諏訪春雄通信123


 網野善彦さんが2月27日に76歳でお亡くなりになりました。「GYROS」の4号の特集「天皇制への視点」で、「日本の王権」というテーマについて、談話取材をお願いしていた方でしたので驚きました。

 網野さんとの関係は
アジア文化でもありました。はじめ網野さんは私たちのプロジェクトに協力者(メンバーといっていました)として参加され、会報などにも執筆しておられましたが、間もなく申し出て退会されました。理由は、おそらく、稲作文化を中心の課題にとりあげて、日本との関係の追及に主力をシフトしはじめた会の方針に違和感をもたれたからだったでしょう。

 私は個人としても網野さんの著書の愛読者でした。
『無縁・公界・楽』『日本中世の非農業民』『日本中世史』などの主要な著作はほとんど購入して、目をとおしています。とくに、網野さんの評価を高めた『無縁・公界・楽』は、大きな刺激をうけた書物でした。私が近世のアジールについてかんがえるようになったのは(「近世文学とアジール」『近世の文学と信仰』毎日新聞社、1981年、ほか)、網野さんの影響でした。

 網野さんの業績は、すでにいわれているように、
日本文化の多様性の掘り起こしということにつきると思います。稲作文化や天皇中心の史観にたいして、稲作以外の文化、海・山・放浪などのさまざまな人たちが作り出した文化に照明をあてたとろころに、その功績があったといえるでしょう。

 日本文化論における網野さんの功績は不滅ですが、しかし、網野さんが解明された問題は、
周辺文化ということであって、中心の文化でなかったことも否定できない事実です。網野さんを乗り越えることができるとすれば、中心と周辺の絶え間のない交流のダイナミズムの把握でしょう。それは、前回の通信で私がのべた柳田民俗学を乗り越える学問体系の構築にもつながる道です。柳田こそが、日本の文化の中心部分の研究にその生涯の学問の目的をすえた学者だったからです。

 
鶴見太郎著『民俗学の熱き日々』(中公新書)という興味深い本を読みました。帯にはつぎのように本書のキャッチコピーがしるされています。

 柳田国男は、没後四〇年を過ぎても、いまだに日本の学問・思想界に絶大な影響力を保っている。しかし、彼が独力で開拓したと言っても過言ではない民俗学は、その後、独創的な継承者を得られず、彼一代の学問として燦然と輝いているのである。本書は、民俗学の黎明期にあった柳田の詩的な精神が、民俗学者ではなく、むしろ異分野の研究者、思想家、作家などに受け継がれていった経過を、丹念に追跡する試みである。

 簡単に要約すれば、柳田にはすぐれた弟子がおらず、むしろ、民俗学以外の各分野に、彼の影響をうけて創造的な仕事をする人々があらわれたという論旨です。そのような視点から、鶴見氏があげた異分野で影響をうけた学者や思想家は、つぎのような人たちでした。

石田英一郎  今西錦司  貝塚茂樹  梅棹忠夫  桑原武夫  中野重治  花田清輝 

などなどです。みごとな近現代の思想家・学者群像です。これ以外にもいるでしょう。柳田の学問をおそらく打倒すべき仮想的とした網野善彦さんもまた、おなじ意味で柳田の影響をうけた一人でした。 

 「GYROS」は6号までの人選と執筆依頼を終わりました。すべての号に私じしんもテーマにしたがって30枚の文を書きます。さらに、今企画している7号の特集テーマは
「ゲノム革命」です。

 物資の深部にはいりこんだ人類は
に到達し、生命の深部に潜入した人類は遺伝子、その配列または入れ物ともいうべきゲノムにたどりつきました。

 まちがいなく20世紀までの核に代わって、
21世紀の人類の生き残りをかけた大きな問題として登場してくるテーマがゲノムです。ゲノム革命と名づける理由です。問題は、この重大な課題のもつ意味をわかりやすく説いてくれる20名近い執筆者の人選とテーマの設定です。私にとっては、すべてが未知の分野の勉強です。


 執筆中の『ミネルヴァ日本評伝選 鶴屋南北』の編集担当者堀川健太郎さんが、わざわざ京都からたずねてきてくれました。全社をあげてこの企画の貫徹にとりくんでいる熱意を話しておられました。そのせいもあって、学術性の濃い比較的地味な刊行物であるにもかかわらず、かなりに好調な売れ行きをみせているということでした。日本の活字出版にもまだまだ期待がもてるのではないかと、大いに意をつよくしました。

2 南北基礎を固めるー『四天王楓江戸粧』―

 『天竺徳兵衛韓噺』で南北は才能を開花させることができた。この狂言では、南北はきわめてめぐまれた条件のなかで執筆した。まず、大立者とよべる役者が、尾上松助一人で、彼は南北の支持者であった。南北は、複数の役者の配役、持ち場に気をつかうことなく、松助一人の出演場を書き込めばよかった。

 松助は、怪談狂言を得意とし、早替わりやからくりなどの演技にすぐれていた。南北の作者としての資質に合致した役者であった。さらに、狂言を執筆した時期が、夏芝居で、むずかしい約束にしばられることなく、作者が比較的自由に腕をふるえばよかった。不入りつづきの河原崎座は、彼と松助のコンビに一座の運命を託して、すべてをまかせた。

 
時と所と人の三つの条件がそろっていたところで、彼の才能を発揮すればよかった。『天竺徳兵衛韓噺』の成功はそのようにして実現した。
 このような条件が失われたところでも、南北は自分の才能を発揮できるのか。そのような試練の場に南北はすぐに立つことになった。南北の真の実力が問われる機会がきたのであった。
 
 おなじ文化元年の十一月、南北は翌二年の河原崎座の顔見世狂言
『四天王楓江戸粧(してんのうもみじのえどぐま)の立作者をつとめた。この興行では、前作執筆時にそろっていた三つの好条件はすべてうしなわれていた。
 
 
まず人からみてゆく。松助はそのまま河原崎座にのこった。しかし、座頭として立役市川男女蔵(おめぞう)があらたにくわわり、さらに、女形として小佐川常世がくわわった。この二人は、松助に匹敵する実力者である。一人だけ配慮すればよかった南北は、三人のむずかしい配役に気をくばる必要が生まれた。しかも厄介のことはこれだけにとどまらなかった。新たにくわわった二人がそれぞれに提携する作者をつれてきたのである。
 
 この年の河原崎座の顔見世は、立作者の南北のほかに、烏亭焉馬
(うてい・えんば)、木村園夫(えんぷ)という、二人の大物がスケの位置にすわっている。焉馬は男女蔵が、園夫は常世が依頼した助人であった。松助と南北の堅いきずなはすでによく知られていた。そこへのりこんでゆく覚悟をかためたときに、二人がもちだした条件が、それぞれが二人の持ち場を執筆してくれる作者を帯同することであった。
 
 市川男女蔵は二代市川門之助の子で、五代市川団十郎の弟子であった。焉馬はその師の団十郎とふかい繋がりがあり、みずからも団州楼と号したほどの市川一門びいきであった。五代団十郎の弟子であった男女蔵の父門之助とも親交があった。もう一人の園夫はこれまで常世と関係がつよく、彼の出演座で作者をつとめてきた。
 このような複雑な人間関係のなかで南北は脚本を書かねばならなかった。
 
 
つぎに時を検討してみる。
 江戸時代の芝居の年中行事のなかで、もっとも重要な興行が顔見世であった。がんじがらめの慣習にしばりつけられていた。
 江戸時代の芝居の興行は原則として、十一月から翌年の十月までの一年単位でおこなわれた。これは、芝居興行の根底にある、稲作の祭祀の周期を反映したものである。十一月に新しい座組みがきめられ、その顔ぶれで翌年一年の芝居が興行された。

 江戸の例でみよう。三座の役者の割り振りは、座元や金主の立会いのもとで、話し合い、ときにはくじ引きできめられた。座組みがきまると、十月中旬、最初の集会である〈寄り初めの式〉が芝居の楽屋の三階または芝居茶屋の二階でひらかれた。それより先、顔見世で上演される狂言のための〈世界定め〉がやはり芝居の楽屋で関係者をあつめておこなわれ、そこで立作者は〈世界〉の原案を出して一同の承認を得なければならなかった。世界は、狂言の背景をなす時代と物語、登場人物で、これも慣習としてきめられてあった。

 世界が決定すると、作者は狂言の執筆にかかったが、顔見世狂言の構成にはきびしい規定があって、「2 修行時代の南北」で説明したように、作者の自由裁量の余地はすくなかった。顔見世興行は十一月一日初日で、三日間は〈翁渡し〉という特殊な儀式が演じられた。顔見世は芝居関係者にとっては正月にあたり、こまかな慣習による儀礼がまつわりついていた。顔見世興行をのりきらなければ、一人前の立作者とはみとめられなかったといってよい。
このようなむずかしい芝居を南北は執筆しなければならなかった。

 
最後に所についてみる。
 すでにみたように、南北と松助のコンビは前作の夏狂言『天竺徳兵衛韓噺』で大当りをとっていた。その成功の余韻のなかでの顔見世狂言であった。座元も金主も一度味わった夢をもう一度再現したいとねがっている。成功して当り前、成功しなければ批判をうけなければならない。そんな条件のなで、南北は立作者として、狂言作りの指揮をとり、そして成功した。

 『四天王楓江戸粧』は
四天王の世界に取材した作品である。前太平記の世界ともいい、平安時代の源頼光とその部下の四天王、渡辺綱・坂田金(公)時・碓氷貞光・卜部季武(うらべ・すえたけ)らが、京都の治安をおびやかす謀反人を向こうにまわして活躍する物語である。謀反人平将門の子どもたち、相馬太郎良門(よしかど)と滝夜叉(たきやしゃ)の二人が父の遺志をついで、天下の騒乱をたくらむという大筋に、足柄山の山姥、盗賊袴垂(はかまだれ)の保輔(やすすけ)、歌人和泉式部、土蜘蛛などの人物や妖怪がからんでくる。(この項つづく)

 今回はこの辺で失礼します。


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