諏訪春雄通信119
この通信は海外の方々にも読まれているようです。時々その反響があります。先日、ほかの用件でメールをくれた台湾の大葉大学につとめている小俣喜久雄君がつぎのようなことを用件の最後に頼んできました。彼はやむをえない事情で、私の最終講義に出席できませんでした。
「国文学あるいは歌舞伎、浄瑠璃、能狂言、あるいはアジア圏の芸能などの研究の意義を『通信』上で教示賜われませんでしょうか。外国における日本語教育が主体の学科では、日本以上に文学・文化研究が何のためにあるのか定義づける必要があるかと思いますが……」
私が最終講義「細部に神宿り給ふ」でのべたことの要点はつぎのようにまとめることができます。
多神教が生みだす文化と一神経が生み出す文化は本質を異にする。多神教文化は人と自然の調和を大切にし、一神教文化は人と自然を峻別しようとする。アジアの文化は基本的に多神教文化であり、ヨーロッパの近現代文化は一神教文化である。
日本の古典芸能である歌舞伎、浄瑠璃、能・狂言など、近世以前の古典文学を支配する精神は多神教的であり、明治以降の近現代文学を支配する精神は一神教的である。
日本の古典文芸にみられる、短文の集成、話題が頻繁と変わる、全体の整合性よりも部分を重視する、人と神・自然・動物が交流する、などの特色は多神教の根底にあるアニミズムやシャーマニズムで説明できる。
他方、日本の近現代文学にみられる全体の整除、個我や独創の尊重、人間中心、自他の峻別などの特色は一神教で説明がつく。
多様な神々を拝んでまわる多神教は視点移動の文化となり、隔絶した神の眼を人間が代行して世界を見る一神教は視点固定の文化となる。
古典文芸は一回的であり、only oneであり、する、見る、読む、語る、話すなどの行為をともなってその本質は芸能である。
黙読する、見るという行為によって繰り返し享受される近現代文芸は、number one であり、本質は文学である。
〈細部に宿り給ふ神〉をもとめる国文学(古典)にたいし、国文学(近現代)は グローバル化のなかの日本人のあり方をもとめる。
日本人を説明するのに国籍論や人種論はすでに無効となり、日本人とは「日本語を話し日本文化を形成した人々」である。
以上のような論旨の展開を、私は東アジア規模の視野で、浮世絵などの視点移動と遠近法などの助けを借りながら説明しました。そして、とくに私が強調したことは、多神教文化と一神教文化を明治以降の日本人はたくみに調和させてきたという事実でした。それは、21世紀以降の人類の生き方の貴重なモデルになるということでした。
じつは時間の関係で省略しましたが、私は、主語が明確でなく、自他の区別があいまいで、掛詞や縁語表現を大切にする日本語の特色にも言及したかったのです。ヨーロッパの言語にくらべて論理的明晰さを欠くと批判されることの多いこの日本語こそ、じつは、神と人、他と自が自在に交流する多神教的思考法の特色をもっともよくあらわしているというのが私の考えです(この考えはすでに平成9年(1997)に刊行した『江戸文学の方法』勉誠出版社、のなかの「江戸文学とはなにか」にくわしくのべてあります)。それは論理伝達というヨーロッパ言語とは異なる状況表現という日本語の特色なのです。
最近、きわめて興味ぶかい文章を読みました。モントリオール大学東アジア研究所日本語科科長金谷武洋氏の「神のことばとなった英語」(『本』講談社、2004年2月)です。私の考えと符節をあわせたようにかさなっています。要点を紹介します。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という川端康成の『雪国』冒頭の文をサイデンステッカーは「The train came out of the long tunnel into the snow country.」と訳した。この二つの文は同じことをいっていない。
川端の文を読んで我々の頭に浮かぶ情景は何だろう。作者が汽車に乗っていることは明らかだろう。そして読者もまた、その作者の行動を同じ眼の高さで追体験する。今、列車はトンネルの暗闇の中を走っており、私はその車内に坐っている。やがて、窓の外が明るくなる。やっと長いトンネルを抜けるのだ。おや、山のこちら側は真っ白の銀世界だ。という風に、時間の推移とともに場面が刻々変化していく。
これに対して英訳の方はどうだろう。(中略)明らかに話者の視点は汽車の外にある。(中略)原文と訳文のイメージが著しく違うのは、何よりも視点が違うからだ。原作では汽車の中にあった視点が、英訳では汽車の外、それも上方へと移動している。
さらに金谷説の要点を私(諏訪)が要約します。
金谷氏はこの視点の違いを「話者の視点」と「神の視点」とよびます。『雪国』の原文には主語がなく、そのままでは英訳できないので単語「the train」を主語にした。そのため、日本語は、時間の推移をふくんだ「コト」(出来事)を表しているに、英語では汽車という「モノ」をわざわざもってきて、それのトンネルからの出現という表現にすりかえた、といいます。
こあたりの説明を、私の説明法と比較してみましょう。
金谷説 話者の低い視点でコトを表現 神の高い視点でモノを表現
諏訪説 人の移動視点で状況表現 神の代行としての固定視点で論理表現
どちらがより適切かは皆さんの判断にゆだねますが、私は視点の高低よりも、移動か固定かが大切とかんがえます。そのような私の考えは絵画の遠近法表現の有無からみちびき出されました。
私の考えは『日本人と遠近法』(ちくま新書、1998年)でくわしくのべました。そしてその違いを多神教と一神教に由来するものとかんがえましたが、金谷さんはそこまでは言及していません。
代って、金谷説の特色は、古英語が本来は日本語とおなじように主語をもたず、話者の視点をもっていたが、1066年の「ノルマンの征服」以降、3世紀にわたってフランスの支配をうけ、英語がフランス語によって「虐め抜か」れ、現代英語にむかって変化したと説いている、言語学者の視点にあります。
「英語話者の視点が今や地上を離れて上空高く舞い上がり、不動の神の視点」もつようになったのはそのためであり、英語の基本構文はSVOとなって、日本語なら「好きだよ/愛しているよ」で十分なところを「I love you」と全要素をいわないと文になれない、不自由なものになったと金谷氏はいいます。
私は、最終講義で、明治以降、日本人はヨーロッパの近代文化の影響をうけて西欧化の道をたどったが、しかし、伝統文化と新しい文明をたくみに調和させて完全に西欧化してしまうことはなかったことを、日本人の誇りとして強調しました。そのような私の主張が、金谷氏の日本語論によって裏づけられました。
先週の金曜日、23日、午後から勉誠出版をおとずれ、「GYROS」担当の若手社員3名に池嶋社長をまじえて、編集の細部の打ち合わせをしてきました。そのあと、この人たちと痛飲、カラオケにくりこんで、家にかえったのは土曜日の午前2時でした。さすがに二日酔いで、咽はガラガラ、約束のテニスにも出られず、午前中は寝ていました。
担当の方々が、この雑誌の刊行にむけて火の玉のように燃えあがっていることを知り、じつに頼もしく感じました。お互いに「志」を生かす絶好の場を得た思いです。
現時点で、創刊号の特集「一神教の功罪」の執筆者がつぎのように決定しました。
T
自然と生きる(談話) 作家 立松和平
多文化の共生(談話) 政策研究大学院大学教授 青木保
U
原理主義とは何か 国際交流基金企画部企画課長 小川 正
新保守主義を支えるもの 京都女子大学教授 柴山哲也
現代イスラムの潮流 静岡県立大学国際関係学部助教授 宮田 律
イスラム教とは何か 桜美林大学教授 中村慶治郎
21世紀へのカトリックの挑戦 オリエンス宗教研究所所長 M・マタタ
V
一神教の功と罪 学習院大学教授 吉田敦彦
一神教の終末観 宮城学院女子大学名誉教授 山形孝夫
W
日本人と宗教 國學院大学教授 井上順孝
日本人と仏教 曹洞宗教化研修所所長 中野東禅
日本人と神道 京都造形芸術大学教授 鎌田東二
日本人とキリスト教 日本聖書学校教授 郷 義弘
21世紀へはばたく神道 京都大学教授 薗田 稔
女性と宗教 広島大学大学院文学研究科教授 岡野治子
X
多神教と日本文化 学習院大学教授 諏訪春雄
多くはアジア文化研究プロジェクトで関係のあった方々です。あのプロジェクトが人間関係の宝庫そのものであったことをつくづく感じます。この顔触れにさらにえりすぐりの豪華執筆陣による連載が数本くわわり、内容はいっそう充実したものとなります。出来上がりに期待してください。
『鶴屋南北』は休載させていただき、今回はこの辺で失礼します。