諏訪春雄通信125
3月9日(火曜日)夜、台湾から帰国した小俣喜久雄君と久しぶりに痛飲しました。海外の大学で日本文化を教えるむずかしさが話題になりました。パワーポイント、ビデオなどをつかって歌舞伎について講義しても、学生がそれほど興味をしめさないというのです。
発表手段も大切ですが、結局は内容の問題になるのでしょう。歌舞伎を観たこともないし、関心もない学生たちに興味をもたせるためにはそれなりの工夫が必要なようです。
台湾には哥子戯とよばれる伝統演劇が保存されています。大陸の福建省あたりからつたえられて、大陸ではおとろえましたが、台湾ではさかんに演じられている歌舞劇です。この演劇なら台湾の学生も名前くらいは知っているはずです。観たことのある学生もいるかも知れません。この演劇との比較をおこないながら、歌舞伎を説明したら学生は興味をしめしてくれるのではないか、というのが私のアドバイスでした。
また、台湾には、布袋戯とよばれる指人形をはじめ、影絵人形、からくり人形など、各種の人形劇が盛り場で演じられています。この種の人形劇と日本の文楽をはじめとする人形劇の比較も興味ぶかい講義テーマです。
おなじ大学で講義している葉漢鰲君の日中年中行事の比較が、いつも超満員の学生をあつめている人気科目だということからも、自国の文化と関連のうすい他国の文化には、学生はあまりつよい関心をしめさないのではないかと思われます。日本の大学の文学部におけるドイツ文学科の最近の凋落傾向などもおなじ現象といえます。
11日(木曜日)、12日(金曜日)の両日、諏訪ゼミのお別れ旅行で、日光・鬼怒川へいってきました。初日は日光東照宮、二日目は日光江戸村を見学し、泊まりは鬼怒川温泉でした。参加者は17名。よく歩き、よく見、よく話し、よく飲み、よく食べ(食前、食後に芋を食べるなど、ほとんど人類とは思えない院生らの食欲に驚嘆させられました)、たのしい旅行でした。
東照宮への入り口に神橋という、祭りのさいに神が渡る橋があります。なんの予備知識なしにこの旅行に参加した私は、この発音が「しんきょう」と音読みされることに、違和感をもちました。東照宮は神社です。神社なら、「かみはし」と訓読みされるはずです。
しかし、境内にはいってこの疑問はすぐに解消されました。神社であるにもかかわらず、祭られる神は東照大権現という仏教系の名称をもっています。この名称は、
家康をまつるさいに、大明神という神道系の名称を主張する金地院崇伝らと大権現を主張する南光坊天海らとの大論争のあげく、天海側の勝利となって採用されたものでした。
このときから、東照宮は薬師如来仏と東照大権現を併祀する神仏習合の神社となりました。明治の神仏分離令発布のさいにも、住民のはげしい反対と後水尾天皇、後光明天皇ら歴代の天皇がふかく関与した神社であったことのために、廃仏棄釈の難をまぬがれました。明治以前の神仏習合のめずらしい習俗を保存した、ほとんど日本で唯一の神社として今日につたえられた文化施設です。日本人の融通無碍な多神教信仰の実例であり、そうした観点で見るとじつに興味深い神社でした。
日光江戸村には今回はじめておとずれました。京都太秦の映画村、伊賀上野の忍者屋敷、ディズニーランドなどの「いいとこどり」をした施設です。時代考証、地名考証などについて、うるさいことをいわなければ大人も十分にたのしめる場所でした。
私も、吉原の花魁の対面の式で強制的に?舞台にあげられてお大尽の役を演じさせられ(ちなみに相手の太夫の名は京都の名妓で吉原には実在したことのない吉野太夫でした)、寺子屋の授業で「案ずるよりは産むがやすし」のことわざについて原義をのべて師匠からお叱りをうけるなど、得がたい体験をしました。
帰りの車中ではゼミ生たちと日光道中(地酒)を飲みつづけ、完全にできあがったころに東武浅草駅に無事ついていました。幹事をはじめ、参加してくれた諸君にお礼をいいます。
「GYROS」の7号に予定している「ゲノム革命」の編集趣意をつぎにかかげます。
20世紀は自然科学の世紀であり、核の時代でした。物質の深部に入りこんだ人類の探索は最深部の核に到達しました。しかし、核の認識は人類に幸福をもたらすよりも、原爆、水爆などの発明となって、人類はその恐怖におびやかされつづけました。
21世紀は生命科学の世紀であり、遺伝子の時代に突入しました。生物体の細部に入りこんだ人類の探索は生命の最深部の遺伝子に到達しました。遺伝子は全生物の細胞の核に存在し、そこにはすべての生命情報がつめこまれています。人体の設計図であるこの遺伝情報全体をヒトゲノムといいます。
物質の核の発見が人類に核戦争の恐怖をもたらしたように、ゲノムの解読も、その用途をあやまると、人類に幸福よりも不幸をよびよせる悪魔の設計図となりかねません。
2003年4月、先進各国ですすめられてきていたヒトゲノム計画は、塩基配列の解読終了宣言を出しました。各国は、ゲノム革命の時代に突入し、きそってより詳細な遺伝子情報の意味・機能の読解につとめるとともに、その利用にのりだしました。
ゲノムの利用価値は無限です。個人差を考慮した医療、老化・肥満・ガンなどの予防を通して人類の寿命さえ延ばすことが可能になります。個人の識別はより容易になり、わずかな唾液からその人物の顔を再現することさえできるようになります。
他方で、ゲノムによる差別が、就職、結婚、保険契約などですでにおこっています。ヒトクローンも現実の問題として浮上してきます。生命科学の時代をむかえて、その社会的対応が深刻に要求されるにもかかわらず、アメリカやイギリスなどの先進国に比べて、日本は10年遅れているといわれています。
ゲノム革命の時代をむかえて、ゲノムを悪魔の設計図にしないために、今こそ人類の叡智の結集が切実にもとめられています。
鶴屋南北の文をつづけます。
2 怪談狂言の完成
『彩入御伽草』でも南北と初代尾上松助のコンビが作品の成功をみちびいている。初代松助は文化六年(一八〇九)には改名して初代尾上松緑(しょうろく)を名のり、文化十二年(一八一五)に七十二歳で亡くなっている。すでにみたように、南北との連携は享和三年(一八〇三)の『天竺徳兵衛韓噺』ではじまり、松助が世を去るまでつづいた。これまでに検討してきた二作のほかに、
御江戸花賑(にぎわい)曽我 三国妖婦伝 時桔梗出世請状 霊験曽我籬(かみがき) 阿国御前化粧鏡(けしょうのすがたみ) 例服(しきせもの)曽我伊達染
尾上松緑洗濯談(ばなし) 復再(またぞろ)松緑刑部話(おさかべばなし)
などの南北の秀作に出演していた。
これらの作品で、彼は、二役、三役と複数の役をこなし、兼ねる役者として名声をたかめた。彼は体格が大柄で容姿と風采にすぐれていた。はじめ女形として出発し、のち立役に転じた。しかし、立役になってからも女形を兼ね、実悪、色悪、公家悪などをことに得意とした。女形に実悪系の演技をもちこんだのは彼の功績で、文化六年の『阿国御前化粧鏡』の阿国御前などはその代表的役柄であった。早替りやケレンの仕掛けの工夫に長じていたことも彼の特技で、南北劇の演出を多彩なものにした。
文化五年の『彩入御伽草』は、南北の怪談劇の最初の完成であった。これに先立つ文化元年の『天竺徳兵衛韓噺』でも松助は乳人五百崎の幽霊になって水中の早替りで評判をとっていた。この作も怪談劇である。この作は南北の怪談劇の先駆ではあっても完成作ではない。そのように判断する理由は、両作のあいだに、役者主導から南北主導へという大きな変化があったとかんがえるからである。
『天竺徳兵衛韓噺』で松助の水中の早替りに、魔法、キリシタンの秘法などの噂が立ち、町奉行所の役人が調査にはいったというエピソードについて紹介した。多分に芝居関係者の側の宣伝であった可能性がつよいが、そうした噂がひろまる程の松助の舞台上の動きであった。その松助の動作に陰りがあらわれた。そのときの役者評判記の『役者大学』は松助の弟子で同座していた尾上栄三郎(初代松助の養子。二代尾上松助、のちの三代尾上菊五郎)についてつぎのようにのべていた。
盆替りの『御伽草』は小幡小平次の水中の早替りで、親父三朝丈(初代松助)が大当りであったが、怪我で、からくり事は、尾上家の秘密で他人に代役をつとめさせず、代わりをお勤めになってご苦労、ご苦労。
松助の水中早替りは、松助個人の肉体能力から切りはなして、途中で代役を立てられるほどパターン化していた。そのことはまた、この演技が初めのころにもっていた衝撃度をうしなっていたことをもしめしている。『歌舞伎年表』(伊原敏郎)はこの狂言について興味ぶかい記事をのせていた。
一番目、天竺徳兵衛蝦蟇の妙術の狂言。松助はこの度は役をせがれの栄三郎にゆずり、小幡小平次の怪談をとりくみ、水中の早替りで、小平次と女房の二役大当り。松助は老年で水中に腰の立ちかねることがたびたびであったので、栄三郎が代わりをつとめ、これまた大評判。中途からは羅漢と徳兵衛だけは松助で、そのほかは栄三郎がつとめた。
『役者大学』では怪我とあったが、傷を負ったというよりも、老年のための肉体の衰えで、舞台を満足につとめられなくなったとかんがえたほうが、おそらく事実にあっていたのであろう。おなじ『役者大学』の松助の記事では「不快」となっている。当時、松助は六十五歳であった。
おなじ水中の早替りをしくんでも、松助の肉体の衰えにあわせえ芸質を変えていた。
この時どろく、煙硝火立ち、蚊帳の裾より小平次の幽霊、女房の首をかかえ、ぽっと小高くあらわれ、女の首をすかし見て、にっこりわらう。(小幡の里小平次住家の場)
この時どろくになり、虚空より魂飛びきたり、鉄山が上を落つると、心火燃える。鉄山さしうつむき、茫然となる。
一角 ハテ心得ぬ鉄山の、
三平 この体は。
ト鉄山顔をあげる。女形の思入れ、おりく見て、
りく ヤア、たしかにそなたは。(中略)
鉄山 イヤ、自らは姉の幸崎。
三平 さてはこの世に亡き人の、
一角 かりに浅山鉄山が、
鉄山 五体に害なしこの場の難儀…。(播州皿屋敷の場)
前は、小平次の怨霊がかき切った女房おとわの生首をかかえてあらわれる場面であり、後は、幸崎の亡霊が敵浅山鉄山の肉体にはいりこむ場面である。南北の怪談狂言は、松助の肉体能力に依存した早替りから、観客の神経をかきむしるような怪談劇に変ったのである。視覚の衝撃から視覚と神経への刺激へと進化した。そのことを私は南北怪談劇の完成と評価する。
3 南北劇の亡霊たち
日本の幽霊には総じて哀れさと恐ろしさという二つの感情がまとわりついている(拙著『岩波新書 日本の幽霊』)。そして、近世の江戸時代の演劇に登場してくる亡霊も、累(かさね)を主人公とした作品などをのぞけば、恐ろしさはうすく、哀れさがまさっている。これは、近世の演劇、ことに歌舞伎の亡霊劇の源流となった怨霊事が、若女形や若衆形の所作事から生まれたものであり、たとえ亡霊となっても、若女形や若衆形本来の美しさをそこなうような舞台運びをさけたという事情がはたらいていたからである。
このような通念をひっくりかえしてみせたのが南北の怪談劇であった。
南北の作品に登場する亡霊たちは哀れさよりも恐ろしさが勝っている。自分をおとしいれ、あの世へおくりこんだ人間にたいする復讐の一念からこの世に出現し、その報復は徹底している。
もう一度、『彩入御伽草』で確認しておこう。小幡の百姓小平次は六部となって廻国したのちに帰国したところを、馬子の多九郎と女房おとわに頭をわられたうえに蛍ケ沼にしずめられた。亡霊となった小平次は主家菊地家の重宝女竜の印を忠臣弥陀次郎に手渡したのち、弥陀次郎を手引きして多九郎をころさせ、おとわの首をかき切っている。
小平次の怨霊は自分を殺害した犯人たちに復讐のために出現している。しかし、小平次は自分の復讐をはたしただけではなく、悪人たちが蛍ケ沼にかくしておいた菊地家の重宝をさがしだし、公の政治の問題にもつよい関心をもって介入している。
この作に登場するもう一人の亡霊は弥陀次郎の姉の幸崎である。悪の張本、浅山鉄山は浅山鉄山は東山義政を調伏するために巳の年巳の月の生まれの腰元幸崎を辻堂におしこめ、毎日指一本ずつ切りとってその血汐を土にまぜて土器をつくる。死期がせまった幸崎は、鉄山に奉公した弟の弥陀次郎に鉄山の悪事を告げたのちに沼に身を投じて死ぬ。彼女の亡霊は鉄山の皮肉にわけいって悪人一味の鉄山の弟の首を斬らせたのちに、弥陀次郎を手引きして鉄山を追いつめていく。
幸崎の亡霊もまた恐怖すべき存在である。しかも、彼女もまた公と私の両方に関わりをもち、自分を残酷な死に追いやった鉄山に復讐をとげるだけではなく、主家の再興のためにも大きな貢献をしている。
小平次や幸崎の亡霊は、これまでの近世演劇史の亡霊にあたらしい性格をくわえていた。まず可憐さをふりすてて怨霊化した。女形や若衆形の美の範囲内にとどまっていた幽霊を立役の老女形の醜にまで拡大して、復讐の怨念の恐ろしさを強調した。
つぎに私の情念によってのみ行動し、正義の徳目や天下国家の政治の問題に関心をはらうことがなかった公の場にひきだし、権力の帰趨に貢献させた。
今回はこの辺で失礼します。