諏訪春雄通信111


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 平成4年に発足して11年間つづいた
アジア文化研究プロジェクトも今年12月13日(土曜日)、14日(日曜日)の大会「日本文化―解体と再生―」で終了します。そのために会報の最終記念号が刊行されました。13名の参加者の方々が、思い出やら最新の研究成果やらをしるした文を寄稿しており、また代々の事務局員のなかから6名の方が思い出の文をよせておられます。

 そのほか、大会、研究会、各種刊行物の記録、会報・参加者・歴代事務局員・諏訪春雄通信の資料などが満載されていて、この
プロジェクトの11年間の活動の跡が把握できる盛りだくさんの内容になっています。多方面の方々に無料で配布しています。ご希望の方は事務局へ申し込んでください。

 何度か、この通信で、中国長江中流域の稲作の民である
トン族についてふれてきました。この民族が先祖の神として信奉している薩歳が日本の皇室の先祖の神アマテラスとまったくおなじ性格をもっていること、祭政を分担するヒメヒコ制が存在することなどについてものべてきました。
 
 そのさいに私が気になっていたのは、トン族が太陽信仰と結合した
傘の信仰をもっていることでした。彼らが祭政の場として一部落にかならず一基は建立する鼓楼は傘の形をあらわしています。この傘の信仰が日本の古代にもきっと存在したはずだが、まだ明確な証拠を発見できないでいるということがひっかかっていました。

 しかし、ごく最近、日本の古墳時代の王城跡の出土品にあきらかに傘の形をした
埴輪が複数出土していること、平成天皇の大嘗祭に傘が重要な役割をもって登場していたこと、などを発見しました。

 関心のある方はこの通信とともにお送りしているアジア文化写真館vol.21の6番目の画像をご覧ください。この
トン族の生き神とまったくおなじ姿を日本の大嘗祭で即位する天皇に見ることができます。
 この問題の詳細は13日の大会の私の講演
「日本文化と王権」であきらかにします。ぜひ、当日、会場にお見えになってください。

 
「頼めば越後から米搗(つ)きに来る」ということわざをご存知でしょうか。たとえば小学館の『故事・俗信 ことわざ大辞典』は「切実に頼めばどんな難儀な事にも応じて引き受けてやってくれるものだということ。要は頼み方次第だということ」と説明していますが、すこしニュアンスが違います。

 私たち越後人は、
越後の人たちの人の好さをからかったことわざとして受け取っています。

 雑誌
『ジャイロス』(羅針盤)は、発行元勉誠出版の希望で月刊誌として発足することになりました。そのために、2週間の期限をきって私一人で6つの企画を立てることになりました。この期限は私が申し出たものです。 つまり、今後、責任編集者として、月刊誌の企画を立ててゆくことができるか、どうか、私自身で確認するために、自分で背水の陣を敷いてみたものです。

 すでに、
「一神教の功罪」「子どもの反乱」「国文学は自己変革できるか」という三つの企画は執筆者の人選まで終わりました。このあと「天皇制への視点」「現代仏教批判」「沖縄のやさしさが日本を救う」という三つの企画を来週までに立てます。

 企画のテーマをえらぶことはさしてむずかしくありませんが、企画の趣意書を書き、ふさわしい執筆者をならべることが大変な作業なのです。このときに、11年間にわたるアジア文化研究プロジェクトの活動の立案、実施が、私にとって
大きな財産になっています。

 退官後の仕事として、これほどやりがいのあるものはないと思う一方で、私もやはり
越後人の血をしたたかにひいているのかと苦笑しているこの頃です。

(質問)天孫降臨神話に先立って高天原から葦原中国へ使者が派遣されます。そこで使者の一人アメワカヒコの興味ぶかい葬式場面が展開します。この場面について説明してください。

 この神話は『古事記』ではつぎのようにかたられています。

 アマテラスの命令で葦原中国へアマテラスの御子のオシホホミミが支配者として天下ることになったが、下界のおさまっていない様子をみてオシホホミミはもどってきてしまった。アマテラスはタカミムスヒをはじめ多くの神々と相談して、アマテラスの第二子アメノホヒノカミを平定のために派遣したが、この神はオオクニヌシにへつらって三年たってももどってこなかった。

 つぎに
アメワカヒコに弓と矢をもたせてつかわしたが、この神もオオクニヌシの娘のシタテルヒメをめとって八年ももどらず、高天原からの偵察の雉のナキメを射殺してしまった。しかし、高木神(タカミムスヒの別名)によって投げかえされた矢にあたって、アメワカヒコは死んだ。その葬式が八日八晩にわたって盛大にもよおされた。その最中、シタテルヒメの兄タカヒコネは死者とまちがわれたことに立腹して、喪屋を破壊してしまった。

 この物語は『日本書紀』でもほぼおなじですが、若干異なるところがあります。注目される相違点はつぎのとおりです。

  1. アメワカヒコがタカミムスヒの矢にあたったとき、彼は新嘗の祭りをして眠っていた。

  2. アメワカヒコの葬式は『古事記』では葦原中国でおこなわれるが、『日本書紀』では死体を天上にはこんでいとなまれる。

  3. 葬式に奉仕する諸役に『日本書紀』一書には『古事記』にはない「"立"扁に"鳥"(そに)の尸(ものまさ)」が登場する。

  4. タカヒコネは『日本書紀』では兄ではなく友人である。

 この相違点のなかで注目されるのは3の尸です。〈そに〉は〈かわせみ〉の別名です。尸は屍のもとの字で死体をさします。〈ものまさ〉のものは霊、まさはます(座)の未然形で、霊のよりつく所がもとの意味です。平安時代に用例の多いよりましとおなじ意味になります。

 室町時代の『日本書紀』の注釈書
『神代巻口訣(くけつ)には「尸は死衣を着して弔いを謁す」と説明しており、奈良・平安時代の宮廷における『日本書紀』講読会の覚書『日本紀私記』には「死人にかはりてものくらふ人」とあります。死霊の代理となって葬儀で弔意をうける者がものまさということになります。葬儀で、死霊のふるまいを具象化してみせるものであり、死霊のよりつくものの意味となります。みえないものの可視化といっていいとおもいます。
 
 このような奇妙な葬儀習俗の源流は中国にあります。
中国古代では葬儀にかぎらず祭祀一般で、まつられる神の象徴として尸が立てられ尸を立てない祭りは正祭とはみなされませんでした。尸は祭りで神霊にふさわしい衣装を身にまとい、人々の拝礼をうけ、ささげられた酒や食物を飲食し、神霊の動作を模倣しました。祭りを主宰する祭司とのあいだに問答がかわされることさえありました。周代成立の『儀礼』によりますと、祖先をまつる祭りで、祖霊に扮した尸と祭司とのあいだにつぎのようなことばがかわされていました。まず祭司が尸にむかっていいます。

「祖先にたいして孝心をもつ孫のなにがしは、わざわざ羊や豚、野菜の漬物や塩漬けの肉、きびもちやうるちきびなどを用意し、年に一度のお祭りに祖父のなにがしにおそなえします」
 これにたいし尸がこたえました。
「我は祭司に命じてこのうえない幸福をさずけさせよう。孫よ、こちらへおいで。お前に天の恵みをさずけよう。田に穀物がみのり、寿命が万年もつづき、永遠にうしなわれることがないように」

 アメワカヒコの葬儀風景はこの中国伝来の立尸の習俗ではじめて読みとけます。

 アメワカヒコの葬儀で奇妙な習俗にうけとられるのは、
各種の鳥が参加していることです。これはさかのぼれば、中国の諸民族が奉じるトーテムとかんがえることができますが、立尸の祭祀でも人間以外の多様な尸が扮装で登場しており、それらのなかには鳥や動物もいました。このことについては、黄強氏が、任二北氏の「戯礼―周代?祭」という論文によって詳細に検討しています(『中国の祭祀儀礼と信仰』第一書房、1998年)。おそらく全身をおおう仮面によって表現したものとかんがえられます。自然の各種の神々、精霊も祭祀に参加しているという観念がそこにはたらいています。

 つぎに、『古事記』ではアメワカヒコの妻シタテルヒメの兄タカヒコネが、『日本書紀』では友人のタカヒコネが死者とまちがわれて立腹して
喪屋を破壊するという、これも奇妙な事件がおこっています。この筋も立尸の習俗を背景にその意味がとけます。家族親族がタカヒコネをアメワカヒコとまちがったのは、彼を尸と見あやまったからです。中国の立尸の習俗で、尸に扮するものは直系の子孫、特定の官職身分の役人、同性の他人でした(黄強氏前掲論文)。タカヒコネはこの同性の尸とあやまれたことになります。

 立尸の習俗については、中国古代の各種の書物に記述されていて、中国の全土にひろまっていたものとかんがえられます。しかし、生身の人間に神霊のやどることにその源流はもとめられ、
シャーマニズムの憑霊型に発しています。中国のシャーマニズムの分布は、南部は憑霊型、北部は脱魂型というかなり明確な地域差があります。その点から、古代の日本神話に登場した立尸の習俗もその由来は中国南部にあった可能性がのこされています。

〈質問〉天孫降臨神話についてお話しください。
 
 この問題については次回でおこたえします。
 
 今回はこの辺で失礼します。


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