諏訪春雄通信121
吉川弘文館編集第一部長の早川邦武氏からおもしろい手紙をもらいました。私が同社から1998年に刊行した『日本の祭りと芸能』に海賊版が出たというのです。私の著書をそのままとりこんで第一部とし、そのあとに別の神話の文章を第二部としてくわえて、書名は『日本の祭りと芸能』とした書物が、名古屋市の新東海通信社という発行所から平成12年に刊行されていたということでした。
この書物は訪問販売されているらしく、販売員の来訪をうけた方からの匿名の手紙によってこの事実を知った吉川弘文館が、まず私に問い合わせてきたものです。私もこの種の書物の存在をまったく知らず、その旨をこたえましたら、吉川弘文館は著作権および出版権の明確な違反として法的措置をとるということでした。
その海賊版のコピーを見ましたが、新東海通信社の住所も明記されています。インターネットで検索すると、古本の売買も手広くおこなっています。吉川弘文館の激怒も当然ですが、私としては奇妙な感覚をあじわいました。海賊版が出るということは、私の著書が商品価値をもっていること、一流の著者であることの証明です。怒りの一方で不思議な満足感がないわけではありません。こんなことをいったら早川さんから大目玉をくらいそうですが。
学習院での最後の卒論、修論の面接が終わりました。卒論18本、修論8本を読みました。学生にとってはもちろん、教師にとっても大変な季節ですが、しかし、おたがいによい勉強になることも事実です。ことに、ほかの先生が指導された学生の論文を読むことが、私にとって新鮮な刺激になります。
おもしろいと思った論文を紹介しましょう。完成した論文ということではなく、知的刺激をあたえられた論文という意味です。
「源氏物語の描く音楽」
音楽の場面がのちの物語の展開に果たす役割を分析した論文です。物語において音楽が特別な意味をもっていることは、物語つまり語りが、〈はなし〉にたいして、本来、音楽性とむすびついた言語行為だからです。音楽は神の出現のさいに、神そのもの、あるいは神の依代としての役割をはたします。音楽として、あるいは音楽に乗って神は出現し、神が出現することによって状況は一変します。このような音楽の役割は、芸能、能や歌舞伎、文楽における音楽の役割をかんがえれば明瞭です。そして、本来音楽性をともなう語り物においても、音楽はそのような役割を果たすはずです。
この論文は語りという意識の希薄な点が不満ですが、物語の本質にかかわる重要なテーマととりくんでいることはたしかです。
「地蔵信仰の研究」
サブタイトルは「人々が晨朝に期待したもの」です。十世紀以降、地獄思想がふかまるなかで地蔵信仰がつよまり、〈朝〉とか〈暁〉とかというイメージで表現されてきたことを多くの例をあげて証明した研究です。地蔵は釈迦入滅後の末法の世に救済仏である弥勒菩薩が出現するまでの時間にあらわれて衆生をみちびくといわれている菩薩です。弥勒をクローザーとすれば、地蔵はセットアッパーです。日本では平安末期の末法思想の流行とともに信仰がふかまり、中世になって救済仏の役割を弥勒信仰と交代して、地獄や道祖神の信仰と習合していった仏です。おなじ晨朝でも弥勒が出現するまでの黎明をみちびく仏ですので、弥勒とは時間差があります。おなじように〈暁〉とむすびついて表現された弥勒との関係に焦点をあてて、中世期における日本人の信仰が地蔵から弥勒へ交代した現象がきちんと分析されていたら、すばらしい論文になったであろうと、惜しまれます。
「江戸後期読本と挿画」
滝沢馬琴の読本『椿説弓張月』の葛飾北斎の挿絵と、おなじ場面に取材した歌川国芳の物語絵を主として比較した論文です。画題の沙魚に考察の中心がおかれて、肝心の挿絵の特色と物語絵の特色の比較が手薄だったのが残念です。北斎は一時期馬琴の家に寄宿していたほどの仲でしたが、個性のつよい二人でしたので、のちに喧嘩別れしています。そうした個性派同士の対立と拮抗の結果として制作された挿絵の特色を、自由に物語の解釈ができた国芳の作品との比較のなかで解明して欲しかったというのが感想です。そちらの方向に研究の重点がむかっていたら、近世の浮世絵の生まれてくる重要な論理があきらかになったはずです。
ここまでが4年生の卒業論文です。私が指導したのは、「江戸後期読本と挿画」だけです。つぎにとりあげるのは修士論文です。これも私が指導した論文ではなく、今回、はじめて読んだものです。
「本居宣長における『歌学び』の構造」
じつに奇怪な論文です。これだけの筆力と構成力をそなえた大作の論文にはそうめったにはお目にかかれませんが、しかし、またこれだけの思い込みの空理空論を展開した論文もめずらしいといえます。鎖国によって閉じられた空間に生きた近世人は、役割分担という虚構の空間を生きるよりほかなかった。宣長の「物のあはれ」論は、そうした虚構の空間を生きる人たちにあたえられたユートピアであり、そのユートピアは恋の歌の贈答によって、幻想として形成された。煎じ詰めれば以上のようになる理論が、宣長を中心とした国学者とそののちの国学研究者の言説の豊富な引用と分析をとおして、圧倒的な力感をもった文章力で展開されます。
しかし、すべてはでたらめな前提と推理のうえにくみたてられています。近世人は閉じられた空間を生き、役割分担という虚構空間を生きるよりほかなかったという前提が、そもそもまちがっています。たしかに鎖国政策によって海外との人的交流には限界がありましたが、情報は長崎を通じてかなり自由にはいってきたのであり、国内の人の移動も活発でした。ことに宣長の生きた十八世紀の半ば以降は、あきらかに、近代化の準備を日本全体として進めていたのであって、閉じられた空間で役割分担を強いられたなどという見方が成立するはずはありません。最近流行の〈パックス・トクガワーナ=徳川時代の平和〉ということばをこの論文の著者は知らないようです。
宣長の「もののあはれ」論を考察するのに、物語論を排して歌論だけをとりあげ、「もののあはれ」を恋心に限定し、近世にはすたった和歌の贈答を重視し、戯作の意図的な方法論で認識論としての虚構をかんがえ、思想家が侃々諤々の論を展開してきた義理を無視し、儒学のなかで近世を支配した朱子学についてまったく考慮していないなど、あげればきりがないほどの欠陥だらけの論文です。
しかし、研究者として資質の重要なものを豊かなにそなえた学生であることは確実であり、今後、学問のイロハをきちんと身につければ、将来まちがいなく大成する素材と思われます。
大学の定年をむかえる淋しさの一つは、以上のような、それぞれに欠陥をかかえながら、それぞれに豊かな可能性をもった学生たちの論や説に出あえなくなることです。
鶴屋南北の文を載せます。私はこれまで、いろいろな機会で鶴屋南北について書いてきましたが、その多くは、南北の劇作法について考察した構造的把握でした。いま執筆しつつある『鶴屋南北』は「評伝」ですので、歴史的考察をおおはばにとりこまなければなりません。
いま、この通信でお送りしている鶴屋南北論は、その歴史的視点で考察した文です。
二 修行時代
1 立作者になるまで
安永六年(一七七七)十一月、当時二十三歳の南北は、桜田兵蔵の名で、はじめて江戸の中村座の番付に名がのった。立作者は初代桜田治助、狂言は『将門冠初雪』。治助の下に六人の作者がいて、狂言部屋を構成していたが、兵蔵は見習として、実際に脚本の執筆にかかわることはなかったとおもわれる。
以下、番付を主要な資料として彼のそののちの動静を追ってみる。
安永六年十一月から安永八年一月まで
桜田兵蔵の名で師の桜田治助とともに中村座
安永八年(一七七九)五月 二十六歳 沢兵蔵の名で桜田治助とともに市村座
安永九年(一七八〇)七月から天明元年(一七八一)七月まで沢兵蔵の名で桜田治助とともに市村座
天明二年(一七八二)四月 二十八歳 から天明四年(一七八四)十一月 三十歳 まで勝俵蔵の名で森田座 以後文化八年(一八一一)に鶴屋南北と改名するまでこの名がつづく
天明六年(一七八六)四月 三十二歳 森田座
天明六年(一七八六)十一月から天明七年八月まで中村座
天明七年(一七八七)十一月 三十三歳 から天明八年三月まで森田座
天明八年(一七八八)十一月 三十四歳 から寛政二年(一七九〇)八月 三十六歳 まで市村座
寛政二年十一月から寛政三年(一七九一)二月 三十七歳 まで河原崎座
寛政三年五月から九月まで中村座
寛政三年十一月から寛政五年(一七九三)七月 三十九歳 まで市村座
寛政五年十一月から寛政九年(一七九七)九月 四十三歳 まで都座
寛政九年十一月から寛政十年(一七九八)九月 四十四歳 まで中村座
寛政十年十一月から寛政十一年(一七九九)九月 四十五歳 まで森田座
寛政十一年十一月から寛政十二年(一八〇〇)九月 四十六歳 まで市村座
寛政十二年十一月から享和元年(一八〇一)九月 四十七歳 まで河原崎座
享和元年十一月から享和二年(一八〇二)九月 四十八歳 まで中村座
享和二年十一月から文化二年(一八〇五)六月 五十一歳 まで河原崎座
享和三年(一八〇三)閏一月、四十九歳のときにはじめて立作者となり、『世響音羽桜(よにひびけさくら)』を執筆した。この脚本は現存していないが、「清玄桜姫」、「阿古屋景清」の二つの世界をあわせた作品であった。このときの河原崎座の看板役者は三代坂東彦三郎で、清水清玄、畠山重忠、正直正作、白拍子桜木、平景清の五役を演じていた。外題の『音羽』は彦三郎の屋号音羽屋をきかせていて彼を売り物にした芝居であった。南北はこの彦三郎の引き立てで立作者になったといわれている。
しかし、南北が作者として腕をふるったのはこの一作で、つぎの河原崎座の演目『姫小松子の日遊』と『伊勢音頭恋寝剣』の二作は先行作のくりかえしで、座付き作者の活躍する余地はなかった。このときの河原崎座は地味な彦三郎の一枚看板で役者がそろっていなかった。しかも、彦三郎は、芝居の興行中に女形の中村大吉とともに上方へのぼってしまい、後ろ盾をうしなった南北はもとの二枚目に降格された。
享和三年十一月から文化元年(一八〇四)五月 五十歳まで河原崎座で立作者奈川七五三助(しめすけ)の下で別格の立場にいた。南北が名実ともに立作者としてその奇才を発揮するようになったのは、文化元年の夏芝居からであった。
2 修業時代の南北
修行時代の南北についてはいくつかのエピソードがつたえられている。わかりやすく現代文になおして紹介する。
南北は文字の知識がとぼしかった。俵蔵のむかしから、「その旗渡せ」というせりふを書くのに、「その畑渡せ」と書いた。旗と畑は文字がちがう。また芝居の打ち出しに、「待づ今日は是ぎり」と書いた。これも「まず」と書くことを「待づ」と書くのも不思議である。このことをだれも指摘しなかったものだから大人になってもこんなふうに覚えていたのであろう。(『作者店おろし』)
生まれつき滑稽なことが好きで、人を笑わすことを本務としていた。ついに歌舞伎の作者になって、その時代に名をあらわした。安永四年に堺町へ出勤した。歌舞伎作者のなかでも抜群の才能があって、さまざまな変化のある芝居をつくって見物をよろこばすことを心がけていた。しかし、書物を読むことが嫌いで、みずから文盲であるといって、学問の自慢をすることはなかった。(『戯作者小伝』)
両方とも南北について語るときによく引用される文である。南北が文字についての知識がとぼしく、本人もそれを自覚していたという内容である。同時代人の指摘であって、おそらくあたっているのであろう。
作者部屋の構成についてはすでに説明した。立作者以下の五役のうち、見習をのぞく四役はそれぞれの分担箇所を執筆した。当時の芝居関係者ならば、どの場面をだれが執筆したかはあきらかだったはずである。たとえば、その年の終わりに上演されて、翌年一年間の一座の役者の顔ぶれの宣伝にもなった顔見世狂言の作者の役割分担はつぎのようにきまっていた。
一番目(時代物)
序開き(本筋とは無関係な一幕の祝言劇。下級役者が出演し、動植物の精霊が主人公となるような奇抜、滑稽な筋を演じる。最後は座の繁栄をことほいで終わる) 狂言方のうち、滑稽な趣向が得意な者が担当する。
二立(建)目(ふたつめ)(やはり下級役者が出演。動きはなやかで、謀反人の見顕しなどがしくまれた) 狂言方のなかで先輩作者が担当する。
三立(建)目(みたてめ)(その日の本狂言の序幕にあたる。かならず「暫」や「だんまり」の場面がある) 「暫」の前までは狂言方のうち三枚目から落ちた人が担当し、「だんまり」は三枚目、長い「だんまり」は立作者が担当した。
四立(建)目(浄瑠璃をつかった舞踊劇) 立作者、二枚目、客座(すけ)などが担当した。
五立(建)目(せりふ劇) 二枚目、客座などが担当。
六立(建)目(せりふ劇) 二枚目が担当。
大詰(結末の幕) 立作者の担当。始まりの場面だけは二枚目、三枚目に書かせることがあった。
二番目(数幕の世話物) 南北が立作者のばあいは自分で担当した。
大切(一番目、二番目全体の結末) 立作者が担当した。
このように狂言作者の担当は慣例によってきまっていて、それぞれの格にしたがって趣向を工夫して脚本を執筆した。立作者は、通常は芝居の粗筋をかんがえ、具体的な脚本化はそれぞれにまかせていた。しかし、南北は、立作者となってからは、狂言の筋はもちろん、せりふまでこまかに書いてわたしたので、部下の作者たちはすぐに脚本にすることができたという。逆に、部下の作者たちが、あれこれと工夫をくわえて、南北の指示にしたがわないと、南北はそのあと、その作者に粗筋その他をわたさなかったという(『作者年中行事』)。
南北がその作者部屋にはいって立作者としてつかえた当時の作者は、つぎのような人たちであった。
桜田治助 中村重助 容楊黛 津打英子 瀬川如皐 増山金八 笠縫専助 並木五瓶 近松門喬
当時の一流の作者たちであり、個性派ぞろいであった。南北はそこで作者道のいろはをまなびながら、才能の発揮する機会の到来をまちつづけていた。
南北が三代鶴屋南北の娘お吉と結婚したのは、安永九年(一七八〇)、二十六歳のころであった。翌年には、のちに二代勝俵蔵を名のることになる長男が誕生していた。わずかな給料で妻子をやしなうことになった南北の生活は楽ではなかったが、生来の飄逸な性格でのりきっていたらしい。つぎのようなエピソードがつたえられている。
俵蔵のむかし、高砂町に住んでいたころの話である。机にむかって書き物をしていた南北に、釜の下をたきつけていた女房が「もし、湯がわきましたが、米はどうなさいますか」と声をかけた。気づかずに書き物をつづけていると、「米はどうします」とまた女房。「今すこし待て」と南北がいう。「薪がむだになります」と女房が催促したので南北はむっとして、「いまいましいやつ。どれとってこよう」と筆をおいた。銭はなし、秋の末のころなので戸棚をあけて蚊帳をひきだし、そのままかかえて下駄をはき、かけだして、横町の大黒屋へむかった。
四つ角で知った人から、「俵さん、どこへゆきなさる」と声をかけられた。その人が俵蔵の顔をみると、顔色がかわって癇癪をおこしている様子なので、不審におもって、「どこへゆきなさる」とたずねると、「はい、殺しにゆきます」という。知人はいっそうびっくりして、「まあ、待ちなさい。ころしにゆくとはどういうわけで」、俵蔵は「いやさ、今、蚊帳を殺しにゆきます」といった。
質入れすることを「殺す」といった当時の隠語にかけた笑い話であるが、二枚目以下の狂言作者のまずしい生活ぶりをもあらわしている。南北のころの狂言作者の給料がいくらくらいであったか、まったく資料がないわけでもない。
原武太夫が宝暦十三年(一七六三)にあらわした随筆『北里戯場隣の疝気』には、
役者も以前は、団十郎、幸四郎、平九郎などでも五百両が最高であったのに、今は七百両、八百両、千両をこえるものさえいる。作者も、津打治兵衛は古今に稀なものであったが、百両が最高であったのに、今は三百両、四百両の高い給金をとり、格別のことのようであるが、役者の給金が高くなったのに自然とならったことである。
とのべている。十八世紀のはじめごろに作者の給金は年額百両であったが、半世紀ほどすぎた十八世紀の半ばには三倍から四倍にあがったという。これを証明するように、十九世紀のはじめに書かれた『戯財録(けざいろく)』という随筆には、上方の狂言作者初代並木五瓶が年額三百両で江戸へまねかれたとしるされている。
文政十一年(一八二八)十一月、江戸三座の座元たちがとりきめた役者や作者の給料の額の記録がのこされている。
中村座 南北百七十五両 田嶋此助六十両 瀬川如皐四十五両 駒賞助二十五両
などとある。これらをもとに計算すると、二枚目は立作者の三分の一程度、以下、三枚目、狂言方と、当然ながら給料が格段にさがっていた。
この年、おなじ立作者でも南北は別格の高級で、市村座の松島てうふは百二十五両、河原崎座の三升屋二三治は八十五両であった。南北の年給百七十五両は、このときの中村座の看板役者五代目松本幸四郎の給料七百両の四分の一、現在の金額になおすと二千三百万円ほどになって悪い給料ではないが、末端の作者になると、一、二百万にすぎない。
今回はこの辺で失礼します。