諏訪春雄通信106


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 10月11日(土曜日)午後2時から、講師に法政大学教授川村湊氏をむかえ、
「アジアの遊廓文化」というテーマの研究会がありました。アジア文化研究プロジェクト主催では35回、ほかに各種の助成金での研究会をおこなってきましたので、全体としては50回ほどになる研究会も今回が最後になりました。

 韓国を中心に中国、ベトナム、インドなどの遊廓についても言及され、興味ぶかい話題が展開しました。会場から、なぜ他の国の遊廓は
日本のような独得の遊廓文化を生みださなかったのか、という質問がありました。重要な質問です。アジアの近代化という問題にもからむ、アジア史の根本にかかわる問題です。川村先生は、日本のような近世をもたなかったからとこたえておられました。つまり、中世から一挙に近代・現代となり、遊廓文化を成熟させる余裕がなかったという答えでした。

 この研究会の出席者は知的レベルが高く、毎回、じつによい質問が出ます。50回になろうとする研究会と、ほかに講演会・シンポジウムを10数回、開催してきました。これらの会に皆出席の方々がおられます。知的レベルが高くなるのも当然です。

 プロジェクトの終結を惜しむ声をよく耳にします。当日も会場で熱心に継続をすすめられた方がいました。今のような形態での存続は不可能ですが、形を変えた活動の継続はかんがえています。いずれ、もうすこし構想がととのった段階で発表します。

 翌日の12日(日曜日)、町田市立国際版画美術館で、同館と国際浮世絵学会共催の
「武者絵」をテーマとした研究会があり、閉会の挨拶をするために午後から出席しました。発表は、矢島新氏の「武者絵の絵馬について」、塩谷純氏の「活歴の時代―団十郎・芳年とその周辺」という二つを聞きました。

 どちらも丹念な実証的研究でした。浮世絵研究の広がりと深化がおもわせられて心づよい限りでした。会場で、
絵馬について、何の目的でだれが奉納したのかという質問がありました。これもよい質問です。矢島氏は基本的に神をえがくものとこたえておられました。

 絵馬ということばは
生きた馬を奉納したことにはじまるという語源説は正しいとおもいますが、故事、教訓、芝居、武者など、多様な絵をえがくようになったのは、馬一元論では説明できません。絵馬の絵画については、すくなくとも、つぎの四つの段階をかんがえる必要があります。

  1. 神の像

  2. 祈願

  3. 神と人の共楽

  4. 宣伝・広告など

 この各段階に応じて、源流も多元的です。中国や韓国の寺院や廟でも本殿、正殿の壁にじつに多様な絵がかかげられています。物語性をそなえていて、回廊をぐるりと一回りすると、筋が完結するような絵もあります。神の所作が次第に俗化して芸能や芝居となる推移とみごとに対応しています。
   
〈質問〉王権神話の中心となるアマテラス神話と中国南部神話との関係についてお話しください。
 
 いよいよ皇室の直接の祖神の登場です。
 『古事記』によって整理したアマテラス神話の大筋はつぎのようになります。
 
 黄泉国からのがれたイザナギが穢れをはらうためにみそぎをした
左眼から誕生したアマテラスは高天原の支配を、右眼から誕生したツクヨミは夜の世界の支配を命じられた。から誕生したスサノオは海原の支配を命じられたが、したがわなかったので、根の国へ追放された。
 
 スサノオは根の国へおもむくまえにアマテラスをたずねた。そのあらあらしさに恐れをなした姉の疑いをはらすために、姉弟は誓約をおこない、アマテラスはスサノオの剣をかみくだいて三柱の女神を誕生させ、スサノオはアマテラスの玉をかみくだいて五柱の男神を誕生させた。誓約のあと、勝者としてふるまうスサノオは、田を破壊し、大嘗の御殿をよごし、機織屋に逆はぎした馬の皮をなげこんだ。
 
 おそれたアマテラスは天岩屋戸にこもり、高天原も葦原中国も暗闇となりさまざまな災いがおこった。八百万の神々は、長鳴鳥をなかせ、玉、鏡、白・青の幣帛などをつけた榊をフトダマノミコトがもち、アメノコヤネが祝詞を奏上し、アメノウズメが神がかりして性器を露出しておどった。八百万の神々が大笑いし、アマテラスがのぞいたところを手力男命が手をとってひきだした。
 
 アマテラスは、天降りするニニギに「この鏡をわが魂とおもってまつりなさい」といい、オモイカネに「神の祭りをつかさどりなさい」と命じた。鏡とオモイカネは伊瀬の五十鈴の宮にまつられている。

 この展開は、各段落ごとに、それぞれ、
三貴子誕生誓約(うけい)神話天岩屋戸神話天孫降臨とよばれています。このうち三貴子誕生については前問でかんがえました。ここでは誓約神話から検討しましょう。

 誓約神話は『日本書紀』そのほかにもみられます。ただ
異伝がありますので整理しておきます。

 誓約神話については、これまでに多くの研究がつみかさねられています。その研究史の概要については、大林太良氏の包括的な展望があります(「日本神話の源流」『神話と神話学』大和書房、一九七五年)。こまかな学説の展開は大林氏の整理にゆずり、私は中国南部神話との関係にしぼっておこたえします。
 
 まず、この誓約神話は姉と弟の
姉弟婚として読みとくことができます。『古事記』や『日本書紀』正書、『旧事本紀』によれば、姉アマテラスと弟スサノオは互いのモノザネである玉と剣を交換して、それぞれに女神と男神を生んでいます。モノザネは材料とか物が生じた根源とか説明されていますが、それを交換して神々を誕生させたところには、性的結合を読みとる可能性があります。
 
 『古事記』の冒頭に登場してくる神々の性格を検討するとつぎのようなことがわかります。
 
 
第一に、神々は人格神と自然神に大別できます。ただ、『古事記』の成立した八世紀は全体として人格神の優越する段階にはいっていましたので、自然現象や自然物を神格化した神々も神名をあたえられて人格神としてあつかわれています。
 
 
第二に、最初の段階では自然神が、つぎの段階で人格神が誕生し、神々は全体として自然神から人格神へうつった形跡はみとめられますが、しかし、両者は並存し、前段階の自然神も後段階に発生したはずの人格神の扱いをうけています。

 
第三に、以上と対応して神々は自然発生の段階から人間とおなじように性行為の結果誕生する段階へ推移しています。
 
 
第四に、そうした夫婦神の性行為によって神々が誕生すると観念される段階がきても、自然発生的な誕生観念も依然残存していました。
 じつは、誓約神話は、以上の第四のよい見本です。人類起源神話に普遍的な姉弟婚のおもかげをのこしながら、しかも近親婚のタブーをさけようという意識がみられます。
 
 このような血縁の男女神によるモノザネ交換の性的結合の創世神話を中国にもとめますと、
兄神伏羲と妹神女カ(「女」扁に「咼」)の神話にゆきつくことができます。この中国の創世神話との類似を最初に指摘したのは白鳥庫吉でした。その事を、私は前掲の大林氏の論文によって知りました。大林氏の文を引用します。
   
 かつて白鳥庫吉が、中国の武梁の石室の壁画においては、兄妹神たる伏羲と女カが、その蛇神の下部を互いに巻き合せており、伏羲が地=女性原理を表わす矩(曲尺)を手にもち、女カが天=男性原理を表わす規(コンパス)をもっていて、それぞれ持物を交換したこととの類似を指摘した。
 
 この白鳥の指摘を検討してみましょう。武梁の石室の壁画とは有名な山東省嘉祥県武宅山にある武氏の墓室にきざまれた
漢代の画像石です。確認しておきたい問題は、

  1. 伏羲・女カの神話は中国南部にも分布するのか

  2. この中国の兄神と妹神は持物を交換して性的結合をしたのか

の二点です。
 まず1からかんがえます。
 
 伏羲・女カ神話の誕生の場所はあきらかではありません。私は二〇〇二年の夏、河北省の鹿泉市の近くの
伏羲氏廟をおとずれ、伏羲と女カは実在の人で、この地で誕生したのだという熱心な説明を土地の人からうけたことあります。二人の墓と称するものは、河南省、陜西省、湖北省などにもあり、比較的北方に多いという印象はうけます。

 いま手許にある『徐州漢画像石』(徐州市博物館編、江蘇省美術出版社、一九八五年)、『中国美術全集 絵画編18 画像石画像磚』(上海人民美術出版社、一九八八年)によって、漢代までに伏羲と女カの神話をつたえていた地方をあげますと、つぎのようになります。

山東省 陜西省 四川省 河南省 江蘇省
  
 この結果も北方優位という大勢はかわりません。しかし、神話伝説に注目して、伏羲・女カの伝承をひろいだしますと、中国南部の
ミャオ族ヤオ族のように、洪水神話とむすびつけ、洪水から生きのこって自分たちの先祖となった兄妹は伏羲と女?であったという伝承をつたえている民族があります。
 
 つぎに2についてかんがえます。
 伏羲は古代の伝説上の神または帝王で、
人首蛇身、八卦・文字・瑟(楽器)を発明し、婚礼の制度をさだめたといわれています。また、網をつくって漁労を、火種をあたえて動物の肉を焼くことをおしえたといいます。他方、女カもまた伝説上の女神または女帝で、人首蛇身、こわれた天を補修し、天をささえる柱を立て、芦の灰をつんで洪水をとめたともいわれています。この女神はまた土で人類をつくり、人類に結婚をおしえたという伝説があります。
 
 伏羲と女カが兄妹であり、結婚して人類の祖となったという伝承は、
唐代までには流布していました。唐代成立の『独異志』という書物に、「むかし、宇宙がはじめてひらかれたとき、崑崙山の下に伏羲と女カの兄妹二人しかおらず、天下にまだ人類はいなかった。夫妻になることを話しあうと自然にはずかしくなり、兄は妹とともに崑崙山にのぼり、天が我々兄妹を夫婦とするためにつかわしたのなら、すべての煙を一つにあわせ、もしそうでないのなら煙を散らしてください、ととなえると、煙が一つになったので、妹は兄といっしょになった」とあります(馬書田『全像中国三百神』江西美術出版社、一九九二年)。

 画像石では、伏羲と女カは人首蛇身で
相互に尾をからみ合わせ、伏羲は右手に太陽、女カは左手に月をかかげた図としてあらわれます。太陽のなかには一羽の烏、月のなかには一匹のひきがえると桂がえがかれています。しかし、これにはつぎのようなバリエーションがあります。

 イ:手にそれぞれ玉、仙草、花などをかかげる。

 ロ:伏羲は左手に規(コンパス)、女カは右手に矩(曲尺)をもつ。

 中国だけではなく世界的に
大地は四角、天は円形という観念があります。規(コンパス)は円形をえがき、矩(曲尺)は四角をえがきますので、男性(=天)である伏羲がコンパスをもち、女性(=地)である女カが曲尺をもつロ(四川省崇慶県出土)は通常の画像といえます。しかし、女?が天を補修したという伝承はひろくおこなわれており、白鳥車吉が指摘した山東省嘉祥県武宅山出土の画像はその伝承に対応して、両神の持物を交換したものとみることができます。

 このように検討してきますと、日本の王権神話中の誓約神話の原型を中国の伏羲・女カ神話にもとめることは根拠がある推定といえます。

 つぎに
天岩屋戸神話について検討します。
 アマテラスの天岩屋戸隠れの神話は『古事記』、『日本書紀』正書、『古語拾遺』、『先代旧事本紀』にも同型があり、若干形を変えて『日本書紀』の第一から第三までの一書にもつたえられています。この神話については、

などの解釈がこれまでに提出されてきました。

 これらの解釈の前提には、アマテラスの本質を
太陽神+稲魂としてとらえる理解がはたらいています。最初の大嘗祭説は稲魂観にもとづき、つづく二つの説は太陽神観によっています。また、鎮魂祭説と大祓い説には太陽神観と稲魂観の二つが基礎になっています。
 
 中国南部の少数民族には姿をかくした
太陽を鶏がよびだす招日神話がつたえられています。まずミャオ族のあいだに伝承されている「オンドリになぜトサカがあるのか」という話を紹介します。

 むかし、天に住む天爺さんにはオテントサンとよばれる十人のせがれがいた。天爺さんは自分がねむっているあいだ、十人のせがれに一人ずつ空を見まわるように命じたが、子どもたちは父の言いつけにしたがわず、皆で一度に空をまわることにした。しかし、末っ子だけは父の命令をまもって、兄たちに同行せず留守番をしていた。
 九つのオテントサンが照りつけるため、地上は干あがって作物はみな枯れてしまった。こまった人間たちは相談し、声の大きな動物にオテントサンを追いはらってもらうことにし、アカウシ、シシなどがよばれたが失敗してしまった。そこでつぎに弓の名人が太陽を射ることになり、九本の矢で九つの太陽を射落とした。
兄たちが射落とされるのをみた末っ子の太陽は、肝をつぶし、矢のとどかない山の向こうに逃げ込んで、二度と顔をみせようとはしなかった。世の中は真っ暗闇になり、人々はこまりはてた。
 声の大きな動物に太陽をよびださせることになったが、シシ、アカウシが失敗し、オンドリがよばれた。しかし、しわがれ声で一回めは失敗し、二回めも失敗した。猛練習をかさねたオンドリの三回めのよび声に東の山の頂上から大地をのぞいた。あたりは明るくなり、人々はニコニコして歓迎した。
 オテントサンはすっかりオンドリが気に入って、自分の真っ赤な服のはしを切りとって赤い帽子をつくってやった。それからは、オンドリの呼び声にきっと山の後ろから顔をだすようになった。(村松一弥翻訳『東洋文庫 苗族民話集』平凡社、一九七四年)

 前半は射日神話とよばれる話型で、後半が鶏と太陽の招日神話になっています。この両神話はセットになって、中国のミャオ族のほかに、ワ、ラフ、ハニ、プーラン、リー、ヤオ、イ、チベット、チワン、トンなどの諸民族にもつたえられています。広西チワン族自治区のチワン族の伝承をつぎにしるします。太陽は海のなかににげこんでいます。

 むかし、天と地があまりはなれておらず、地上の人が米をつくとその杵が天をもついてしまった。天上の雷が人に立腹して、太陽の火をさかんにもやして、地上の人すべてに照りつけてひどいやけどさせた。一人の女が赤ん坊を背負って米をついていたところ、太陽がついにその赤ん坊に照りつけてころしてしまった。女は泣きわめき、彼女の夫はいかって、竹の舟竿で天上の太陽を突いた。太陽はこわがって高いところににげ、天もそれにつれてしだいしだいに高くなり、太陽も温和になって人をやけどさるようなことはなくなった。
 人の生活は楽になり、またなまけものになった。糞尿も始末せず、その量がふえ、臭気は天にまでとどいた。雷は大いにいかり、さらに十一個の太陽をつくり、いままでの一個とあわせて天上は十二個の太陽になった。そのために地上の水はすべてかわいてしまった。昼間は熱が火となり、人はただ洞窟のなかですごし、晩に太陽が山にかくれると、わずかなものをとってたべることができた。地面の樹木は枯れてしまい、鳥獣もふえず、人間の生活の苦しみは極点に達した。
 そのときに、侯野という名の巨人がいた。よく十二丈の長さの弓をつかい、正確に遠くを射る猟師であり、人々は彼を尊敬していた。
 十二個の太陽の熱にひどく苦しんだ人々は侯野にたのんだ。
「侯野さん、太陽はこのようにひどく、摘まなければならない樹木の葉はすっかり枯れ、猟をすべき禽獣もみな干からびて死にました。咽がかわいても水は飲めず、私たちは生活できません。あなたはわれわれのためにどうしたらよいかおしえてください」
 侯野はじっくりとかんがえて、一つの方法をおもいついた。十一個の太陽を射落とし、一個だけのこしたら、こんなに熱くはなく、樹木や鳥獣も成長することができる。人間も生存することができる。
 このように決めたのち、山にいって木を切り、一張のもっとも大きくもっとも丈夫な弓と十一本の矢をつくり、太陽を射る準備をした。
 二日めの朝はやく、侯野は弓矢を背負って、もっとも高いの山頂めざして出発し、夕方にたどりつくことができた。そのとき、十二個の太陽は天にならんでかかっていた。陽光は白昼のような猛烈さはなく、ただあわい紅の光をはなっていた。侯野は弓に矢をつがえ一個の太陽をねらって満月のようにひきしぼり、一声さけんで矢をはなつと、矢は命中した。第一の太陽は大きな穴となり影となって落下した。侯野はまた第二を射ると矢は命中し、おなじように影となって落下した。侯野は連続して十一個の太陽を射落とし、最後の一個だけは射ずにおいた。この太陽はこわがり、あわてふためいて海中ににげこんでふたたびのぼってはこなかった。
 太陽が海にしずむと天地は漆黒の闇になった。北風が吹きあれ、寒風は骨を刺した。十二個の太陽がはげしく照っていたときと同様に苦しく、衆人はまたさけんだ。
「太陽よ、太陽よ、出てきてくれ。我々はあなたをうしなって生きてはゆけません」
 侯野は心中で焦った。馬上で人々を集め相談した。大勢の人たちは、もし太陽を呼び戻さなかったら、地上の一切のものは干からびて死んでしまうであろうということで一致した。しかし、だれが海中にはいって太陽を呼び戻すことができるか。人々は
オンドリならできるといった。早朝オンドリが鳴けば太陽は出てくる。侯野はすぐにオンドリのもとにいって訊いた。
「オンドリよ、おまえは太陽をよびだすことができるか」
「できます。しかし、もうすでに太陽は海中にかくれてしまいました。海の真中にいけば太陽を呼びだすことができますが、自分はおよげないし、飛ぶこともできないので、ゆくことはできません」
 侯野は考えた。オンドリは泳ぐことはできないが、メスガモの背に乗ってゆけばできるはずだ。急いでメスガモのもとに行って訊ねた。
「メスガモよ。おまえはオンドリを背にのせて海の真中に行って太陽を読んでくれないか」
 メスガモはなまけものなのでゆきたくなかった。
「私はゆけません。いま卵をかえしています」
 侯野は説得した。
「大勢の人をたすければ、おまえ自身をたすけることにもなる。おまえがいってかえってくるあいだ、私がメンドリに卵をだくようにたのもう」
 メスガモはなまけもので、幾度も断ったが、断りきれずに承知した。しかし、これからのち、鴨が卵を生んでも孵さないことを要求し、侯野は承知した。(鴨が卵を生んでも抱いて孵さないのはこのときから始まったという。)
 いっさいの相談はうまくいった。侯野は人々といっしょにオンドリとメスガモをかかえて、厳寒と暗闇のなかを水をわたって海辺にたどりついた。オンドリをメスガモの背にのせた。メスガモはおよいで海の真中に出た。オンドリははばたきして高い声で鳴いた。なんどもなんども鳴いた。まる一昼夜鳴きつづけると、太陽はそろりそろりと海底からのぼってきた。光の矢が海面を照らし、地面を照らし、すべての地方を照らした。微風が吹き、大地はあたたまった。海辺にいた人たちから喜びの声がいっせいにわきおこった。
 これからのち、天上にただ一個の太陽があり、暑すぎず、寒すぎず、樹木花草は新しい花や実を結び、鳥獣はだんだんと繁殖し、人間は楽しい生活をおくるようになった。

 このような神話はいろいろな変形をともないながら、中国の少数民族社会に分布しています。共通して隠れた太陽を雄鶏の鳴き声で呼び出すというモチーフをもっています。

〈質問〉天孫降臨神話についてお話しください。
  
 このご質問については次回でおこたえします。

 今回はこの辺で失礼します。
   


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