諏訪春雄通信114
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12月4日(木曜日)、研究室をとおして、毎日新聞和歌山支局の記者小林多喜子さんから興味ぶかいFAXをもらいました。
「現在、私は、明治4年に和歌山県の高野山で起きました、赤穂藩士らによる「日本最後の仇討ち」といわれている事件について取材をしており、先生のお力をお貸しいたただきたいと思います。先生が執筆なさった、朝日新聞社発行の「週刊朝日百科 日本の歴史」63号のコラム「仇討を生む風土」を読ませていただき、ご連絡させていただきました」
という書き出しでつぎのような内容の文でした。
「事件は、通称、「高野の仇討ち」などと呼ばれ、大正時代に「作水峠」というタイトルで事件の概要が大阪朝日新聞に連載されています。幕末の赤穂藩での藩政改革、藩主継嗣問題をめぐる下級藩士と上級藩士との対立から、当時の参政が下級藩士に暗殺され、9年後に下級藩士は7人が出家をするため(仇討ちから逃れるためと見られます)高野山にむかう途中、息子や助太刀8人によって仇討ちされています。
取材しておりますのは、仇討ちに成功した藩士らが、事件後に藩士らの介抱などをした現場付近のお茶屋に、世話になったお礼に遺した寄せ書きが発見されたためです。寄せ書きはお茶屋のひ孫である大阪府在住の女性が所有していました。
そこで、この寄せ書きにどのような価値があるか、などを先生にお聞きしたく思います。もしお受けいただけるようでしたら、寄せ書きの写真や書いてある内容などをお送りさせていただきたいと思います。」
電話とFAX、メールなどでのやりとりがあって、私の手許に寄せ書きをしたてた掛け軸の写真、その翻字、事件の報告文、解説文などがそろいました。
長時間の電話取材に私がこたえた要点はつぎのようなものでした。
出現した掛け軸の信憑性
2人の漢詩と2人の短いことば、計4人の寄せ書きです。メールで送られてきた写真による判断ですが、漢詩の内容、字体、干支などから判断してまず本物とかんがえられます。
掛け軸の価値
無名の人たちの漢詩や文字ですから、それじたいの価値はとぼしいものですが、この事件が一つのきっかけになって明治政府が6年に仇討ちの全面禁止令を出しています。その最後の仇討ち関係者の残した寄せ書きとかんがえると俄然興味深い資料になります。
寄せ書きの内容は、2人は感情の高揚、2人は脱力感を表現しています。この対比がおもしろい。このようなさいに筆で漢詩を書きのこせる江戸時代の人たちの教養には感服します。
仇討ちの容認は無制限な人殺しの連鎖になりますので、法と情の対立として、古来、論争がかわされてきました。赤穂浪士の仇討ち直後も儒学者のあいだで是非をめぐってはげしい議論がありました。しかし、日本人は伝統的に仇討ちを美化する傾向があり、この高野の仇討ちでも、事件直後に土地の人たちが関係者をあたたかく介抱していました。その証しが、この寄せ書きの軸装された一幅です。
当時の赤穂藩主は酒井氏で元禄の浅野氏とは無関係でした。しかし、元禄の赤穂浪士の伝説がこの明治の赤穂藩士の仇討ちとかさねあわされて、生きのこった当事者を英雄化したふしがあります。関係者は一度は禁固されましたが、明治九年には全員自由の身になっています。
両派は公武合体(上級藩士)と尊皇攘夷(下級藩士)の対立でもありました。藩論の大勢が後者から前者に大きくうごき、そこに藩主の後継問題もからんで、関係者の命運を左右しています。仇討ちをした連中は公武合体派優勢の後押しをうけて決行にはしったふしがありました。所詮は彼らを超えた大きな力にうごかされた討つ者と討たれる者でした。そのようにかんがえると、この事件にもどこか悲哀とむなしさがのこります。
文学的な価値はありませんが、県の歴史資料館のようなところで、事件の記録とともに保存されたらよいと思います。
〈質問〉天孫降臨のさいに道案内としてあらわれる猿田彦も中国南部と関係があるのでしょうか。
『古事記』『日本書紀』に共通する猿田彦の本質はつぎの四つにまとめることができます。
辻の神である。
巨大な鼻、光り輝く眼などの異相をもった巨大な神である。
道案内の神である。
アメノウズメ(猿女君の祖)によって正体をあらわされる。
両書にはほかにもいろいろな記述があります。『古事記』には伊勢に鎮座したなどの後日談がついています。しかし、今は本質だけを考慮すれば右の四条になります。なぜ右の四条を私が猿田彦の本質といいきるか疑問をもたれでしょう。
日本の各地の祭や民俗芸能に多くの猿田彦が登場します。その数は、ざっと調査しただけで四十種近くなります(文化庁監修『日本民俗芸能事典』第一法規、1976年他参照)。二、三の例をあげます。
茨城県桜川村阿波大杉神社の阿波囃子……神輿渡御の先頭を猿田彦がゆく
千葉県千倉町日枝神社の白間津祭……神輿のお浜下りの行列に猿田彦が登場
広島県豊栄町の豊栄神楽……猿田彦の神事式がある
これらの民俗芸能に登場する猿田彦の特性をまとめればつぎのようになります。
ア 行列の先頭をゆくことが多い。
イ 四方固め、道開きの性格をもつ。
ウ 天狗面、荒神面をつける。
エ 猿女君とコンビになることがある。
オ 矛、剣、杖、扇などをもつ。
以上の五つの特色は、古代神話の猿田彦の特質から生まれたものですが、逆に、のちの民俗芸能からみちびきだした特質を検討することによって、古代の神話の猿田彦の本質があきらかになります。そのような判断にもとづいて、私は先の四条をとりだしたのです。
おなじ民俗芸能に王の舞とよばれる仮面の芸能があります。『王の舞の民俗学的研究』(ひつじ書房・1977年)の著者橋本裕之氏は王の舞の特徴として以下の六つをあげています。
(1)祭礼の中では行列を先導する機能を担っている。
(2)祭礼芸能の一環として、田楽・獅子舞などに先立って演じられる。
(3)しばしばうちかけ装束を着用し、鳥甲(とりかぶと)に赤い鼻高面をつける。
(4)前段は鉾をもち後段は素手で、四方を鎮めるかのように舞う。反閇(へんぱい)の芸能化と理解することもできる。
(5)人指し指と中指をそろえて伸ばし、薬指と小指を親指で押さえる剣印が舞の要素をなしている。
(6)楽器としては、太鼓・笛がもちいられているばあいが多い。
この六つの特色のうち、(1)から(4)までは、民俗芸能で演じられる猿田彦の特徴と類似するものがあります。事実、中世の文献には、両者の関係をうたっているものがみられます。たとえば、その一つ、金春禅竹の能楽秘伝書の一つ『六輪一露之記』にはおおよそつぎのような記事があります。
天孫が降臨なさったとき、アマテラスが猿田彦という神に化身され、天孫の先駆をなさった。その神は鼻の長さがおおよそ七咫(ななあた)五尺六寸、眼は八咫鏡(やたのかがみ)のようであった。伴をしていたもろもろの神たちは、この猿田彦の顔に負けてたちむかう人はなかったが、ウズメノミコトだけは、猿田彦と対峙してその名をあきらかにした。猿女君というのはこの猿田彦の名によっている。今の世のもろもろの祭に王の舞と名づけて、神輿の先導をつとめるのは、猿田彦の形をうつしたものである。
『六輪一露之記』は室町末期の康正元年(一四五五)秋ごろの成立とされています。それよりはやい鎌倉末期から室町の末くらいまでに成立した『釈日本紀』そのほかの諸書におなじような記事があらわれています(橋本氏前掲書)。王の舞が古代の猿田彦の流れをくむという見方が中世にはかなりひろまっていたことがわかります。
王の舞の由来については、しかし、まだ定説はありません。これも橋本氏の調査にしたがって各説を整理してみます。
舞楽の蘭陵王
舞楽の振鉾・陵王・散手・貴徳
伎楽の治道と舞楽の散手・貴徳ら
呪師芸
これらを総合しても王の舞の由来は不明としかいいようがありません。舞楽、伎楽、呪師芸との関係も、芸態や仮面・衣装などの類似からの臆説にすぎないところがあり、また、猿田彦との関わりも、猿田彦の仮面は近世以降に登場したものであり、そのさいに王の舞の面が逆に猿田彦の面に摂取された可能性を指摘する後藤淑氏の説(『民間仮面の基礎的研究』錦正社、1995年)も無視できません。
ここであたらしい視点から猿田彦と王の舞に検討をくわえてみましょう。
中国大陸で、紀元前十四、五世紀にさかえた商(殷)のころから現在にいたるまで、民衆のあいだでまもられつづけてきた祭に儺があります。考古学の遺品や出土品によりますと、商の時代の儺は打鬼とよばれており、打鬼を主宰する人はかならずすさまじく凶悪な相の仮面をかぶって、これも人が扮した鬼怪の類をおいはらいました。凶悪なものをより凶悪で強いものの力をかりて追い払うという、のちのちまでうけつがれていく儺の根本精神がはやくもみられます。
紀元前十二世紀からの周の時代になると、儺の祭が国家行事として形をととのえました。そして、この周の時代に「儺」がこの種の打鬼の行事をあらわすことばとして定着しています。
周代の儺の祭は、規模の大小と季節により三分されていました。天子と諸侯が参加する国儺、王室だけでおこなう天子の儺、宮中と民間があげておこなう大儺です。大儺は一年の終わりに演じられました。
これらの儺祭で主神として活躍するのが方相氏(ほうそうし)でした。彼は『周礼』の記載によると、「熊の皮を着て、黄金四つ目の仮面をかぶり、上着は黒、ズボンは朱色で、手に矛と楯をもち、多くの配下の神々をひきいて儺にあたった」といいます。
儺は時代がたつにつれて規模も大きくなり、内容も複雑になってゆきました。のちの宋代になりますと、方相氏の名は消え、かわって宮中の散楽所に所属する俳優や楽人が仮面をつけて、将軍、鍾馗、五方の神、かまどの神、土地の神、門の神などに扮して、音楽に合わせ、宮廷の門外に祟り神を追いだしています。このような儺祭の演劇化はますますすすみ、演目も古典、民間伝承、神話などに取材して多様をきわめました。方相氏が消えたのは、宋代になって禁止されたからでした。葬列などの先導をつとめた方相氏の大げさな演出が官からきらわれたためでした。しかし、その一方で、古代の様式をのこした儺の祭祀も地方で保存され、正月を中心に実行されています。
現在の各地の儺祭に開山とよばれるおそろしい形相の先導神が登場してきます。方相氏が禁じられても、儺祭そのものは禁じられなかったので、方相氏の代役として出現したものでした。
現在、中国の儺祭でみることのできる開山の特色はつぎのようにまとめることができます。
ア 儺祭に登場する先導神である。
イ 古代の方相氏の性格をうけつぎ、手に鉞をもつ武装神である。
ウ 青または朱の凶悪な仮面をかぶる。
エ 指で印をむすび、足で悪鬼をしずめる片閇をふむ。
オ 宋代の十世紀後半に片相氏が禁じられてから代わって登場した。
このような特色をそなえた開山は、日本の王の舞の原型とかんがえられます。先に引用した橋本氏のあげる王の舞の六つの特色とくらべてみます。王の舞の(1)と(2)は祭礼の先導神または鎮めです。これは開山のアにあたります。王の舞のBは武装と仮面であり、開山のイとウにあたります。ただ、王の舞の扮装には、日本の先行芸能の舞楽や雅楽の影響をうけているために、開山の扮装とはちがってきています。王の舞の(4)と(5)は剣印と片閇であり、開山のエにあたります。
王の舞は平安の末ごろに、突如として日本の祭礼に登場しており、それより二世紀ほど先行して、中国大陸に出現していた民俗神が開山でした。平安の末から鎌倉時代にかけては、大陸から民俗の祭祀や芸能が大量に日本に流入してきていた時代でした。ことに儺系の祭祀の影響が注目されます。大陸で将軍とよばれてもいた開山が、日本に伝来して王の舞となった可能性は十分にかんがえられます。
問題は古代神話の猿田彦です。開山は古代の方相氏の性格を継承していました。王の舞に先行する猿田彦はこの方相氏と関係があるのでしょうか。
古代神話の猿田彦は、a.辻の神、b.巨大な鼻・光りかがやく眼をもった異相の神、c.道案内の神、d.シャーマンによって正体をあきらかにされた神、という四つの性格をもっています。
このうち、dとcは方相氏と一致します。中国の儺祭でも祭祀を主宰してすべての神々をまねくのは巫師です。a、bも多少の条件つきながら方相氏と類似します。方相氏は先導する神ですが、追鬼の役割をもつために結界された地域に悪鬼の侵入をふせぐaの機能もそなえています。また、方相氏の語源については諸説がありますが、方は方角、相は見る、氏は役にたいする敬称とかんがえられます。つまり四方、五方を見る神です。四つ目と二つ目の相違はありますが、≪見る神≫という点で方相氏と猿田彦は本質を一つにしています。
率直にいって、方相氏が猿田彦に影響をあたえたといいきるには、まだ資料不足です。私は朝鮮半島の辻の神のチャンスンなどを仲介者にすれば両者の直接関係を証明することも不可能ではないとおもっていますが、今は両者がきわめてよく似た本質をそなえた神であったとだけいうにとどめておきます。
〈質問〉コノハナサクヤビメの神話は東南アジアを中心に分布する死の起源神話であるバナナ型神話に起源をもつことは、定説になっています。中国南部神話によって、何かあたらしい見解をくわえることができるのでしょうか。
この質問については次回でかんがえます。
今回はこの辺で失礼します。