諏訪春雄通信110


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 国際浮世絵学会の大会が終了したあと、数人の方々と目白駅近くで打ち上げをやって今帰宅したところです。酔いのまわった頭で入力しています。

 国際浮世絵学会は5年まえに、旧日本浮世絵協会が発展解消して誕生しました。
「広範囲の学問領域をとりこみ、浮世絵を核としたゆるやかな研究連合体」という考えのもとに、これまで学際的な活動をつづけてきました。

 きわめて
可能性に満ちた前途の展望のひらけた学会です。年間予算規模は同種の近世文学会や歌舞伎学会の数倍、銀座に事務所をかまえ専任の事務局員をかかえるというゆとりをもっています。

 浮世絵がまた無限といってもよいような研究領域をかかえています。日本の視覚文化の総合体ともいうべき本質をそなえ、過去の文化を統合するだけではなく将来の日本文化も生みだす力をもっています。

 この学会をどのように発展させるか、責任も重大ですが楽しい課題でもあります。

 新雑誌の誌名がきまりました。
「ジャイロス」です。すでに編集の実務作業にはいっています。


(質問)出雲の国づくり神話では、スクナビコナが海の彼方に去ったあと、御諸山(みもろやま)(三輪山)の神があらわれます。オオクニヌシと三輪山の神の関係をどのようにかんがえたらよいのでしょうか。

 この神話は『古事記』ではつぎのようになっています。

 協力者のスクナビコナは、まだ葦原中国の国づくりが完成しないうちに海の彼方の常世国にわたっていってしまった。とりのこされたオオクニヌシが途方にけれていると、海上を照らして近寄ってくる神があった。その神は、自分の御魂を大和の青垣の東の山のうえに祭ることを条件に協力を申しでた。この神こそが御諸山のほとりに鎮座している神である。

 この『古事記』の神話では、オオクニヌシと三輪山の神との関係がよくわかりません。両神の関係を明瞭にしめしてくれているのは、『日本書紀』八段の第六の一書です。

 国づくりの途中で、協力者のスクナビコナが、熊野の岬から常世国へわたっていったあと、独りで国づくりを完成したオオムナチが、出雲国で「この国を平定したのは私一人の力である」と誇っていると、不思議な光をはなって海上にうかんでくるものがあった。「あなたに協力して国づくりを完成させたのはあなたの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)の私である」と名のり、大和の三諸山に鎮座したいとのぞんだ。そこでその神の宮殿を三諸山に造営した。それが大三輪の神である。

 この神話は二つのおもしろい問題をふくんでいます。一つは、幸魂・奇魂とはなにか、ということであり、もう一つは三輪の神とオオクニヌシの関係です。
 
 最初の問題からかんがえます。
 人類は個体がもつ
霊魂は複数であるとかんがえていました。たとえば、中国の漢民族は、すくなくとも霊魂には二種類あると信じていました。魂と魄です。人間の霊魂のうち、陽の働きをして精神をつかさどるものを魂といい、陰の働きをして形骸をつかさどるものを魄といいました。『春秋左氏伝』の「昭公七年」の個所に有名なつぎのような説明が出てきます。

 人間が生まれて最初にうごきだすのを魄といいますが、魄ができますと陽、すなわち霊妙な精神もできますもので、それを魂といいます。さまざまなものをもちいて肉体をやしなうのに、そのすぐれた精気が多いと魂も魄もつよくなります。そこでその魂魄が精明になると天地の神々とおなじ働きをするようになります。(『新釈漢文大系』明治書院、1977年)

 中国文学者の永沢要二によると、魂の「鬼」は死人であり「云」は呼吸の気を意味するといいます。それにたいし、魄は白光であり、死体の発する戦慄の情を表現していると説明しています(『鬼神の解剖』汲古書院、一九八五年)。
 
 また、語源分析で大きな業績をあげた
白川静は、魂は「雲気となって浮遊する存在」であり、魄は「ドクロ」だといっています(『字統』平凡社、一九九四年)。説明の方法はちがいますが、魂が陽で精神、魄が陰で形骸という点は一致しています。しかも前者は身体からはなれ、後者は身体にとどまっているという点に注目すると、動く霊魂と動かない霊魂という対比になります。
 
 古代の日本人も、中国人とまったく同様に、
動く霊魂と動かない霊魂という観念をもっていました。たとえばつぎの歌に詠まれている魂もそうした遊離魂です。

なげきわび空に乱るる我が魂をむすびとどめよしたがへのつま(『源氏物語』葵)

 その一方で、古代の日本人は人の身体や事物にやどって動かない霊魂の存在も信じていました。つぎの例は死者の身体をはなれない、動かない霊魂です。

うしろめたげにのみ思(おぼ)しおくめりし亡き御魂にさへ瑕やつけ奉らんと(『源氏物語』椎本)

 動く霊魂、動かない霊魂の二分法は、中国人や日本人だけのものではなく、この二種の対比は人類に普遍的な霊魂観です。一般的には、身体霊・自由霊などとよばれる霊魂の区分がそれです。
 
 類はどのようにして
霊魂の存在を認識したのでしょうか。
 自然界の諸事物に霊魂の存在を認識する信仰をアニミズムとよんでいます。霊魂の存在を人類が認識したということは、その段階で人類がアニミズムの信仰をもったということになります。
 
 アニミズムは19世紀の末に英国の人類学者のE.B.タイラーが、宗教の起源を説明すために提唱した概念です(『原始文化―神話・哲学・宗教・言語・芸能・風習に関する研究―』1871年)。彼はあらゆる宗教の根底に≪霊的存在への信仰≫が存在するとかんがえて、これをラテン語のアニマ(霊魂)ということばをもちいてアニミズムとよびました。
 
 タイラーが、人間が霊的存在を認知するきっかけとしてあげたものは、睡眠、夢、幻覚であります。これらの一連の生理現象のなかで、人間は、死人と出あい、時所を超越してなつかしい人や物に再会することができます。そうした体験をとおして人間は、肉体とは異なる霊的存在をかんがえだしたと彼は主張します。彼がいう霊的存在は、死霊、精霊、悪鬼、神性、神々などをひろくふくんでいましたが、要約すれば広義の霊魂です。
 
 タイラーのいう生理現象のほかにも、おそらく、動物と人間とをふくめて、死者にたいする観察が重要な霊魂認識のきっかけになったとかんがえられます。生きているときは、動物も人間も眼をあけ、口から音を発し、鼻や口で呼吸していますが、死ぬとすべてはとじられてしまい、その働きはとまります。死ぬということは、何かたいせつなものが、動物や人間の頭蓋骨からぬけだしてゆくらしい。このような観察の積み重ねのなかで、人間は霊魂の存在を意識し、しかもその在り処を頭蓋骨とかんがえ、さらにそうした霊魂の存在を人間や動物以外のものにもおよぼし、みとめていったのではないかとおもわれます。
 
 はじめは一つ、つぎには二つの霊魂の存在を認識した人類は、しだいにその認識する
霊魂の数をふやしていきました
 
 中国の漢民族は間もなく
七種の霊魂の存在をみとめました。四世紀に成立した道教の経典『抱朴子(ほうぼくし)』では、魂には胎光・爽霊・幽精の三つ、魄には尸狗・伏矢・雀陰・呑賊・非毒・除穢・臭肺の七つがあるとのべています(「地真」)。また、少数民族のホジェン族は三つ、イ族とハニ族は十二個あるとかんがえています。以下は『中国の鬼』(徐華竜著、鈴木博訳、青土社、1995年)からの引用です。

ホジェン族
 第一の霊魂はカンロンといい、人にも動物にもあり、人が死ぬとカンロンはその身体から遊離する。第二の霊魂はハーニーといい、人が眠っているときには一時的にその身体から遊離し、遠くまで出かけていって他人の霊魂と付き合う。人が睡眠中に夢をみるのはこのハーニーのためであるが、人が目を覚ますやもとの肉体にもどってくる。気を失ったり精神病になったりするのは、いずれもこのハーニーを失うからなのである。第三の霊魂はフェヤークといい、投胎転生(人の死後にその霊魂が他の胎内にはいりこんで再生すること)を管轄する神が生み出したものである。人が死ぬと、その身体から遊離して投胎転生する。女性が妊娠しなかったり流産したりするのは、いずれもこのフェヤークが遊離したり他人にうばわれたりするからである。

イ族
 一つは身体によりついている霊魂、一つは天上にいる霊魂、一つは家を守る霊魂で、他の九つは護身の霊魂である。天上の霊魂は永久不変であり、けっして朽ち果てることがない。身体によりつく霊魂はその人が生まれるまえから地上に下りてきており、この霊魂が昇天したり遊離したりすればその人は死ぬ。

ハニ族
 人は地上に生まれ落ちるや霊魂を十二個もつとかんがえている。この十二個の霊魂は人体の安危禍福にたいしそれぞれ異なる役割を果たしていて、第一魂、第二魂、第三魂……第十二魂と整然とならんでいる。第一魂は主魂で、人体にぴったりくっついている。第二魂は次魂で、類推をつかさどる。この十二個はならんでいる順に健康にたいして演じる役も異なり、身体に近いものほど大きな役を演じる。身体を永遠に安全健康に保つには、十二個の霊魂がつねに一つ残らず身体を取り巻いていなければならない。霊魂が遊離すれば病気になったり災難にあったりするが、小さな霊魂が遊離すれば軽い病気、大きな霊魂が遊離すれば重病になり、身体にぴったりくっついている主魂が人体から遊離すれば人は死ぬ。霊魂はいちばん後ろの第十二魂から遊離していき、主魂がまっさきに遊離することはない。

 霊魂の数が多くなるのは、おそらくシャーマンなどが想像力をはたらかせて、その民族の霊魂の機能を精密に説明しようとした結果であったでしょう。

 古代の日本人は、身体霊のほかに、
遊離霊として四種の霊魂をかんがえていました。幸魂・奇魂、荒魂(あらたま)・和魂(にぎたま)の四つです。まえの二つはオオクニヌシの国づくり神話にあらわれるオオクニヌシの遊離魂であり、後者の二つはおなじ『日本書紀』の「神宮皇后摂政前紀」に、住吉三神の遊離魂としてあらわれています。幸福・霊妙、勇武・柔和と対比的な性格をもっていた霊魂でした。

 幸魂・奇魂はオオクニヌシの豊穣神、創造神の機能をになった遊離魂であったことがわかります。

 つぎに
オオクニヌシと三輪の神の関係についてかんがえてみます。
 
 『古事記』や『日本書紀』によりますと、三輪に鎮座する神はオオクニヌシの遊離魂ということになります。さらに、
『延喜式』におさめられている出雲国国造(くにのみやつこ)が奏上する「神賀詞(かむよごと)」には、大穴持命(オオクニヌシの別名)が「自分の和魂を鏡につけて大和のオオモノヌシクシミカタマと美称をあたえて三輪山に鎮座させなさい」といったとあります。

 なぜ、これらの書にくりかえし、出雲大社の祭神オオクニヌシがあわせて大和の三輪神社の祭神であると説かれているのでしょうか。これを解明するための鍵になる記述が『日本書紀』の崇神天の個所にあります。おおよそつぎのような内容です。

 崇神天皇の御代、疫病が流行し、民が離散して、反乱をくわだてる者さえ出るなど、災いがおさまらなかった。天皇はふかく反省し、それまで皇居内部にまつってあった天照大神と倭大国魂神の二神を皇居から出してほかの地でまつらせた。しかし、災害は依然おさまらず、天皇は神浅茅原で神々の意志をうらなわせた。そのときに大物主神が巫女にのりうつり、「自分をまつれば天下は平穏になるであろう」と告げ、「私は大和の国内にいる神で、名を大物主神という」と名のった。天皇がその教えにしたがって祭祀をおこなったが、効果はなく、さらに神意を問うと、ふたたび大物主神が天皇の夢にあらわれ、「自分の子の大田田根子にまつらせなさい」とおしえた。

 さらに三人の臣下がおなじ夢をみたので、天皇はそのお告げにしたがって、大物主神と倭大国魂神をまつらせたところ、国内は平穏におさまった。

 そののちも、天皇の夢に神のお告げがあり、その教えにしたがって神々をまつると、国内はしずまったが、辺境地帯の騒乱おさまらなかった。そこで天皇は四道に将軍を派遣された。
  
 天皇の晩年、天皇は群臣に詔して、武日照命が天からもってきた出雲大社の神宝を見たいとおっしゃり、使いを派遣された。そのとき、神宝を管理していた出雲振根が筑紫に出かけて留守であったので、弟の飯入根が神宝を天皇に献上した。筑紫からもどった振根は勝手な振る舞いに激怒し、弟を止屋の淵につれだしてだまし討ちにして殺害した。その知らせを聞いた天皇は兵をおくって振根を討伐された。出雲の人々は、この事件におそれてしばらく出雲の大神をまつらなかったが、大神の口をかりて祭祀の中絶をなげかれたので、ふたたび勅をくだして大神をまつらせた。

 この筋をさらにわかりやすく整理してみましょう。

  1. 国内に災害がおさまらなかった。

  2. 天皇はふかく反省し、皇居内にまつってある天照大神と倭大国魂の二神を皇居から出してほかの地にまつらせた。しかし、倭大国魂神はその祭祀をうけいれなかった。

  3. 国内の災害は依然おさまらず、崇神天皇は神意をうらなわせた。そのときに大物主神が巫女にのりうつり、「自分をわが子の大田根子にまつらせなさい」と告げた。

  4. 天皇はそのお告げにしたがって、大物主神と倭大国魂神をまつらせたところ、国内は平穏におさまった。

  5. そののちも、天皇の夢に神々のお告げがあり、その教えにしたがって神々をまつると、国内はしずまったが、辺境地帯の騒乱はおさまらなかった。天皇はそこで四道に将軍を派遣された。

  6. 天皇は出雲大社の神宝を見たいとおもわれた。神宝を管理していた出雲振根の弟は、兄の留守に勝手に神宝を天皇に献上し、いかった兄に殺害された。天皇は振根を討伐された。出雲の人々はしばらく出雲の大神をまつらなかったが、大神が小児の口をかりてなげかれたので、ふたたび勅をくだして大神をまつらせた。

 こうした『日本書紀』の記事からあきらかになってくることは以下の三点です。

ア 国内(大和)・国外(大和の外)の騒乱は神々の意志のあらわれである。
イ 国内(大和)の治安は主として大物主神が関与しており、その正しい祭祀(三輪神社の造営)でほぼおさまった。
ウ 国外(大和の外)の治安は主として出雲大神の関与するところであり、その神宝の朝廷による管理と、出雲大神に対抗する天照大神の正しい祭祀(伊勢神宮造営)が治安の維持に不可欠であった。

 『日本書紀』で展開された以上のイデオロギーは、崇神天皇のあとをついだ垂仁天皇の時代の伊勢神宮祭祀にうけつがれて完結します。以下、垂仁天皇の条から関係ある記事を引用します。

 二十五年春二月、天皇は先帝崇神天皇にならって天神地祇の祭祀につとめることを宣言された。三月、天照大神を豊鋤入姫命からはなして倭姫命は鎮座する場所をもとめ、倭の宇陀、近江、美濃とめぐり、天照大神の神託にしたがって、社を伊勢に建て、斎王宮を五十鈴川のほとりにつくらせた。こうして伊勢国は天照大神がはじめて天から降臨された地である。

 この垂仁天皇の記事をくわえることによってオオクニヌシと三輪の神、オオクニヌシをまつる出雲大社と大物主神をまつる三輪神社、さらに天照大神をまつる伊勢神宮の三者の関係が、あきらかになってきます。
 
 日本の古代史学者のあいだに
王朝交代論とよばれる学説があります。かんたんにいえば、天皇家は『古事記』や『日本書紀』に記述されるような万世一系などではなく、幾度も王朝が交代しているという説です。江上波夫「騎馬民族征服論」などを先駆的な学説として、水野祐井上光貞上田正昭などがそれぞれの立場から古代王朝の交代を主張し、それにたいする反論もまた活発です。
 
 そうした各種の古代王朝交代論のなかで、研究者がほぼ一致して、最初の王朝の建設者としてあげているのが崇神天皇です。
 
 たとえば、騎馬民族渡来説をとなえた
江上波夫は、古代の東アジアでは、北方の騎馬民族が南下して各地に征服国家を建設し、その系譜をひく南朝鮮の任那の王が崇神であり、この崇神が北九州にはいって、日本の最初の王になったと主張しました(『日本民族の起源』平凡社、1958年)。

 
水野祐は、『古事記』や『日本書紀書』の「崩年干支」つまり天皇の死忘年に関する記述の有無を検討して歴代天皇の実在を判断し、そのうえで、古王朝、中王朝、新王朝の三王朝交代論をとなえました(『増訂日本古代王朝史論序説』小宮山書店、1954年)。その水野氏が古王朝最初の王とかんがえているのも崇神天皇です。
 
 また、日本最初の王朝として三輪王朝を想定した
上田正昭も三輪王朝初代の天皇として崇神天皇を想定しています(『大和王朝』角川新書、1976年)。崇神天皇の和名ミマキイリヒコ以降、名前にイリをもつ皇子や皇女たちが歴代の天皇となったイリ王朝は、三輪地方に宮居や墳墓をもつことが多く、三輪を拠点に勢力をひろげていったと上田氏は説いています。
 
 『古事記』や『日本書紀』の記載をすべて史実と読むことの愚かしさはいうまでもありなせんが、しかし、まったくのでたらめと片づけることも学問的ではありません。
 
 『日本書紀』の崇神天皇の時代に大物主神の祭祀によって大和の国内はおさまったが、辺境の動乱は依然としてつづいていました。これを史実の反映とみますと、三輪地方に根拠をおいた崇神王朝が、地方最大の土地神であった三輪神社を管理することによって、大和国内はおさまったが、大和国外の勢力を制圧するまでにはいたらなかったという当時の政情を反映していると解釈することができます。
 
 古代において兵をうごかす
軍事は信仰の戦いでもありました。崇神天皇は大和国外の四道に軍を派遣するとともに、国外信仰の最大拠点であった出雲大社の管理にのりだします。それがこの天皇の御代におこった神宝事件でした。
 
 父のあとをうけて、大和国外の制覇を完成したのが子の垂仁でした。垂仁天皇の時代に出雲大社の管理統制が完成し、伊勢神宮が創設されました。出雲大社は国外勢力の象徴としての役割をはたしています。そのときに出雲を舞台として、高天原つまり大和の勢力の関係としてかたれる
出雲神話の国ゆずりあるいは国づくりの物語は、じつは大和とその周辺で事件の記憶を核に構想されたものと読みとることができます。すでに統一された大和を出雲に比定することによって出雲の統一が実現できるという思考法です。
 
 
くりかえし、オオクニヌシが三輪の神と同一神格とかたられていることの意味もそこにもとめることができます。
 
 今回はこの辺で失礼します。


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