諏訪春雄通信122


 今年の1月10日(土曜日)、私の最終講義のあと、軽い飲み物と食物を出した談話会が大勢の方々にご出席いただいて開催されました。その席での来賓のご挨拶はそれぞれに心にしみるありがたいものでした。なかでも、清泉女子大学佐伯孝弘さんのことばは、私の今後の研究目標をいいあててくださいました。

 佐伯さんは、私に、
柳田民俗学をのり超えるあたらしい学問体系をつくるようにのぞまれました。ずうっと私がかんがえていたことを指摘されたのです。

 1994年に刊行した
『講談社現代新書 折口信夫を読み直す』で、折口の学問と比較して、柳田の学問をつぎのようにまとめました。

「資料に執着してその収集と整理につとめた柳田の学問は、複数の小さな学説を形成したが、全体を総合するような大きな体系をつくることはなかった。それだけに、個々の学説にたいしてこれまでに内外の批判をうけることが多かったが、弟子たちによってすこしずつほころびをつくろわれながら、その学説のほとんどが、今日まで生きつづけることができた。打たれづよい体質といえる」

 また同書でつぎのようにもいいました。

「柳田の学問は、常民の信仰と生活の総合的な把握をめざしたにもかかわらず、結果としてかれがのこした業績は、信仰史、風俗史、国語史、口承文芸史、思想史、建築史、家族制度史などの個々の分野にわけられて、信仰史がやや頭をだす程度で、それぞれがほぼ平等にその価値を主張して、そのあいだに統一的な秩序はつくられていない」

 〈まれびと〉の論を根底にすえて壮大な体系をつくりあげた折口信夫の学問と比較したときに、柳田の学問が以上のような特色をもっていることは事実です。しかし、そののち、私は柳田の学問についての検討をつづけ、今は多少違った考えをもつようになりました。

 柳田の学問は日本人の行動と観念のすべてにわたっていますが、その根底には
信仰史があります。私の著書で「やや頭をだす程度」といいましたが、今は、信仰史とは祖霊の問題であったとかんがえています。そして、祖霊観を中心にすえると、一見ばらばらな柳田の学問がにわかにつながりをもってくるようにおもわれます。日本人は先祖の霊をどのように把握し、どのように対してきたのか、その解明が柳田の学問の根本にあったのではないか。多岐にわたる彼の学問を祖霊というキーワードで整理すると、その体系が見えてきます。

 柳田が、常民という概念を設定し、一国民俗学を主張し、稲作文化を重視し、篭りと共食の祭り観にこだわり、折口のまれびと論を終生みとめず、幽霊と妖怪を区別したのも、祖霊観を根底にすえるとすべてがつながってきます。

 もう一つ、柳田の学問をつらぬいているテーマは
経世です。実学志向といってもよいとおもいます。学問が学問として自立するのではなく、世のため人のためになるものという信念です。

 
経世と祖霊を核にすえたあたらしい柳田論をかきあげてみたいとかんがえています。そのときに私が柳田をのりこえることができると信じている視点が、多神信仰と一神信仰の関わりです。柳田にはまったくなかった考えです。

 そうした構想の一端を私は
国文学をテーマに展開したのが、私の最終講義でした。

 じつは、今回、創刊準備をすすめている
「GYROS」私なりの学問の体系化の構想のなかにくみこまれるものです。柳田の実学志向をこれによってのりこえられるのではないかとかんがえています。

 編集方針がまだ確定しているわけではありませんので、試行錯誤の繰り返しという面がのこっています。以下は、連載と特集の問題をめぐる編集の基本方針について、10名以上の連載依頼を主張する編集部のO君からの質問に私がこたえたものです。


 メール拝受しました。ご意向よくわかりましたのでご説明します。

質問
 1 特集中心
 2 連載を3本以上5本以内の範囲で掲載する
 3 特集と連載との割合は、テーマ数(執筆人数)からみて、8対2くらいまでの中にとどめる

 1につきましては、当初のお話通り、互いに完全な了解があり、外部から説明を求められたとしても、この点についてはコンセプトを明確に説明することができます。
 2、3につきましては、先生のご意向は、具体的な数字まで明快に提示していただいているのですが、これから書店、執筆者などの外部に対して論理的な説明をしていくために、例えば連載が5本、8:2である理由についてのご説明を賜れれば幸甚です。

回答
 連載は一度決定すれば、一定期間、著者に執筆内容をまかせて、編集部が関与しにくい分野です。そのために、悪くいえば、編集部が手抜きできる箇所です。この印象をきらい、毎号真剣に編集に努力していることを読者に示すために、雑誌編集で、一人の著者による連載の本数を多くすることを避ける傾向があることは、ご存知だとおもいます。連載が5本以内、8対2である理由は、池袋の大型書店3店を回って、雑誌15種(そののちさらに15種をくわえ全部で30種となりました)の連載の統計をとった結果です。

質問
 特集と連載の分量比は4:1。
 200ページの読み応えのある特集記事に、50ページ程度の肩の凝らないエッセイ部分というのは、雑誌内のバランスとしては妥当かと思われる。仮に連載が半分になると、連載全体が本当にオマケのような、場違いなものになってしまうので、好ましくないのではないか。

回答
 この感想に根拠があるのでしょうか。連載のない雑誌は多くあります。繰り返しになりますが、ページではなく、目次上で、全体の執筆人数の4割以上を連載で占めている雑誌があったら、その雑誌名をご教示ください。

質問
 印刷効率(費用対効果)の面からは256頁が好ましい。また営業(書店)的にもその程度の束が好ましい。この頁数を前提とすると、特集190頁前後に、連載を50頁程追加することが適切ではないか。

回答
 雑誌のページというものは、原価計算ができて決定するものです。原価計算なしに256ページが好ましく、連載50ページを適切とする理由はどこにあるのですか。

質問
 同じく営業(書店)より、一般読者を対象に販売展開を考えている以上、一般読者に対して比較的高い知名度を持つ連載陣は、10名くらい必要なのではないかという意見が強い。

回答
 知名度が高い執筆人をそろえることは必要です。しかし、そのことは連載でなくとも可能です。連載の数を10名とする理由にはなりません。しかも、今回の11名の人選がすべて特集執筆者よりも知名の高い方々にたいしてなされたとは、私には思えません。

質問
 また、これらの考えを先生にお伝えした時に先生がご提示になった問題点、
1.目次に名前を並べた時に、特集15名に対し、連載10名という人数が多く見えてしまう。
2.多く連載執筆者が1年間もの連載に耐えないのではないか。
3.1年間、同じ顔ぶれが続いてしまう。
につきまして、1は目次の文字サイズ&レイアウトで見栄えを調整できる。

回答
 レーアウトの問題ではありません。実質、編集部が毎号内容の充実に真剣にとりくんでいるか、どうかの問題です。

質問
 2、3については、先生のご判断で打ち切り、再契約が行える。また、一般誌においては、むしろ1〜2年前後の連載を経て単行本化するというケースが多い。単行本 刊行は社全体の利益につながる。

回答
 貴方たちは、現在、すでに連載を頼んだ方々へ断りにくいはずです。一旦、連載を開始したあとでは、事情は同じか、原稿の受け取りの間に情が通じてもっと断りにくくなります。しかも読者のまえに、打ち切りという不体裁をさらしてしまいます。それが数本つづいたときの読者がうけとる印象について真剣におかんがえください。

 単行本については、一回5枚、読みきりという連載条件では、随筆風の短編の集合という形にしかなりません。しかも、300枚以上そろえるには、すくなくとも、60回以上の連載が必要です。本誌の連載をそのままに本にするよりも、連載著者との有効な人間関係の構築が大切とかんがえています。



 この私の方針についてO君はよく納得してくれました。こうした真剣なやりとりをくりかえしながら編集業務がつづけられています。私にとってもよい勉強になります。


 鶴屋南北の文を掲載します。 

 三 才能開花
  
1 出世作『天竺徳兵衛韓噺』
 文化元年(一八〇四)の河原崎座。この年の河原崎座は三月から五月までの興行をなんとかつづけてきたが、客の入りは悪く、つぎの興行の企画が立たなかった。役者のなかには見限って途中で退座するものが多かった。座元が休演を覚悟したときに、男気を出して救済にのりだしたのが、一座の実悪役者初代尾上松助であった。彼は前年の享和三年の顔見世から河原崎座にくわわり、顔見世にはじまった三つの狂言に出演していたが、大きな当たりはなかった。

 無人の夏芝居をのりきるために、出演料は後払いとして、彼の一門を中心に、立作者の奈川七五三助を排除し、客座の南北当時の勝俵蔵に新作の執筆を依頼した。その期待にこたえて、南北が全知全能をかたむけて書きおろした作品が『天竺徳兵衛韓(いこく)噺(ばなし)』五幕であった。この狂言は古今の大当たりとなって、七月九日に初日をあけ、九月十三日まで三か月の連続興行になった。
 この作品は初演の脚本が、現存していないが、昭和初期まではのこっていたらしく、その梗概が旧版『日本文学大辞典』(新潮社)、「系統別戯曲解題」(『芸能』十八巻四号、芸能学会)などに掲載されている。天竺徳兵衛は近世はじめ、寛永年代に長崎から出船し、インドまで漂流したのちに、三年目に帰国した実在の船頭であった。その数奇な運命が日本人の想像力を刺激して、天下をねらう謀反人で妖術使いといった奇怪な相貌をそなえて歌舞伎や人形芝居に登場してくるようになった。
 
 南北の作品は、それ以前の天竺徳兵衛物をうけて筋を構成している。朝鮮国の臣木曾官は祖国に攻めいった真柴久吉に恨みを報じるため、日本に潜入して吉岡宗観と名のって、機会をねらっていたが、失敗した。彼は、天竺から帰国した船頭徳兵衛じつは一子大日丸に、蝦蟇の妖術をさずけ、後事を託して自害した。のち、徳兵衛は蝦蟇の妖術を駆使して、久吉の命をねらいつづけたが、失敗して姿を消す。
 
 南北と松助との関係は文化元年の河原崎座が最初ではない。二十年ほどさかのぼる天明六年(一七八六)の十一月、中村座の顔見世で同座したのがはじまりで、そののちもたびたび江戸の各芝居で同座する機会をもっていた。すでに、二枚目、スケなどの地位にあった南北は松助のために出演の場面を執筆して、その得意芸や芸の質を熟知することになった。
 
 『天竺徳兵衛韓噺』の成功の最大の原因は、松助の芸を熟知した南北が、徹底して松助を表に立てて、なりふりかまわずに彼を売りこむ狂言をつくったことである。自分を立作者にとりたてて脚本の執筆をまかせてくれた恩義もある。しかし、南北と松助にとって幸いであったことは、このとき河原崎座が無人芝居で、ほかにスターがいなかったことである。だれに遠慮することなく松助一人の芝居をつくることができた。
 
 松助は、月若乳人(めのと)五百機(いほはた)、座頭徳市、天竺徳兵衛実は大日丸の主役三役を一人で兼ね、しかも役の交代を早替わりでみせた。役者評判記『役者正札附』(文化二年正月刊)はつぎのように評判していた。

 七月で替わった『天竺徳兵衛韓噺』は、退座する役者が多く、一人踏みとどまって興行したのは立派でした。乳母五百機、座頭徳市、天竺徳兵衛を早替わりで演じ、見物一同肝をつぶしました(中略)はじめ、水門から大きな蝦蟇になって出、花道で、引き抜くと、中から徳兵衛になって出ました。ここで脇差について思案する様子がおもしろいことでした。つぎに女形五百機になって切り殺され、船から半身出して早替わり。これは人形をつかって首を出し、船のなかへ体がはいると徳兵衛が船頭姿で出、その後ろから五百機の幽霊が出る。これも人形であって、後ろ向きでせりあがると、徳兵衛の後ろ髪を引く。これも早替わりのからくりで、見物の目をおどろかしました。 

 後の幕で、幽霊となって笹薮から出るところがものすごかった。門口へかかったとおもうと、からくりで、すぐに内へあらわれ、消えうせるのは、壁を布にしているのでしょうか。ふわりと消えて幕。大評判でした。

 大切には越後座頭で、越後ぶしで、木琴をうち、前の池へとびこむと、水がふきあがり、向こうから長上下で上使となって出られるところは、奇々妙々の早替わりで、七月から九月中旬までの大入り、大当たりは、まったく松助一人の大手柄、近年めずらしいことでした。

 この評判記の記載からのちの南北の劇作の特色の重要なものが、すでに、事実上の初作であるこの作品にあらわれていることがわかる。

  1. 徹底したスターシステムを採用していること。

  2. 早替わり、からくり、作り物などのスペクタクル性の多用。

  3. 幽霊、蝦蟇などの他界・異界の存在の登用。

 この興行は、関根只誠『戯場年表』によると、町奉行所までまきこんだ市中の騒動になっていた。

 狂言作者鶴屋南北と相談・工夫のうえでこの狂言を出したところ、近来まれな大当たり、四立目からは客止めになって市中の評判は高まった。ことに、水中の早替わりには見物は驚嘆し、魔法をつかった、キリシタンの法をまなんだ、長崎に入港したオランダ人から伝授された秘法であるなどという噂が高まって、町奉行の隠密廻りから報告をうけた奉行所が調査にはいるという事態になった。

 御殿の場面から水中の早替わりの幕を、役人が案内させて調べると、舞台下、水船、抜け穴、噴水の仕掛けなどいずれも、問題はなく、むしろ、すぐれた工夫にたいして役人から賞賛され、とくに松緑(松助ののちの名)へは特別の挨拶があった。座元へはこれまでどおりに興行して問題なしと申し渡しがあって、役人はひきとった。この評判で人気はいっそう高まった。

 このような事件そのものが南北と松緑のしかけた宣伝であった可能性がたかい。とすると、ここにものちにつながる南北の手法をみることができる。つまり、四つめの特色として、

 4.したたかな宣伝戦略。

をあげることができる。

 今回はこの辺で失礼します。


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