諏訪春雄通信107
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「朝日新聞 夕刊」(2003年10月18日)に「彼らの神は偽りの神 米陸軍中将、反イスラム発言」という見出しで、きわめて興味ぶかい記事が掲載されていました。
「私の神は本当の神だが、彼らの神は偽りの神だ」− 米国防総省の長官室でオサマ・ビンラディン氏やフセイン元イラク大統領の所在を追跡する情報担当のボイキン陸軍中将が、政治的に保守的な傾向を持つキリスト教福音派の集会でイスラム教を敵視する発言を繰り返していたことが明らかになった、という内容です。
中将は「私は狂信者でも過激派でもない。反イスラムではない」とあわてて声明を出しましたが、彼は「イスラム過激派が米国を嫌うのは、我々がユダヤ教、キリスト教を社会の基盤としているからだ。敵の名前はサタン(大悪魔)だ」「ブッシュ氏を大統領に選んだのは神だ」などと発言していて、在米のイスラム団体のつよい反発を買っているということです。
私がこの記事につよい関心をもったのは、現在もその余波の継続しているイラク戦争をはじめとして、ここ数十年、世界で大きな戦争の火種となってきたのが、キリスト教世界とイスラム教世界、つまりは一神教世界だという認識があるからです。
もっといえば、20世紀の歴史を主導してきたのは一神教的世界観でしたが、21世紀は多神教的世界観が主導しなければならないと信じているからです。
一神教の神は砂漠地帯に誕生し、抽象的で男性原理を有します。全知全能で万物の創造主であり、人間や自然とは断絶した神です。西欧近代科学を発達させたものは、冷徹に人間や自然を対象として観察することのできた、この一神教的精神でした。
しかし、異種の神や原理にたいする不寛容が世界の紛争をまねいてきたことも争えない事実です。
一神教が砂漠の宗教であるといわれるのにたいし、多神教は農耕社会の宗教といわれます。自然の豊穣さに感謝し、自然に多様な神々がやどっていると信じることから多神教は生まれました。したがって自然、人間、神々を峻別せず、それらに有機的な生命のつながりをかんがえます。
多神教は西欧近代科学のような厳密な合理科学を生むことはありませんでしたが、自然と人間を一つにとらえる超合理的な哲学や思想に特色あるものを誕生させました。
学習院大学の吉田敦彦先生がおもしろい話をしておられました。吉田先生も一神教批判論者です。ある友人の学者に酒席で先生得意の一神教害悪説を展開しておられたところ、その友人から「そのように一神教を悪と断定する吉田先生も一神教信者だ」と反撃され、ことばをうしなったというのです。
このエピソードは典型的な論理学の循環論法です。吉田先生を一神教信者と断定したとき、その友人の先生もまた一神教信者であり、もし吉田先生がそのようにいいかえされたら吉田先生もその瞬間に一神教信者となります。
この悪循環からぬけだすためには、相手の言い分を承認して、吉田先生のように黙るしかありません。そのうえで、せまい一神教と多神教の対立をのりこえる思想を構築することです。
私はいま、「一神教の功罪」というテーマで一冊の雑誌を編集したいと計画を練っています。そこに顔をつらねることになる執筆陣としては、つぎのような方々を予定しています。
阿満利麿 明治学院大学教授
小川 忠 国際交流基金企画部企画課長
池内 恵 アジア経済研究所研究員
宮田 律 静岡県立大学助教授
青木 保 政策研究大学院大学教授
鍋倉健悦 獨協大学教授
立松和平 作家
吉田敦彦 学習院大学教授
一嶋正真 大正大学教授
いずれ詳細が決定しましたらこの通信でお知らせします。
これまで論じてきた高天原系の王権神話といったんわかれ、日本王権神話の体系にしたがって、出雲神話と中国南部神話との関係を検討することにします。前回の予告とちがうことをおゆるしください。
〈質問〉ヤマタノオロチ神話については西方に起源をもとめる大林太良氏の説がすでに提出されています。この神話は中国南部に由来するのではなく、西方に源流があるのでしょうか。
はじめに大林氏の説を紹介しましょう。大林氏の説は『日本神話の起源』(角川選書、一九七三年)にまとまった形でみることができます。しかし、大林氏はヤマタノオロチ神話の直接の源流は西方にあったといっているのではなく、氏がヤマタノオロチ神話との関係でもっとも注目しているのは中国南部の伝承なのです。氏の説を整理してみましょう。
1 ペルセウスとアンドロメダ型の神話である。
この型の神話はつぎのような筋をもつ。ある地方が、多頭の大蛇、竜あるいは他の怪物によって悩まされる。人身御供(一般に処女)を定期的に供えてやらないと、怪物が住民を一人のこらず殺してしまう。すでに幾多のうら若い処女が殺されてしまった。最後にその身をあたえなくてはならなくなったのは、王様自身の愛娘である。やむなく彼女は怪物にその身を委ねることとなる。ところがここで、たいていは賎しい身分の若者であるが、一篇の主人公たる一人の若者が現われて彼女のために怪物を退治し、その褒美として王女を得る。
2 分布は旧世界では古代文明地帯にかぎられ、その影響で断片らしいものが新大陸にも分布している。
3 蛇は水神であり、少女が竜にたべられる要素は人身供犠の習俗の反映であって農耕民文化を背景にし、武器としては鉄剣が支配的であり、金属文化とかかわる。
4 日本周辺では、ギリヤーク、朝鮮、蒙古、中国、インドシナ、ボルネオ、フィリピンなどに同型神話が存在する。
このようにいう大林氏は、ヤマタノオロチ神話の直接の源流として、中国の長江流域とその南に分布している竜蛇退治説話に注目し、以下のような類話を紹介しています。
東越の庸嶺(福建省)の西北の湿地に大蛇がいた。長さ七、八丈、大きさは十余抱えにもおよんだ。大蛇はだれかの夢や巫祝(ふしゅく)をとおして少女の犠牲を要求した。毎年、役人たちは奴隷の生んだ娘や罪人の娘をさがしだしては大蛇にささげ、その数は合計九人におよんだ。将楽県の李誕の家に六人の娘がおり、寄(き)という名の末娘が大蛇にささげられることを志望した。
寄はよく切れる剣を懐にし、蛇を噛む犬をともなって、八月一日の朝に蛇の洞穴の近くの廟におもむきなかにすわった。あらかじめ数石の蒸し米で団子をこしらえ、それに蜜と炒り麦の粉をまぜたものをかけて、大蛇の穴のなかにおいた。
香気をかぎつけて蛇が出てきてたべようとすると、犬が噛みつき、それにつづいて少女が蛇を切った。蛇は庭に出て死んだ。越王はこれを聞いて寄を后にし、父を将楽県の知事にし、母や姉にも賞をたまわった。
この話は六朝時代(三世紀から七世紀)の初期に成立した『捜神記』にのっている話で、はやく江戸時代末期の考証学者の天野定景(あまの・さだかげ)(1661〜1733)が著書『塩尻(しおじり)』のなかで、ヤマタノオロチ神話との関係を指摘したものです。越王が登場するところからみて紀元前八世紀から五世紀くらいにまでさかのぼることのできるものです。
大林氏は、「単に人身供犠や、結婚の要素が含まれているばかりでなく、蛇を殺すための名剣も登場し、また蛇を殺すに先立って、蛇の好む食物を供えるという細部までヤマタノオロチ神話と一致し、極めて近い関係にあることは疑うことはできない」といっています。
さらに氏は、東部および南部中国にひろくかたりつたえられている
木こりが森のなかで斧をもって精霊を傷つける。この精霊は王女をかどわかしたやつであった。木こりは兄といっしょに王女をさがす。王女がたすけられたあとで、兄は弟を精霊の洞穴のなかにほうりこむ。弟の木こりはほかの動物の助けをかりて脱出に成功、いろいろ苦労した末、王女と結婚する。
というモチーフの説話が母胎となってヤマタノオロチの話も形成されたものと推定しています。
もう一話、浙江省から報告された類話を紹介します(大林氏前掲書)。
むかし、山のふもとに正直者のチェン、山のうえに無情者のユーが住んでいた。二人は友だちで狩人であった。ある日、二人は山のうえに不思議な黒雲を見、チェンが矢をはなつと、雲から宮殿の女の靴がおちてきた。黒雲はある岩のところにながれてゆき、そこで消えさった。二人は翌日町にゆくと、三番目の王女が姿を消したので、見つけたものは男なら皇帝の養子、女なら養女にするという布告があった。
翌日、ユーは五百人と輿(こし)を一台ひきつれてさがしにゆく。チェンは七星の剣と鐘を一つもって、籠のなかにはいり、暗い洞窟中に下りる。なかにはべつの洞穴があり、一人の少女が野菜をきざんでいた。これがうしなわれた王女だった。姫の話では、妖怪は蛇で、一昨日、矢にあたって病気になり寝ているという。
チェンは姫といっしょに妖怪の寝台にゆきその魔法の武器をとりさってしまう。それは火にかけると硬くなる鋼(はがね)の剣だった。蛇がぐっすり寝ているうちに、チェンはその首を斬りおとす。しかし、蛇は魔力をもっていて、大声にわめいてチェンとたたかいはじめた。運よくそのとき姫が水の剣をつかみ、それで妖怪をころした。
チェンは一度は死んでしまったのだが、姫が薬草で手当てをくわえたので生きかえった。姫はもっていた玉の垂飾りを二つにわけ、一つをチェンに記念としてあたえた。二人が洞穴から出て、宮殿にむかう途中、ユーはチェンを泉のなかになげこんでしまった。
ユーは王女と結婚しようとおもったが、玉の飾りをもっていなかったので牢屋にいれられる。チェンは水精にたすけられ宮殿にはこばれる。王女は彼を見、二人は結婚する。
この説話について、大林氏は、つぎのように解説しています。
人身供犠の要素こそないけれども、流れてきたものあるいは雲から落ちてきたものが物語の発端をなすこと、蛇のもっていた神剣、眠っている蛇の退治、救けた姫との結婚はヤマタノオロチ神話との大きな類似点である。また、水の剣と火の剣はインドシナの神剣神話と共通の点であり、二人の男が退治に参加し、一人は一度死ぬがまた生きかえることは、ヨーロッパやミンダナオのペルセウスとアンドロメダ説話と同様であり、姫が与えた宝玉の有無で偽りの救け主の化けの皮がはがれるのは、ヨーロッパの竜の舌と似ている。この浙江の民間伝承は、ヨーロッパのペルセウスとアンドロメダ説話と、日本のヤマタノオロチ神話や東南アジアの異伝をつなぐ大事な例である。
汎地球規模の大きな視野のなかに日本のヤマタノオロチ神話を位置づける大林氏の指摘にはまったく敬服します。
中国の浙江省にはもう一話、神剣、王女などの要素がヤマタノオロチ神話と一致する神話が発見されています。麗水県のショー族がつたえるもので、山中で発見した神剣で竜を退治し、山の神の娘と結婚する筋です(千田九一・村松一弥編『少数民族文学集』平凡社、一九六三年)。
このようにみてきますと、日本のヤマタノオロチ神話の源流として、中国の南部の伝説・説話がかんがえられることは疑問がないとおもいます。その点を確認するために、ヤマタノオロチ神話を
a川をながれる品物 b邪神への人身供犠 c姫を物に変える d邪神の好物を用意 e邪神退治 f宝剣の入手 g姫との結婚
という七つの要素に分類し、各地のペルセウスとアンドロメダ型神話が、いくつその要素をそなえているか、検討してみます。
ギリヤーク b e f g
朝鮮 b e f g
蒙古 b e
中国 a b d e f g
インドシナ b e f g
ボルネオ b e
フィリピン c e g
このように要素に分類して比較してみると、日本のヤマタノオロチ神話とほぼかさなるのは、中国南部の神話だけであって、ほかの地方はわずか数点の類似要素をもつにすぎません。日本神話の源流が中国にあったことが確認できます。
もともとペルセウス・アンドロメダ型神話とよばれるものは、英雄が怪物を退治して、とらわれていた乙女を救出するという筋で、英雄ペルセウスが、エチオピア王の娘アンドロメダを犠牲として要求する海の怪物を退治したというギリシア神話による名称です。
この神話の構成要素を英雄が怪物を退治して乙女を救出するという程度のゆるやかな枠組でかんがえればその分布は、たしかに旧大陸全土にひろがっていますが、ヤマタノオロチ神話からとりだした七つの要素にまで厳密に条件を規定すると、分布は、東アジア、それも中国と日本にかぎられてしまいます。やや枠組をゆるめると、befgの四つの要素をそなえた話型が朝鮮とインドシナに発見されています。
この型の流伝については、「紀元前一千年紀前半の西から東への大きな文化の流れによって、東亜と東南アジアに伝えられた。日本へは、恐らくややおくれて江南から伝えられたものであろう。ただし、ヤマタノオロチ退治の神剣は蛇韓鋤剣(おろちのからさびのつるぎ)とも呼ばれているから、江南から南鮮の二次的中心を経由して伝えられたものかも知れない」と大林氏はされています(大林氏前掲書)。
ギリシアから日本へという一元的伝来ルートをかんがえる氏の説の根底には、中国の鉄器文化が紀元前一千年紀の中ごろ、内陸アジアを経由して西方からやってきたというハイネ・ゲルデルンなどの学説がありました。
しかし、この学説は最近否定されていて、中国の鉄器文化は紀元前六百年ころ、春秋時代後半に、独自に開発されたという見方が有力です。中国の鉄冶錬の技術を生みだした背景には、殷代(紀元前17世紀〜前11世紀)以来の青銅器鋳造の技術、さらに原始磁器や陶器を製作した高温度の窯業の技術があったとされています(杉本憲司「夏王朝から戦国の世へ」『古代中国の遺産』講談社、一九八八年)。
ヤマタノオロチ神話を鉄器文化とともにささえた農耕文化も中国では一万二千年以前に長江流域ではじまっています。これに先ほどの神話モチーフの分析結果を考慮して、私は、ヤマタノオロチ神話の系譜関係については、つぎのようにかんがえています。
ヤマタノオロチ神話の源型は中国南部にある。朝鮮、インドシナ、日本などの伝承は、農耕や鉄器の文化とともに、中国を基点に左右対称にひろがっていったものが残留した。
ヨーロッパのペルセウス・アンドロメダ型説話の影響も東南アジアから東アジアにおよんだが、それは二次的な影響にとどまっていた。
この問題はヤマタノオロチ神話にかぎらず、日本の王権神話全体系にかかわってきますので、これからもくりかえしかんがえてゆきます。
〈質問〉出雲神話ではヤマタノオロチ神話のあとにオオムナチ(オオクニヌシ)の根の国神話がつづきます。この神話も中国南部と関係があるのでしょうか。
大いに関係があります。この問題については次回でおこたえします。
今回はこの辺で失礼します。