諏訪春雄通信102


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 前回につづいて台湾についてのべます。以下は、10月7日(火曜日)、午後2時から町田市中央公民館で
「鎖国と海外の情報―日中混血の英雄国姓爺鄭成功の活躍―」という題で話すメモの意味も兼ねています。

 
台湾の国民的英雄は17世紀の中期を生きた鄭成功です。明朝再建のために清とたたかい、敗れて大陸を追われ、当時台湾を支配していたオランダ人を追放して台湾に拠り、大陸反攻の機会をねらいましたが志の途中39歳の若さで亡くなりました。台湾をオランダから解放し、大陸へ攻めのぼる機会をねらったというのが、台湾人の心情にうったえるのでしょう。

 鄭成功は
日本人にとっても英雄でした。成功の父親は明国の人で鄭芝竜といいました。よくいえば貿易商、ありていにいえば海賊でした。芝竜が日本へ亡命していたときに九州平戸の田川氏という女性とむすばれて生まれた子福松がのちの成功でした。彼はわずか7歳のときに父にまねかれて明にわたり、明の滅亡後はその皇帝の遺族をまもって明国復興のために戦いました。

 父が清国にくだったのちも厦門(アモイ)を拠点に清とたたかいましたが、しだいに追いつめられていきました。ちょうどそのころ、成功は日本へ使いをおくって何度か援軍をもとめています。その手紙の内容が
『華夷変態』という、長崎からはいってくる大陸の風聞をまとめた書物におさめられて今日につたえられました。原文はカタカナ書きですが、漢字を当てて分かりやすい文になおしてみましょう。

 「それがし、日本にて生まれたれば、もっとも日本を慕う心深し。今艱難の時分なれば、憚りながら、日本より我を伯父甥の如く、兄弟の如く思し召して、恵みの心あらんことを願ふ。それがし、生まれいづる国なれば、懇ろの志をおこし給ひて、
数万の人数を貸し、大明へ渡し給はば、大きなる誉れ、末代に残り給はらん。」

 この要請に応じて徳川御三家の一つ
紀州徳川の当主頼宣は軍勢をひきいて明に渡ろうとして、幕府に止められたといいます。鎖国令下の日本が、大陸へ軍を派遣することなどはとんでもないことでした。

 しかし、大陸の鄭成功の戦いの情報は
長崎を介して日本へもたらされ、日本人の同情心、愛国心、同胞意識などを刺激したようです。そうした機運に注目した近松が正徳五年(1715)に竹本座の人形芝居の台本として書き下ろした浄瑠璃が『国性爺合戦』でした。この作品は空前の大当たりになって、三年越し十七か月間、連続上演をしました。

 主人公は
和藤内(和でもない唐でもないという洒落)、のちの鄭成功です。日本に生まれて大陸へわたり、異母妹の夫で地方軍閥の甘輝将軍を味方につけ、ほろびつつある明の皇室のために驚天動地の活躍をします。窮地におちいると伊勢神宮をはじめとする日本の神々が援助の手をさしのべ、成功の母が日本人としての誇り、大義に殉じる信念を吐露しつつ異国の地で自害するなど、鎖国下に海外への道をとざされて鬱屈した当時の日本人の心情をしたたかにくすぐる趣向が各所にほどこされています。

 鄭成功は、
明国皇室の姓の朱を名乗ることをゆるされ、国姓爺(国の姓を名乗る立派な人の意味)とよばれました。近松がその姓を性と表記したのは、彼の筆癖(自筆書簡などに姓を性と表記した例があります)であったか、あるいは時事トピックスであったので、わざと遠慮して一字変えて表記したともかんがえられます。

 『国性爺合戦』の大当りに自信を得た近松は、そのあと
『国性爺後日合戦』『唐船噺今国性爺』と後編を書きつぎ、国性爺三部作とよばれています。

 
中国本土の鄭成功にたいする扱いは揺れうごいていました。台湾と中国とのきびしい政治事情を反映して、戦後、しばらくは反逆人としての評価がつづいていました。おそらく、文化大革命のあとくらいからだろうと思いますが、〈民族の英雄〉(『漢語大詞典』など)とよばれるようになりました。国民的英雄ではなく、民族の英雄という呼称が注意されます。

 私も現地をおとずれたことがありますが、鄭成功が最初の拠点とした福建省の厦門には、金門海峡にむかって大きな銅像が建てられ、大勢の観光客がおとずれていました。こうした評価の変更には、台湾解放の功績のほかに、彼が再興のために戦った明が
漢民族の国であり、その相手の清が満民族の建てた国であったという理由も大きいと思います。

 先週たずねてきた小俣喜久雄君が土産に持参してくれた
『伝奇性的一生 鄭成功』(安平鎮文史工作室・2002年)という書によりますと、台湾各地に鄭成功をまつった神社が70箇所あります。その他、鄭成功にかかわる伝説や記念物をつたえる地が50箇所を超えます。

 あきらかに台湾では、鄭成功は歴史上の人物から
伝説上の神になっています。彼が剣を挿した場所から泉がわきだした、糧食の尽きた兵士たちのために無数の魚を海上に出現させた、などの奇跡が彼にまつわりついています。

 小俣君は新しい研究テーマとして鄭成功をえらぶようです。日本の芸能について知識をもち、現在台湾に在住している日本人としては最適の課題だと思います。単に史実や伝説の紹介・研究から一歩進めて、
〈神または伝説の発生機構の解明〉という新しい研究分野を確立して欲しいと願っています。

〈質問〉トン族の祖先神薩神と日本神話のアマテラスの類似性についてくわしく説明してください。

 トン族が居住する湖南省、貴州省、広西チワン族自治区の三地区は、アジア稲作文化の発祥地の一つともいえますので、私は幾度も現地調査をおこなってきました。ことに二〇〇一年の夏には長期の調査をおこない、薩神信仰の実態もかなりあきらかにすることができました。薩神は民族の
祖先の女神稲の神という本質をもっていますが、それだけにとどまらず、太陽神実在する歴史上の英雄という性格もあわせそなえています。

 薩神は
稲の神でもあります。トン族の人たちのために山を開き、田圃をつくって水利をととのえ、豊作をもたらしたのは薩神であり、また彼女の子孫である張良・張妹の夫婦神でした。人々は薩神に感謝し、田の畦で祭りをおこない、稲草を家にもってかえってかざります。これは薩神に家族の保護と一年の風雨順調、五穀の豊穣、家畜の健康を祈願するためだといいます。あきらかに薩神は稲魂です。

 トン族が他方で万物の神として崇拝の対象にしているのが
太陽です。彼らの住居、服装、帽子、身体の飾りなどに円形の太陽の造形物をみることができます。トン族の男女は雨具としては用をなさない紙製の傘を冠婚葬祭のさいや日常によくもちいます。この傘は太陽を象徴するもので邪悪なものをしりぞける働きがあるとされています。この薩神と太陽の両者が同一の神格とみなされています。

 薩神と太陽が同一神格であり、民族の祖神としての女神、稲魂、太陽神の三位一体であることをもっともよくしめす祭りが三年に一度の小さい祭り、五年に一度の大祭が正月におこなわれる
薩神の祭祀です。

 日本の新嘗祭ときわめてよく似た構造をもっているこの祭祀について貴州省の苗族自治州黎平県口江郷の例で説明しましょう。この祭りは大きく三つの部分から構成されます(参照、ビデオ『天地楽舞 中国五十五少数民族民間伝統芸能大系 トン族 解説書』日本ビクター・1997年)。

(1) 薩神を迎える儀礼
 この儀礼は村の広場で展開しますが、そのまえに薩神をまつっている祠堂で長老の巫師による招神の儀礼がおこなわれます。このときに祠堂の扉がひらかれ中の本体を見ることができます。おどろくべきことに内部の
神体は半開きの古傘です。傘は太陽であり薩神でもあるのです。儀礼の場所はそのあと広場にうつります。広場の中央には祭壇がもうけられ、魚、卵焼き、豆、酒などと、大量の稲束が供物としてそなえられています。祭壇の正面には八人の男たち長椅子にかけており、彼らはすっぽりと頭から黒い布をかぶっています。やがて巫師たちの祈祷のうちに八人の男たちは奇声を発してとびあがり、膝を小刻みにふるわせて神がかりになってゆきます。彼らは祭壇にそなえられた稲の束を食べ、酒を飲み、はげしく身体をふるわせます。小鈴をふりながら歌をうたい、となえ言をしていますが、しばらくして一人、一人に巫師が息をふきかけ、正気にもどります。

(2)芦笙舞
 神と人の交流です。薩神への感謝を表現します。

(3)男女掛合いの合唱
 神と人の交流のなかで、神への感謝をあらわし、神を送ります。
 この祭りの全体は、神迎え、神人交流、神送りという素朴な三部構造をとっています。その点は日本の新嘗祭や神嘗祭と同様です。

 興味ぶかいのは(1)です。黒い布を頭からかぶって神がかりになってゆき、息をふきかけられて正気にもどる経過は、長江流域の諸民族にひろくみられる
憑霊型のシャーマン儀礼の形式をおそっています。私は苗族の女性シャーマンにそのタイプをみたことがあります。それと複合しているのが、祖先神の稲魂と子孫が幽暗の場所で一つに合体して稲を食する新嘗の儀礼です。しかもその祖先神は太陽神であり女性神です。ここに日本のアマテラスとの一致点が四つみとめられます。

 
アマテラスと薩神との重要な符合はもう一つあります。
 アマテラスは神話上の神であるとともに、現在も継続する日本の王権の祖先です。アマテラスから五世代のちに天皇家の初代神武天皇が登場してきます。アマテラスは歴史上の実在人物ともかんがえられています。
これとまったく同様に薩神も
隋唐時代の女性英雄杏ジ(女扁に尼)(きょうじ)と同一視されています。伝説によると、ある村に杏ジとよばれる才色を兼ね備えた娘がいました。都から派遣された役人が租税として糧食だけではなく、田畑までとりあげようとしました。耐え切れなくなった村人が反乱をおこし、杏ジはその先頭に立って闘い、役人を殺害しました。皇帝は怒って大軍を派遣し、杏ジは村人を指揮してその軍をうちやぶりました。しかし、官軍がその村をやきはらおうとしたので、杏ジは高い崖のうえから投身自殺しました。後人は彼女を記念して祭壇をきずき神としてまつりました(劉芝鳳氏前掲書)。

 この杏ジが薩神と同一神格とみなされ、崇拝の対象になり、トン族の村ではきまってこの
女神の祭壇があります。方形の区画に円形の盛り土がされ、その頂上には樹木が一本うえられています。この祭壇の祭祀ではきまって傘がひろげてかざられます。また貴州省黎平県地捫村が杏ジの自害の場所とつたえられ、杏ジの子孫といわれる男性が現存し、神として特別視されています。

 私は2001年の夏にこの地をおとずれてこの男性に逢っています。高貴な人物にのみゆるされる竜の模様のついた衣装を着て、頭からすっぽりと
古ぼけた半開きの傘をかぶっていました。この男性は日本の天皇とおなじように、宗教的精神的象徴であって、行政上の責任者ではありません。中央から任命されて、実務を執行する行政官はべつにいます。政治と祭祀を分離させた日本の王権の原型をここにみることができます。

 傘が薩神、太陽の象徴として重要な役割をはたしていることがあきらかになりますと、トン族社会に、一部落一基はかならず存在する
鼓楼とよばれる建造物の本質も理解できます。

 鼓楼は長橋(風雨橋)、涼亭などとならぶ
トン族を代表する建造物です。通例は、四本の大杉を主柱として、その周辺に十二本の副柱をそえた楼です。伝説では、四本は四季、十二本は十二か月の風雨の順調をあらわしているといわれています。第一、第二の層は四方形で三層以上は八角形になっています。層は三、五など十七層までの奇数になっています。高さは八、九メートルから十四、五メートルに達するものもあります。

 頂点の層には
一個の大太鼓がかけられています。この太鼓は一族を代表する長老の管理するもので、事件がおこったときに彼は鼓楼にのぼって太鼓を打ち、部落民を招集し、他の部落に異変をつたえます。鼓楼の名称の由来です。

 各層の軒にはめずらしい鳥獣がほりこまれ、人物・花鳥・故事などが極彩色でえがかれています。鼓楼は、政治、軍事などの
議事の場所であり、祖先を祀り、共同の娯楽行事の場所でもあります。

 鼓楼の起源については、
大樹にたいする信仰から発生したという説があります(劉芝鳳氏前掲書)。

 貴州省黎平県述洞村の五層の鼓楼が、一本の大杉のうえの棚から変化していった過程を観察してみちびきだされた説ですから説得力があります。

 しかし、鼓楼の完成形はあきらかに傘です。鼓楼を
巨大な傘とかんがえればその本質が理解できます。鼓楼には傘に託されたトン族の信仰が習合しています。太陽樹木薩神です。

(質問)トン族の信仰や神話が日本の国生み神話の唯一、直接の源流となっているのでしょうか。

 この質問については次回でお答えします。

 今回はこの辺で失礼します。


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