   約六千年まえから五千年まえ
   良渚文化    約五千二百年まえから四千二百年まえ
   馬橋文化    約四千年まえから二千七百年まえ
これを日本の文化区分にあてはめますと、
縄文時代の早期から弥生時代前期にあたります。この時代の日本文化に江南文化があたえた影響を稲作文化以外に注目して検討してみます。
 
黒色磨研土器
 縄文土器のうち、表面をへらなどでみがきあげた土器を磨研土器といいます。この種の土器ははじめ赤褐色であったが、後期ごろから黒色化する傾向をしめし、ことに九州を中心に後期後半ごろから、器面が黒色の光沢をもつ黒色磨研土器が普及します。この土器は、縄文文化独自の形成とみるべきではなく、
江南の各遺跡から多量に出土している黒陶との関係をかんがえなければなりません。
 
異物混入土器
 胎土中に植物繊維の混入されている土器を繊維土器といいます。縄文早期後半から前期前半の土器群に一般的にみられる特徴です。繊維は素地土
(そじど)の量をしのぐほど多いものから、かろうじて発見できる程度の微量のものまで多様な種類があり、そこには地域や時代による差があります。分布は主に東日本に顕著です。
また、熊本県宇土
(うと)市曽畑(そばた)貝塚出土の土器を標準形式とする曽畑系土器は、多量の滑石粉末を混入するという特異な制作技法に特色があります。この製作法は、朝鮮半島を中心に分布する櫛目文系土器にみられる貝殻粉末混入の制作技法と比較することができます。このような縄文時代の遺物混入土器の源流は、さかのぼって植物繊維を混入させる河姆渡遺跡などの江南地方から出土する土器群の製作技法にもとめることができます。環東シナ海一帯の土器製法との共通性がうかびあがってきます。

高床式建築
 高床式の建物は、長江流域およびその以南でもっとも普遍的にみられる建築様式です。河姆渡遺跡をはじめ、羅家角、銭山漾(せんざんよう)、香草河(こうそうが)などの遺跡にみられ、長江下流の浙江省、江蘇省から中流域にひろがっています。日本では弥生時代以来一般化しましたが、縄文時代にも、長野県阿久(あく)遺跡、青森県三内丸山
(さんないまるやま)遺跡など、高床構造の建築物を想定しなければならない遺構群はかなりの数にのぼります。この様式については、食糧をネズミの害からまもるための貯蔵庫説や、儀礼的・宗教的な用途を推定する説などがありますが、源流については江南の地を無視できません。
 
骨角器
 獣や鳥、魚の骨、角、歯牙などを素材として製作された用具を骨角器といいます。縄文時代にもっとも多くもちいられたのはシカとイノシシで、とくにシカの角と骨がよくつかわれました。このほかクジラの骨も使用されていました。製品としては、漁労具、狩猟具が多く、簪、櫛、耳飾、首飾、腕飾、腕輪などの装飾品、彫像、刀などの祭祀用具も出土しています。このような縄文の骨角器と類似の品は、中国の江南の各遺跡からも、はるかに多量、多種類、多彩なものが出土しています。
 
栽培植物
 縄文時代には多くの植物が食糧に利用されました。それらの植物のほとんどは野生種でしたが、なかには栽培植物もかなりの種類になります。イネ、エゴマ、ヒョウタン、リョクトウ、オオムギ、ソバ、アズマビシ、オオクサなどです。これらはほとんどすべて江南の遺跡からも出土するものであり、大陸から伝播した可能性がきわめてつよいといえます。

信仰・祭祀
 縄文時代には、太陽信仰、地母神信仰、蛇信仰、樹木信仰、生殖器信仰などが存在し、それらにかかわる祭祀もおこなわれていました。これらはすべて、大陸、ことに長江流域にも存在しました。両地域の文化交流の結果とかんがえられます。

 
日本人の形成について、最新の研究成果はつぎのようにまとめることができます(馬場悠男「形態と分子からみる日本人の起源と形成に関する研究」)。アイヌ人が縄文人の子孫であることは確実です。琉球人は、アイヌ人ほど明確ではありませんが、やはり縄文人の血をうけています。弥生人は、シベリアで発生し、中国や朝鮮半島を経由して、北部九州や山口地方に渡来していました。
さらに、出土品から判断されることをこれにくわえますと、縄文人も中国南部や朝鮮半島を経由して本土にひろがったグループがありました。

 人的にも文化的にも、日本とこれまでみてきたようなふかい関係にあった中国南部。そこに古代から居住しつづけてきた少数民族の社会につたえられた神話が日本神話に影響をあたえていないはずはないというのが、
本書執筆にあたっての私の基本の考えです。

〈質問〉日本神話の最初に登場してくる国生み神話と中国南方の少数民族神話との関係についてお話ください。

 まず
『古事記』によって国生み神話の内容をまとめてみましょう。

 別天つ神五柱、つづく神世七代の神々の最後に登場したイザナギ・イザナミの男女神は、天の浮橋に立ってアメノヌボコで海水をかきならしてつくったオノゴロ島に天降り、聖なる柱のまわりをめぐって夫婦となりました。はじめはヒルコや淡島を生んで失敗しました。しかし、天神の指示によって御柱めぐりと発言をやりなおし、大八洲の島々と自然の神々をつぎつぎと生みましたが、火の神を生んだときに火傷を負ってイザナミは死んで、黄泉国へいきました。妻を追って黄泉国ヘいったイザナギは妻のつれもどしに失敗しました。筑紫の日向の阿波岐原でみそぎをしたイザナギは、身体からアマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴子を得て、天・夜・海の三界を分治させます。スサノオは父の命令に不満をもちます。

 『日本書紀』『先代旧事本紀』で注意される点をつぎにあげます。

  1. 第五の一書によると、イザナギ、イザナミの両神にセキレイが結婚の仕方をおしえています。

  2. 『日本書紀』の正書にはイザナギの黄泉国訪問の話はなく、二人は協力して自然や神々を生んでいます。イザナミの死は第五、第六、第九、第十の一書にみられます。第五では紀伊国の熊野の有馬村に葬られたとあり、第六以下の一書になってはじめてイザナギの黄泉国訪問をはじめ、三貴子誕生の話が出てきます。

  3. 『先代旧事本紀』にも黄泉国訪問譚はみられます。

 この国生み神話の成立についてこれまで提出された研究は、大きく日本独自の神話を中心にかんがえる説と海外神話の影響をかんがえる説に二分できます。それぞれ代表的な論を紹介しましょう。

 全体として淡路島が重要な位置を占め、イザナギをまつる神社や伝承にかかわる地名が淡路島やその周辺地に多いことから、この地方の海人集団につたえられてきた
島生みの神話が王権神話にとりいれたものであろうとする説があります(岡田精司氏『古代王権の祭祀と神話』塙書房、一九七〇年、その他)。

『古事記』仁徳天皇の箇所に、天皇が淡路島を遠くご覧になって、
  おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて わが国見れば
  淡島 おのごろ島 あじまさの 島も見ゆ さけつ島見ゆ

と詠んだ歌がつたえられています。この「淡島 おのごろ島」は国生み神話のオノゴロ島と同一の地名とみられます。この点に注目して、宮廷祭儀の八十島祭(やそしままつり)を神話成立の背景にかんがえる説が提出されています(岡田氏前掲書)。八十島祭は淡路島を目の前にのぞむ難波の海辺で、「大八洲の島々の霊」を新帝に付着する目的で、天皇の即位の儀式としておこなわれました。
 
 つぎに海外神話の影響をかんがえる説をみておきます。まず、海洋をかきまわしてオノゴロ島他を生成する神話にポリネシアを中心に分布する島釣り神話の影響を想定する説がおこなわれています(松前健氏『日本神話と古代生活』有精堂、一九七〇年、松本信広氏『日本神話の研究』平凡社、一九七一年)。イザナギ・イザナミの結婚から神々の出産、そしてイザナミの黄泉国への退隠にいたる一連の神話を、天父と地母の結合と万物の生成で説明する天父地母型とかんがえる説があります。この型の神話はほとんど世界全域に分布しており、イザナギ・イザナミ神話もその系列に属するものとしています(松村武雄氏『日本神話の研究二』培風館、一九五五年)。

 イザナギ・イザナミ神話そのものを
洪水兄妹婚神話として説明する論も大勢の神話学者が展開しています。『旧約聖書』にあらわれるノアの方舟伝説、東南アジア、中国のハニ族・ヤオ族の洪水神話などがこれまでに提出されてきました(松村武雄氏『日本神話の研究二』培風館、一九五五年、福島秋穂『記紀神話伝説の研究』六興出版、一九八五年、など)。
 
 これまでの諸説はそれぞれに日本の国生み神話の成立を解明するには
不十分です。たとえば八十島祭は国生み神話に淡路が重要な意味をもって登場してくる事実を説明しています。しかし、八十島祭でこの壮大な神話のすべてをつくすことはできません。また世界の洪水神話は、逆に、ひろがりをもちすぎ、日本神話との関係を特定することができません。

 国生み神話はさらにつぎの各要素に分解できます。

  ア 混沌のなかから男女神が出現する
  イ 男女神の柱めぐり
  ウ 最初の結婚の失敗とやりなおし
  エ 妻の死
  オ 三貴子の誕生
  カ 三界の分割統治
  キ 一子の不満

 この七要素のすべてを説明しきる原神話をもとめることは無意味です。『古事記』の序文で太安万呂がのべているように、日本神話は各種の原材料に
編集と整理がくわえられているからです。ことばをかえれば、日本の王権神話は独自の構想力が生みだした神話なのです。そのことを承認したうえで、しかし、すくなくとも複数の要素をそなえた原型の探索はつづけられなければなりません。包括する要素が多ければ多いほど、その原型とみなされる神話は日本神話とふかい関りをもっていたはずです。

 大林太良氏が紹介された中国江蘇省の
「三官伝承」(「イザナギ・イザナミ神話と中国の伝説」『神話の系譜―日本神話の源流をさぐる』青土社、一九九六年)は、右の七要素のうちすくなくとも六つの要素がそなわっているというおどろくべき内容の伝説です。三官とは、中国の道教の神々で、天神・水神・地神の三神です。大林氏はつぎの六つの要素に分類して、イザナギ・イザナミ神話との一致を論証しています。

  1. 海に囲まれた島に夫婦

  2. 夫婦別離

  3. 生まれた子を流す

  4. 夫は水中に入り新しい妻をめとり三子を得る

  5. 三子は三つの宇宙領域の代表者となる

  6. 三子のうちの一人は、自分に割り当てられた領域に不満

 この三官伝承は明代成立の長篇小説『西遊記』第九回「陳光芯、任に赴いて災いに会い、江流の僧讐を復して本に報ず」を直接の種本にしていて、日本にあてはめますと中世以前にはさかのぼれない話です。大林氏は、「三官伝説がいま紹介したような形になったのは、もちろん『西遊記』が広まってからの新しいことであるが、イザナギ・イザナミ神話と対応するような大筋は、すでに古くから呉越の地に神話として存在していたのではないか」という仮説を提示しておられます。
 
 先の日本神話の七要素のうち、イを欠き、ウとエの順序を入れ換えただけの一致は不思議にさえ感じられます。大林氏が指摘されるような日本の国生み神話の原型は呉越の地、中国の長江流域に存在したのでしょうか。
 
 中国の長江流域、貴州省東南部、湖南省西南部、広西チワン族自治区北部などに
トン(イ同)族とよばれる少数民族が住んでいます。この民族のことはこれからもたびたびふれることになりますので記憶しておいてください。トン族の人口は一九九〇年の調査では二百五十万人余りでした。祖先は百越の一支族で、江西省の吉安府を発生の地として当初は東南沿海地方に居住していたといわれています(『中国少数民族事典』東京堂出版、二〇〇一年)。
 
 このトン族の人たちがつぎのような信仰と神話をもっています。彼らの信仰する最高の神は
薩神、薩歳、薩瑪などとよばれる女神です。薩はトン族のことばで祖母、歳は十二支の最初の子、瑪は大を意味します。したがって薩神は祖母神、薩歳は最初の祖母、遠いむかしの祖母、薩瑪は大祖母、偉大な祖母の意味になります。トン族の人たちは、彼らがたべる水稲は薩神の子孫の張良張妹(姜良姜妹とも)が耕作したものとつたえています。この二人は薩神の威力をすべて継承した神々でした。このあたりのトン族の信仰についてはトン族出身の女性民俗学者劉芝鳳氏の『中国イ同族民俗と稲作文化』(人民出版社、一九九九年)の記述にしたがっています。
 トン族にはつぎのような神話がつたえられています。

 張良、張妹は七人兄妹でした。二人のほかに雷、竜、蛇、虎、虫の兄たちがいました。天が旱魃となったとき、張良は雷に雨を降らせるようもとめましたが、雷は承知しませんでした。争いとなって張良は雷を牢にとじこめてしまいました。雷は張妹に水を飲ませてくれるようにたのみました。張妹は肉親の情から雷に水をあたえますと、水を飲みおわった雷は牢をやぶってにげさりました。はげしくいかった雷は洪水をおこし、万物をすべてほろぼしました。そのときに薩神は瓜の種を張妹にあたえました。張妹は瓜の殻を船として兄の張良とともに命がたすかりました。ただ洪水は幾年もひかず、九年目にはじめて水がひきました。高い土手は平地となり、逆に平地は突起して高い峰になっていました。すべての人類は死にたえ、たった二人のこされた張良と張妹は夫婦となりました。
 張妹は、三か月目に妊娠し、九か月目に帯が解けて男子を生みました。頭があっても耳がなく、眼があっても足がなかったので斬りくだくと人類となりました。手の指が落ちてとがった峰となり、骨が落ちて荒々しい岩石となり、頭髪は落ちて万里の河川となりました。頭蓋骨が落ちて土手や田となりました。歯は黄金や白銀になり、肝や腸は地に落ちて長江大河になりました。野牛や野鹿がふえ、山や峰がひろがり、一対の団魚、長江と大河、三百六十四の姓氏などが生じ、洲ができ、県ができました。さらにまた薩神は人類を生みました。瑶人の祖先は八面山の斜面に居住し、漢人の祖先は天下にひろがって住み、トン族の支族の坦人の祖先は潭渓や九宝に居住して大きな田で魚を養殖し、水田にもち米をそだて、芦笙やチャルメラを吹いてたのしくくらしました。税をおさめず、門戸をとざさず、朝の食事、夕の食事に心をわずらわせることはありませんでした。

 このトン族の神話は、先にあげた日本神話の七つの要素のうち、ア、ウの二つをそなえているにすぎません。日本の国生み神話の原型としての資格は欠いているようにみえます。ただ、まったく無関係と片づけてしまえない興味ぶかい一致点のあることも事実です。

 おなじトン族の神話に
異伝があります。いかった雷が大洪水をおこし、張良・張妹の兄妹だけが生きのびるまではおなじです。そのあと以下のように展開します(劉芝鳳氏前掲書)。

 洪水が何年もひかないものですから張良は雷に水をひかせるようもとめました。雷は十二個の太陽をつれてきて水をかわかして洪水をひかせました。しかし、土地もかわいて裂け、草一本生えません。張良は太陽を射て十個を射おとしました。そのうちの二個は東におちて東方の水徳星となりました。二個は南におちて南方の火徳星となりました。二個は西におちて西方の金徳星となりました。二個は北におちて北方の木徳星となりました。二個は中央におちて中央の土徳星となりました。兄と妹は結婚して人類は繁栄しました。

 このトン族の神話はきわめて明瞭に
木火土金水の五行観念とむすびついています。日本の国生み神話にも、これほどあらわではありませんが、五行観念がみとめられます。『古事記』神話で国を生みおえたイザナギ・イザナミの両神はつぎに神々を生みます。そのなかに五行観念がゆきわたっています。

 土 石土毘古神・石巣比売神・天之狭土神・国之狭土神・波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神
 水 速秋津日子神・速秋津比売神・泡那芸神・泡那美神・頬那芸神・頬那美神・天之水分神・国之水分神
 木 久々能智神
 火 火之夜芸速男神(又の名は火之R毘古神、火之迦具土神)
 金 金山毘古神・金山毘売神

 おなじ五行観念は『日本書紀』の各一書にもみることができます。土、水、火、金、木などの神々がそれぞれ登場してきます。

 いうまでもありませんが、五行観念は古代中国で誕生しました。その観念が日本神話にみられるということは、日本神話の源流の重要なものが中国にあったことをしめしています。張良、張妹の二人が
七人兄妹の最後の二人であるなどというのも、イザナギ、イザナミの両神が神世七代の最後であるという日本神話の構成とよく似ています。

 トン族の薩神は張良・張妹の祖先神です。その関係がそのままに日本の国生み神話に反映しています。その関係はつぎのように整理されます。

   祖先神     子孫の兄妹神     
   薩神      張良・張妹
   天つ神     イザナギ・イザナミ

 薩神は民族の祖先神であり、日本の天つ神にあたりますが、それだけにとどまらず、日本のアマテラスの性格もあわせもっています。この点の理解ができますと、長江流域神話と日本神話の関係の展望がさらにひらけてきます。

〈質問〉トン族の祖先神薩神と日本神話のアマテラスの類似性についてくわしく説明してください。

 このご質問については次回でお答えします。今回はこの辺で失礼します。


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