諏訪春雄通信120
長年つかいつづけたパソコンがこわれました。ウイルスではなく、金属疲労による不調です。ビッグカメラにもちこんで、初期化してもらいましたが、それでもなおらず、結局、あたらしく買いかえました。この通信は新機種でお送りしています。
その間、パソコンについて随分勉強しました。これまで、すべて娘たちにまかせて、自分で手をくださなかった付けをしたたかにはらわせられました。二人の娘や婿たちがアメリカに去って、やむなく、この一大事に自分で立ち向かうよりほかなくなりました。寒風吹きすさぶ荒野に一人立つ悲壮な思いでした。学習院の救援組織をはじめ、各メーカーのサポートセンターに電話をかけまくって教えをうけました。
しかし、結局は業者に出張してもらって、通常の機能を回復することができました。その間、ちょうど一週間、パソコンの知識は幼稚園児から小学1年程度には向上しました。
この通信をやむなく休載してみて、固定した愛読者のおられることがよくわかりました。責任感をもってお送りしなくてはと痛感しました。
「GYROS」の編集は3号まですすんでいます。各号は談話取材と原稿執筆の依頼の二種の組み合わせからなっています。談話取材は、原則として、その号の特集テーマにふさわしい広い視野の持ち主に基礎的、包括的な話をしていただき、原稿執筆は高度な専門知識をお持ちの方々に研究の最先端の成果をできるだけわかりやすく書いていただきます。総論と各論ということになりますが、レベルは各出版社の「新書」の読者層かそれよりも低い、高校上級から大学一年程度を考えています。
談話取材は編集部や担当者が手ぶらでうかがうのではなく、あらかじめ、私のほうで五つの質問を用意し、それにしたがってお話いただき、担当者が録音からおこして文章化します。執筆は断られることがありますが、特集の談話取材はまだ断られたことはありません。こちらのほうが、負担がすくないからでしょう。今後は談話取材を徐々にふやしてゆく必要があります。
三号分の談話取材はすでに幾人かおわっています。私のほうで用意した質問はつぎのようなものです。
一神教の功罪
立松和平氏
先生のこれまでの著作、発言などをとおして、「自然と生きる」あるいは「自然に生きる」という態度を大切にしているように思われます。先生にとっての「自然」のもつ意味についてお話ください。
ホームページの「和平発言」の中の「世界の多様性を認めよう」でイラク戦争について発言しておられます。先生はイラク戦争をどのようにお考えでしょうか。
イラク戦争をはじめとする最近の世界紛争には、イスラム教、キリスト教などの一神教がふかく関与しています。一神教についての先生のご意見をお聞かせください。
先生の最近の著作には、釈迦、道元、空海、法隆寺、永平寺など仏教にかかわるものが多いようです。仏教についてお話ください。
やはり「和平発言」のなかで、この国の未来について、先生は「少々不安」とおっしゃっておられます。この国の未来はどうなるのでしょうか。
青木保氏
先生の原体験というべきタイの僧院での修行で先生が得られたものを、わかりやすくお話ください。
先生の学問には幾つかのキーワードがあります。その重要なものの一つが「逆光」です。「逆光」とは西欧の眼でアジアを見るのでなく、アジアの眼でアジアやヨーロッパを見るということでよろしいのでしょうか。これもわかりやすくご説明ください。
もう一つの先生の学問のキーワードが「境界」です。境界と逆光の関係をご説明ください。
先生は「ホテル」がお好きのようです。ホテルから日本を見ると何が見えるのでしょうか。
先生の異文化共存という視点から一神教の功と罪を分析してください。
子どもの反乱
芹沢俊介氏
先生は子どもについて活発に発言しておられます。現代日本社会に子どもの問題がもつ意味についてお話ください。
子どもが切れるといいます。その現象についてのお考えをお聞かせください。
家族、ことに母と父の役割については。
先生のご専門の宮沢賢治を「子ども」という観点で読み解いてください。
学校教育のあり方についてお話ください。
山崎哲氏
旧聞に属しますが、新潟県柏崎市で少女の監禁事件がありました。先生はこの問題について発言しておられますが、この事件を「子ども」という視点で分析するとどうなりますでしょうか。
芹沢俊介先生と共著で『子どもの犯罪と死』という著者を刊行しておられます。最近の子どもにかかわる犯罪の特色はどのようなところにあるのでしょうか。
先生が舞台化しておられる「東海道四谷怪談」や「女殺油地獄」を大人になりきれない子どもの物語として読むとどうなりましょうか。
先生には岸田国士賞をとられた「漂流家族」という名作があります。この国の家族はどこへ漂流してゆくのでしょうか。
〈あるべき子ども像〉についての先生のお考えは。
国文学の再生
有馬朗人氏
先生は文部大臣の時代に行政改革の一環として国立大学の法人化を推進されましたが、そのねらいは。
それと連動して文学部国文学科が多くの大学で学科としては姿を消すことになりましたが、これについてはどのようにお考えでしょうか。
実学尊重の世の趨勢のなかで、人文科学、ことに国文学という学問の存在の意味はどこにあるのでしょうか。
国文学という学問は現状のままでよいのでしょうか。
先生は『天為』の主宰者で俳人としても著名です。理系の先生にとって俳句はどのような意味をもっているのでしょうか。
橋本治氏
桃尻、窯変、双調などの方法による古典の現代語訳で先生のねらうものは何でしょうか。
先生ご自身で「日本語の反逆者」(『橋本治 大辞林を使う』)といっておられます。先生の「言葉」がへんなわけを教えてください。
かつて日本の学問の中心を占めていた国文学が今はかぎりなくマイナーな学問になりさがっています。先生ご自身もそこの出身者である国文学の現状を先生はどうお考えでしょうか。
先生は宗教や思想、経済などについても活発に発言しておられます。国文学の母胎であった国学は、対象を文学にかぎらず、これらをひろくあつかっていました。国学を先生はどのようにおかんがえでしょうか。
国文学に未来はあるのでしょうか。
この「GYROS」の編集にたずさわるようになって、購読している『朝日』『読売』二紙を毎日丹念に読み、切り抜きをつくります。今回、切り抜きながらつい涙をおさえられなかった一文を紹介しましょう。2004年2月6日(金曜)の『読売』朝刊「気流」掲載のヘルパー野島きよ子さんの投書「子供を心配する老母の心が哀れ」です。
私は痴ほう症の方々に対応するグループホームの介護者として働いています。ホームに入所しているある高齢の女性は毎日、ふらつく足元で子供さんを探しあるいています。
「子供が心配だ。こんなところで遊んでいられない。すぐ帰らねば」と言っています。その方の子供はすでに五十歳を過ぎていますが、頭の中では、十歳のようです。夜中に「布団を架けてやらねば」と起きてきます。
そして、あちこちに探し回りながら、「子供がいない」と言って泣きます。「家で寝ているから大丈夫よ」と伝えると、「ああ、そうか」と言って納得するのですが、一、二分すると、「子供はどうしているかな」と言ってまた泣きます。
子を思う母親の気持ちが痛いほど伝わってきて、私も胸がいっぱいになります。どうしてこのような病気があるのでしょう。つらい戦争もくぐり、長生きしてこられたのに。
以上です。以前に、すでに意識のなくなった瀕死の老母が、脇に添い寝していた息子のほうに手を伸ばしてしきりに掛け布団をひきあげようとしていた、という一文を読んだことがあります。
他方、同日の朝のテレビのワイドショウは、パチンコに夢中になって歩けない痴呆の老母を外に放置して凍死させた息子のことを報じていました。「子どもの反乱」の特集でもかなりな濃い密度で、親子、家庭の問題をとりあげましたが、これからもくりかえし多様な視点でかんがえなければならない永遠のテーマです。
「鶴屋南北」を掲載します。
鶴屋南北は賎民出身か
上方と同様に、江戸においても、弾左衛門支配下の賎民たちは、処刑場や牢獄の雑務にあたっていた。正徳五年(一七一五)十月に弾左衛門の跡継ぎの件で提出した書面のなかで、賎民がつとめた業務を列挙して、「さらし者、はりつけ、大罪、首さらし、のこぎり引き、刺青、鼻そぎ、キリシタン拷問」とかぞえあげ、おなじ文句は、享保十年(一七二五)九月に幕府に提出した書類のなかにもくりかえされている。
このほかに、享保九年(一七二四)一月八日に、武蔵国の横見郡の賎民部落の和名村に幕府から命じられた役務についての命令書がのこされており(『編年差別史料集成』)、それによると、寺社、目付、勘定、盗賊改め、欠付け改めなどの役所の「囚人預かり」「江戸中無宿者見回り」「江戸中火事場見回り」などの仕事も、賎民の役割であったことがわかる。
これらの業務に江戸の紺屋がどの程度まで関与していたかを、上方のように具体的にしめす資料はいまのところみつかっていない。推定される可能性としては、
一 上方と同様に、はじめに人夫を出してこれらの役にあたり、のちに分担金に代えた。
二 分担金は出したが、人夫を提供したことはなかった。
三 分担金も人夫は出したことはなく賎民とは無関係であった。
の三つのばあいがかんがえられる。そのいずれであるかを決定するには、慎重な検討を必要とするが、いま、はっきりいえることは、上方の例と各種の弾左衛門由緒書から判断して、弾左衛門の側からの紺屋を支配下におこうとする働きかけはつづいていたということである。
先にも引用した正徳五年(一七一五)十月の浅草弾左衛門の後継問題について、弾左衛門が提出した文書には、弾左衛門の賎民支配の実態について、自分のほうから記述した興味ある内容がみられる。
私の支配は以前と変わってだんだんと減少して参りました。中ごろまでは、猿引き・ささら・非人・乞食・河原芝居・傾城屋などを支配しておりましたが、傾城屋も、庄司甚内に忠節の功があって竈を立てることをご許可になられ、私の支配下をはなれました。堺町の芝居は、大坂より天満八太夫がくだってきて堺町で芝居興行をおこなった節、土地のえた頭日暮長兵衛が天満八太夫と支配のことで争いをおこし、私方へも断りなしに八太夫芝居を中止させ、そのうえ渡辺大隈守様のご意向がとどかず、長兵衛はそのために牢屋入りとなりました。それ以降、堺町は私の支配をはなれました。
しかし、寺社地芝居で太鼓櫓をあげ日数をかぎった芝居は、支配はいたしませんが、見物は自由にできました。日数をかぎらず、太鼓櫓もあげない芝居は、私が支配していました。しかし、宝永五年、芝居の者が見物させまいとしたため、房州の長吏、それまでどおりに抗議しましたが、慣習であって書類などもないため、支配をみとめられず、支配はしだいに減少いたしました。
右のように、先祖からの支配もだんだんと減ってきました。お仕置き者の役、ご牢番のお役、そのほか小頭役の六十五人でつとめております。関八州のお役も右の者どもをつかわし、さらにご公儀様のお役がくわわり、だいぶの勤めとなっています。
支配下の諸職や道の者がしだいに減っていくことを歎いている異色の文である。まず、傾城屋がぬけ、つぎに堺町芝居がぬけ、中小芝居のうち、太鼓櫓をあげ日数限定の芝居は見物だけができ、太鼓櫓をあげず日数限定しない芝居は思いどおりに支配してきたが、宝永五年の「勝扇子」事件以降はそれもままならなくなってきたという内容である。
幕府への嘆願書であるために、過度に窮状をうったえているさまはうかがえるが、芝居関係者をはじめとするそれぞれが、機会をみつけては賎民支配を脱しようとしていたことは事実であろう。そして弾左衛門のほうでは、もちろん、その動きを喰いとめようとした。
南北が狂言作者を志し、家業をすてて芝居の世界にはいったのは、安永五年(一七七六)、二十二歳のころと推定されている。それから、享和三年(一八〇三)、四十九歳のときに立(たて)作者となるまで、じつに二十七年にもわたる長い下積み生活をおくっていた。これは、たとえば、初代桜田治助の十一年、南北と同時代の木村園夫(えんぷ)の十四年などに比較しても、二倍を超える長さである。南北の伝記における最大の謎といっていいが、南北が歌舞伎関係者がひとしくそこからの脱却を願っていた賎民と関りをもつ身分の出であったとすると、容易に説明のつくことである。
もうすこし南北の経歴をこまかに検討してみる。
当時の狂言作者の階級はつぎのようになっていた。つぎの四階級で作者部屋を構成していた。位の高い順にしるす。
立作者 一座に一人いる劇作者の主任。太夫元や座頭役者と相談して、つぎの芝居の時代背景となる世界を決定し、狂言の大筋をさだめて、自身はもとより、補助作者の二枚目、三枚目にもそれぞれの持場の下書きをつくらせた。できあがった下書きにさらに手をくわえて最終の決定稿を作成した。脚本がしあがったのちは、稽古の内読み、本読みにたちあい、舞台装置の図をかき、絵看板や番付の制作にもあたった。
二枚目・三枚目 立作者の相談役として、脚本の分担個所を執筆し、配役がきまると役者に知らせた。三枚目も同様に脚本の分担個所を執筆し、幕があいてからは劇場に日勤して、狂言方のしごとを監督した。
狂言方 脚本が決定するとその清書をし、各役者の分担するせりふの抜書きもつくった。稽古にたちあい、初日があくとせいふをつけるプロンプターの役もつとめた。舞台進行の析(き)を打つのも狂言方の役目であった。
見習 先輩作者の私用から作者部屋の雑用をつとめた。稽古中は狂言方をたすけ、初日があくと衣装方や小道具方の仕事もつとめた。
南北が三枚目作者になったのが寛政三年(一七九一)、二枚目作者になったのが寛政十年(一七九八)ごろであった。つまり、寛政にはいってようやく芽が出はじめたといえるのである。この事実と関係があるとみられるのが、寛政の改革で、紺屋職が完全に弾左衛門支配を脱したのではないかとかんがえられることである。
紺屋職が寛政の改革で弾左衛門支配をぬけだしたということは、高柳金芳氏がその著書の『江戸時代部落民の生活』のなかでくりかえしのべている。
南北が、作品中に多くの賎民を登場させ、生き生きと活躍させていることは、彼の注目される特色の一つであり、さらに好んで処刑や葬式の場面をしくみ、「棺を用いたる狂言を見れば作者は南北也」(『伝奇作書』)とまでいわれたことも有名である。こうした彼の特色のある作風も、じつは、彼じしんが賎民と関りをもち、賎民の人々に愛憎こもごもの特別な感情を終生いだきつづけたとかんがえると納得がいくのである。
今回はこの辺で失礼します。