諏訪春雄通信117


 明けましておめでとうございます。

 新春の賀状ありがとうございました。今年は、私の環境が変わりますので、そのさいにご挨拶することにして、年賀状をいっさいお出ししませんでした。ここで失礼をふかくお詫び申しあげます。

 1月の4日から7日まで、学習院の卒業生鏡味貴美子、藤澤茜の両氏、在日中国人の曽紅、凌雲鳳両氏の計5名で北京をおとずれてきました。主たる目的は、北京社会科学院の少数民族文学研究所の訪問、書物の購入の二つでした。

 凌氏は先行してスケジュールの調整にあたったのち、北京で合流しました。故郷が広東省の広州ですので、SARSの影響を心配しましたが、大きな騒ぎにはなっていなかったようです。

 文学ということばは中国では口承文芸をひろくふくみますので、文学研究所は日本でいう民俗研究所にあたります。午前10時から12時まで、書物の交換にはじまって、各民族の専門家から調査研究の成果をうかがい、そのあと四川料理をご馳走になってお別れしました。その間に聞くことのできた民俗、説話・伝説の類は参考になりました。

 日本の『竹取物語』の原型とおもわれる竹の中から娘が誕生する伝説が長江南部に流布していることなど、興味のある話題がたくさん出ました。

 書物は、例によって、古書、新刊書を大量に購入し、船便で郵送の手続きをとりました。そのなかの一冊、劉芝鳳著
『尋找ゲイ(「羽」の下に「廾」)的后人』は、昨年の夏に調査にゆく予定を立てていながら、SARS騒ぎではたせなかった謎の民族、イ革家についての研究書です。以下はその書物の内容のうち、この民族が保持している射日伝説にかかわる部分を主とした概要です。

 この民族は雲南省から貴州省につらなる雲貴高原の南部に居住していて、1982年の調査で37115人の人口でした。自分たちでは科摩、宝洪(勤労、朴実の古い住民の意味)などと称し、イ革家は漢民族の呼び方です。彼らがどの民族にぞくするかは論議がつづけられてきましたが、まだ決着がついていません。古代の百越にぞくする、苗、?などと同様の稲作民族であることだけは確実です。

 この民族はきわめて興味ぶかい習俗を保持しています。射日神話で有名なゲイ(「羽」の下に「廾」)に関する信仰がつよくみられることです。?は、往古、天に10個の太陽があらわれて人々が苦しんだときに、9個の太陽を射落として天下をすくったという英雄です。

 彼らの家の祭壇には紅白の弓矢がかざられ、男女ともに白い弓で太陽を射る飾りのついた帽子をかぶり、太陽そのものまたは射日の模様のついた衣装を着ます。墓石にも太陽の図がほられ、生産する蝋染にも射日の英雄がそめだされています。

 彼らはゲイ(「羽」の下に「廾」)神話とは別種の射日神話を二種保持しています。一つは、7個の太陽が出て人が苦しんだとき、彼らの先祖の武甲、武乙、武丁の三兄弟が順次に弓矢で射おとそうとして二人の兄は失敗したのに末の武丁が6個の太陽を射おとしたという内容です。残った太陽は山のなかに逃げこみ、鶏によびだされたという後日談もついています。彼ら3兄弟が弓矢をつくりだして狩猟生活をはじめたこと、のちに農耕生活にうつったことなどの伝説も付属しています。

 もう一つは、漢族、苗族をあわせて三族の祖先が競争で太陽にむけて矢を射、勝利を得た彼らの祖先が太陽の帽子を獲得したという話です。

 太陽とはべつに先祖が虎を殺害した神話をもつこと、結婚後も3年から5年、嫁は実家にとどまって実家の労働力になること、夫は嫁を4両あまりの白銀であがなうこと、死体の首を東にむけてほうむること、老人の死者をとむらうとき犬をつないだ綱を死者ににぎらせ、その犬の助けによって死者はあの世で虎を打って祖先の霊になること、死者の子どもたちが棺桶にとりすがて死者の名を三度よんでから棺桶をほうむること、などなど興味ぶかい習俗を数多くつたえている民族です。

 自分の眼でそれらの習俗を確認したら、また新しい発見があったでしょうに、現地へゆけなかったの残念です。

 1月10日(土曜日)午後3時から私の
最終講義がおこなわれ大勢の方が出席してくださいました。そのあとの談話会でも、学長、吉田敦彦、小山弘志、小池正胤、浅野三平、岡雅彦、佐伯孝弘、服部仁、田口章子、寺田瑞木、十川信介など各氏から祝辞をいただき、また大勢の卒業生に逢うことができました。

 私の講義は、最近、とりまく状況がきびしくなった国文学への、私なりの精一杯の応援歌です。その意図が当日の聴講者の皆さんにつたわったかどうか、多少心許なくもありますが、パワーポイントは好評でした。念のためいいますが、他人の助けをかりず、スキャナをつかって、私自身で作成したものです。

 談話会のあと、フォシーズンで卒業生が催してくれた二次会も、気心の知れた人たちですからたのしいものでした。そのあと池袋のカラオケにくりこみました。翌朝、すっかり声が嗄れていました。

 この諏訪春雄通信とアジア文化研究プロジェクトがどうなるのか、よく聞かれます。通信は3月末まで今のままでつづけます。4月以降は私個人のホームページとして継続します。また、アジア文化はすでに終了しましたが、その活動は雑誌の
「GYROS」にうけつぎます。落ち着いたら読者の会のようなものを発足させ、そこで参加者の声をうかがって、誌面に反映させたいとかんがえています。計画が具体化したらお知らせします。

 京都のミネルヴァ書房が企画刊行している「日本評伝選」の一冊として
『鶴屋南北』の執筆依頼をうけました。継続してその文を収載します。


一 南北の出自―歌舞伎と賤民―

 
1 はじめに
 発端は十年以上さかのぼる。一九八九年十一月二十七日、鶴屋南北研究会主催の「南北没後百六十年記念鶴屋南北シンポジウム」が東京都江東区の深川江戸資料館で開催された。
 その席上、講師の一人の作家、故野間宏氏が
南北賤民説をのべられた。公式の場で、南北が賤民の出身であるといいきられたのは、私の知るかぎり野間氏をもって最初とする。その発言の要旨は、東京タイムズ紙の一九八九年十二月十七日号に掲載された。ただ、当日の会の講師の一人であった私は、野間氏の資料の解釈に若干の疑問を感じて、私見をのべたが、私の発言は東京タイムズにはのせられなかった。
 
 野間氏もすでに亡くなられた。南北賤民論をもう一度かんがえなおしてみよう。事は微妙な問題にかかわり、使用することばにも注意をはらう必要があるが、真実の追究のためにご寛容をお願いしたい。

 
2 「勝扇子」事件
 歌舞伎が賤民とふかい関りをもっていいた事実はよく知られている。関りをもっただけにとどまらず、河原者とか河原乞食とかよばれて、歌舞伎関係者自身が賤民視されていた。
 宝永五年(一七〇八)に、京の四条河原の
からくり師小林新介が、歌舞伎芝居と操り芝居の興行権をめぐって関東のえた頭の矢野弾左衛門とあらそい、法廷で勝訴となった事件は、当時の芝居関係者をひどくよろこばせた。二代目の市川団十郎は、この事件の顛末をしるした文章に「勝扇子(かちおうぎ)」と題をつけて秘蔵し、のちにつたえたので、一般に「勝扇子」事件とよばれている。
 
 『未刊随筆百種第二巻』(吉川弘文館)にのせられている「勝扇子」の文については、すでに故盛田嘉徳氏にくわしい考証がある(『中世賤民と雑芸能の研究』雄山閣、一九七四年)。重要な文章であるので、もう一度、私なりの整理をくわえて、この事件の経過を紹介しておく。
 
 宝永五年閏正月、京の四条河原のからくり興行師小林新助は、江戸堺町の浄瑠璃太夫薩摩小源太をはじめ二十二人の人形遣いをひきつれて、房州の正木村で操り芝居を興行し、つづけて館山のさなぐら村へ移動して人形芝居を上演していた。
 その興行中のことであった。関東のえた頭矢野弾左衛門の手代の革買い治兵衛という者が、自分たちに無断で芝居を興行していることに苦情を申し入れてきた。その話し合いがまだ決着しないうちに、小林新介は、つづいておなじ房州の丸之内薄谷村へうつり、三月九日からあたらしく芝居をはじめた。翌十日、安房・上総・下総三国のえた三百人ほどが、革買い治兵衛らの指図で芝居へおしよせ、小屋をつぶしてしまった。
 仕方なく江戸へひきあげた小林新助らは町奉行所へうったえでて、法廷であらそうことになった。
 
 三月二十一日、訴訟人の浄瑠璃太夫薩摩小源太と同頭取の栗島三左衛門らは、月番奉行坪内能登守の調べをうけ、矢野弾左衛門、手代治兵衛、房州えた頭庄兵衛、同善兵衛らと対決した。
 
 はじめ、奉行所は、江戸堺町・木挽町の四座は別として、旅芝居は弾左衛門の支配をうけるという和解案をしめして解決しようとしたが、小林新助が自分から奉行所に出頭して、おおよそつぎのような申し立てをした。

  1. 自分はもともと京でからくりの修行を積んだ者で、御所へも出入りし、歌舞伎や操り人形芝居へも出演しているが、芝居興行については素人であり、江戸へはじめてくだってきて、矢野弾左衛門の支配をうける理由はない。

  2. 役者は旅芝居で稽古を積み、江戸、京、大坂の芝居にも出るのであって、旅芝居と堺町・木挽町の四座を区別することはできない。

  3. 旅芝居が弾左衛門の支配下にあるという証拠をしめしていただきたい。

 これにたいし、弾左衛門は、歌舞伎や操りの芝居がえた頭の支配をうけた例は数多いとして、つぎのような例をあげて、小林新助に反論した。

 江戸の小塚原で、結城武蔵太夫が浄瑠璃芝居を興行したときに、一斗樽に鳥目一貫文、入札百五十枚をよこした。また、千住で和泉太夫の浄瑠璃芝居がおこなわれたときには、酒樽と入場札をくれた。浅草観音境内で、結城孫三郎と虎屋喜元の人形芝居がおこなわれたときにも入場札を百五十枚よこおした。そのときの包紙の表書きには、虎屋喜元・結城孫三郎両人の太夫名と、座元の木曾山金兵衛の名がしるされてあったなどとのべたてた。

 この弾左衛門の主張によって、ここで名前の出た結城武蔵太夫以下の関係者がよばれて証言をもとめられたが、「まったく私は知りません」(和泉太夫)、「もともと私は弾左衛門とは知合いではなく、入場札をわたしたなどということございません」(木曾山金兵衛)などと、ぬらりくらりといいぬける共同戦線を張った。

 また、小林新助は、京都の歴史と地理の案内書『雍州府志』を引用して、歌舞伎は名護屋三左衛門の妻の国がはじめて出雲の神楽のまねをしてはじめ、いま歌舞伎神楽といい、浄瑠璃は、治郎兵衛という者が、はじめて名誉な官職名をもらって河内大目といい、そののち、宮内、左内も名誉な官職名をもらっており、えた支配などということはなんの根拠もないとつよく主張した。

 彼らの主張が、奉行にうけいれられ、ついに弾左衛門側の敗訴となった。芝居打ちこわしの直接責任者として革買い治兵衛、房州えた頭の庄兵衛と善兵衛らは遠島に処せられ、弾左衛門は、京、江戸、大坂の三か所の奉行へ三通の始末書を提出させられた。

 
3 近世の芸能と賤民
 「勝扇子」事件では賤民側は敗訴になったが、えた頭の矢野弾左衛門とその配下の者たちが、歌舞伎や操りなどの芸能者たちを支配してきたと主張したことには、それらなりの根拠があった。

 中世末から近世のはじめにかけて形成された諸芸能は、河原で生まれ、河原でそだてられたものがほとんどであり、その関係者はひろい意味で河原者のなかにふくめてかんがえられていた。したがってその興行に賤民が関与していた例は多いし、賤民の側は、事あるごとに歌舞伎や操りをふくめた芸能の支配権を主張してきた。そして、幕府も、宝永の「勝扇子」事件がおこるまでは、そうした賤民側を支持してきた。

 寛文七年(一六六七)の三月、江戸で金剛太夫の能がもよおされたときに、弾左衛門は、金剛太夫のほうから何の断りもなかったとして、大名や町人が多く見物している舞台へ、配下の者五十人ほどに鑓や長刀などをもたせて乱入した事件があった。このときは、幕府の老中があいだにはいって詫びをしたために、弾左衛門も納得し、鎌倉時代の初めに、源頼朝から弾左衛門家の先祖にたまわったという由緒書を幕府に提出し、芸能者が弾左衛門の支配をうけるようになった歴史を納得させた(「書式留帳」『日本庶民生活史料集成第十四巻』三一書房)。

 また宝永四年(一七〇七)の九月に、弾左衛門が江戸の検校たちと争いをおこし、幕府にうったえでたさいに提出した由緒書には、弾左衛門支配の芸能者として、平家座頭、舞々、四座猿楽、田楽などとならんで「歌舞伎おとり子」がある(「小法師文書」『日本庶民生活史料集成第二十五巻』三一書房)。

 この由緒書と称する文書は、二十八種からときには五十種を超える諸職、道の者(遊女)が弾左衛門の支配下にあることを主張して、幕府や配下の賤民たちに事あるごとにしめしてきた証明書である。源頼朝から先祖がたまわったという言い分には信頼性がないが、当時の賤民支配の実態ないしは賤民側の願望を反映した文書であることは確実である。

 このように、はじめは、賤民の権益をひろくもとめて、封建体制の維持にその力を利用しようとしてきた幕府も、元禄時代をすぎたころから、その力に制限をくわえはじめる。それと呼応して、支配下にあった芸能者や職人たちも、賤民支配を脱しようとする動きをみせる。

 宝永五年の「勝扇子」事件はそのような趨勢のなかでおこった事件であったが、しかし、この事件をきっかけに歌舞伎などの芸能者が一挙に賤民支配を脱することができたのではなく、ながい対立の歴史がそののちもつづいている。

 享保十二年(一七二七)三月、京都、江戸、大坂の三都の芝居の座元が、えたの無銭入場をことわったところから、京のえた頭とのあいだに争いがおこり、結局、三都の座元たちが連名で、三都をはじめ諸国のえた頭に詫びをいれて、いままでどおり、その無銭入場をみとめたという事件がおっこっていた。

 この事件の経過は以下のようであった。
 三都の芝居の座元が申しあわせ、えたの無銭入場をことわったところ、三月十日に京のえた頭下村庄助が手下の者七、八名をつれて、京四条の瀬川菊之丞の芝居へ苦情をいってきた。このときに座元の菊之丞が、「自分たちは商売で興行しているのであるから、今後は無銭では一人も芝居へ入れることはできない」とつよい態度に出た。庄助は、その日はおとなしくかえったが、翌日の十一日に仲間を七十余人つれて、ふたたび瀬川芝居へやってきて、見物を退場させたのち、楽屋から、三味線、鼓、太鼓などの皮製品をもちだし、さらに、櫓にのぼって太鼓をおろし、幕につつんでもちかえった。彼らは、京のほかの芝居でも同様なことをやった。

 こまりはてた京の芝居関係者は、大坂の芝居頭取もくわえて相談した結果、京の町奉行稲田八郎へうったえでた。

 町奉行の取調べにたいし、下村庄助は、自分たちの仲間は、これまで京はいうにおよばず、江戸、大坂、中国、西国にいたるまで、芝居へは無銭ではいってきた。このたび、座元たちが申しあわせ、一人も無銭では入れないというので、太鼓、三味線、鼓などをとりあげた、とこたえた。さらに、三月二十九日に江戸からのぼった弾左衛門の手代とも相談し、源頼朝から名字帯刀をゆるされ、二十八番の諸職や道の者を手下につけられた事情をしるした例の由緒書を奉行に提出した。

 結局、三都の芝居の座元や頭取、惣役者たちが、これまでどおりに無銭入場をみとめる一札を、京、江戸、大坂その他の諸国のえた頭に提出して、この件は落着した。この顛末は矢野弾左衛門のもとへ記録文書としてわたされ、全国のえた頭へ通知されたという(『編年差別史料集成第九巻』三一書房)。

 この文書はそのままにみとめるにはかなりの問題がある。
 瀬川菊之丞が京の座元の地位にあったのは、享保七年の十一月から享保十年の十月までであって、享保十二年には京の芝居には出演していたが、座元の地位にはいなかった。また、享保十二年は未の年であって、この文書がしるしている酉ではない。また、京の町奉行に稲田八郎という名を見出すことはできない。

 このようにみてくると、賤民たちの無銭入場がむずかしくなった時期に、その権益をまもるために偽造された文書という疑いをすてきれない。しかし、たとえ偽造であったとしても、賤民の芝居への無銭入場をみとめるという慣行がなかったら生まれてこない文書であったことは確実である。

 享保十四年(一七二九)の秋に、東海道の三島明神で勧進相撲が興行されたときに、無銭入場しようとしたえたを断ったことから争いとなった事件は、その後長く尾をひくことになった(『編年差別史料集成第九巻』)。その関係文書の一つ、宝暦八年(一七五八)に相撲関係者が江戸町奉行土屋越前守にさしだした書類には、「地方で勧進相撲を興行する際、猿楽や歌舞伎と同様に考えて」賤民が無料入場することは承認できないとのべられている(前掲第九巻)。当時、まだ能や歌舞伎の興行に賤民の無銭入場がおこなわれていたことをかたっている史料である。

 
4 賤民の芸能興行権
 芸能関係者と賤民との関係では、中小芝居の勧進興行などの折に入場料の十分の一を賤民におさめる十分一櫓銭の問題も注意される。

 享保九年(一七二四)の四月十日、京の賤民村の天部・六条・川崎の村の年寄りが、京の町奉行の問い合せにたいして、勧進能、勧進相撲、歌舞伎芝居などの興行で、十分一櫓銭を徴収してきたいわれを説明した文書をさしだしていた(『日本庶民生活史料集成第十四巻』)。

 それによると、京の賀茂の河原、北野その他の神社の境内などで、各種の勧進興行がおこなわれるときには、十分一櫓銭を京の賤民村におさめる慣習のあったことが、つぎのような実例を列挙して説明されていた。

   二条河原の竹田権兵衛一代能 荒神河原の山田清左衛門一代能 北野内野の金剛太夫一代能 二条河原の大薩摩浄瑠璃 宝生九郎勧進能 その他多くの勧進相撲

などである。
 
 このように、賤民が、各種の芸能の勧進興行に入場料の一部を徴収する慣例は京だけにかぎられるものではなかった。具体例をあげる。
 
 寛文八年(一六六六)一月二十日 奈良の北半田川くぼで、新加門太夫の舞芝居が興行されたとき、西之坂、北之坂の両地の賤民で十分一櫓銭を配分していた。
 
 享保三年(一七一八)七月、近江国上甲賀郡森尻村のえたと非人与次郎とのあいだで、十分一櫓銭をめぐって争いがおこり、国元の代官所へ京のえたの例をあげて願い出たところ、諸芝居の十分一櫓銭をえたがうけとるように裁許がおりた。
 
 享保五年(一七二〇)三月八日、大坂で大倉太夫の一代能興行があったとき、摂津国の賤民村の年寄たちはこれまでの慣例にしたがって、毎日十二枚の入場札を要求して、奉行所からみとめられていた。
 延享五年(一七四八)四月、大和国東之坂のえた村の年寄たちは、大鳥居あたりでもよされる芝居、小見世物などについて、慣例どおりに十分一祝いをもらいうけたいと、土地の役人に願い出ていた。
 
 寛政十年(一七九八)九月、江戸の乞胸頭(きつむねがしら)仁太夫は、浅草寺境内で仁太夫の支配をうけずに商売していた、綾取、猿若、江戸万歳、辻放下、からくり、浄瑠璃、説経、講釈、物読み、物まね狂言などについて、浅草寺代官と寺社奉行にうったえ出て、内済にもちこんでいた。
 慶応三年(一八六七)二月の日付をもつ三重県地方の賤民たちにつたわる「河原細工由緒書」によると、賤民は、相撲、芝居その他見物の群集する場所での運上金をうけとることができた。
 
 以上の例からあきらかなように賤民たちは、各種の興行物の入場料の一部をうけとる権利をもっていたが、それだけにとどまらず、興行そのものを主催することもめずらしくなかった。
 
 寛文元年(一六六一)三月十八日、弘前藩では、弘前の乞食頭長助にたいし、同藩内の賤民を支配する証明として、羽織と帯刀を許可し、軽業、狂言芝居、小見世物などの興行権をみとめていた。
 元禄六年(一六九三)一月二十七日、奈良北山のハンセン病者は、大破した十八戸を修復するため、東大寺勧進の芝居狂言尽しの興行権利者になることをみとめられていた。
 元禄八年(一六九五)三月、鳥取藩の米子の賤民鉢屋が鳥取での操り興行を願い出、前年の倉吉の鉢屋の興行の前例にしたがって、三十日間の興行をゆるされていた。つづけて鳥取藩では、同年の八月にも、松崎の鉢屋が、十七日間の歌舞伎興行を願い出て許可されていた。
 
 寛政十一年(一七九九)二月、江戸の乞胸頭の仁太夫は、幕府からの問い合せにたいし、乞胸の由緒、非人頭車善七との関係などをのべた書面を提出していた。そのなかで、各地の寺社境内などで、芝居やいろいろの見世物などを興行していたが、しだいに「同様のもの」つまり興行権をもつ連中がふえてきたので、世話役にまわったのだとのべていた。この仁太夫の申し立ては、かなりの信憑性をもっているとかんがえることができる。
 
 以上の諸例は、『編年差別史料集成』におさめられた史料により、寛政十年の江戸の乞胸仁太夫の事件は、『きゝのまにまに』(『未刊随筆百種』)にもとづいている。

 今年もこの通信をよろしくお願いします。

 今回はこの辺で失礼します。 


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