仏文学特別演習E
フランス現代思想を通して「いま」を考える

担 当 者 単 位 配当年次 開講期間 曜 日 時 限
佐伯 隆幸 教授 4 4 通年 3

授業の目的・内容

去年書いたことと大筋中身は変わりません。簡単にいえば、アラン・フィンケルクロートという哲学者のエッセイを、昨年からの続きを読みつつ、いまの時代を考えてみようというのが趣旨です。ただ、それだけでは不親切かもしれませんから、昨年度と重なりますが、この授業の狙いを粗く書いておきます。
戦争と革命の世紀だったといわれる二○世紀(むろんこれには論議の余地は大いにあります)が終わった途端、いや、それどころか、それがまだ終幕をみないかなり前、八・九○年代のベルリンの「壁」崩壊、東欧圏・ソ連邦の消滅前後から恐ろしい勢いで世界は即座には規定しにくい現象で充満しています。幕を開けるや否や、大方の期待に反して二一世紀もまた巨大な混迷の世紀かもしれぬと思わせるような「戦争」の波や、たとえば狂牛病に代表される新種の病いその他、われわれがかつて知らなかった数々の事象がとどめようもなく生起する有様、一方には「九・一一以後」に、チェチェンや中東(パレスチナ)の憎悪の構造があり、他方には、クローンの誕生等のバイオ=テクノロジーの「勝利」に、ケータイの普及が日々みせつけるバーチャル・メディア時代の全面到来があります。いずれもが関連しているようですが、その関与系を見いだし、適切に名ざすのはなかなか困難です。一つの指標。九九年に旧ユーゴを訪れた作家フランソワ・マスペロは「ここでは、内戦の相手は敵ではなく、『他者』と呼ばれる」と書きました。かれに倣うと、「民族的浄化」のユーゴだけではない、理解不能、途絶した相互他者性の対峙、「他者」しかいない時代、いまの世界はそう規定できるかもしれません。九・一一とそれ以降の状況は「敵」を識別することではなく、「自分」ではないものをすべて「他者」とみなし、その存在を撲滅することを正義や平和の至上命題にしており、その意味で、政治の延長であるにすぎないクラウゼヴィッツ以来の戦争というものの布置を根底から変えてしまいました(つまり、となると、「他者」がいる限り、戦争は続くことになります。しかしながら、他者がいるのが歴史と世界の常態なのですから、この理屈からすれば、永続的戦争しか平和を担保しない、すなわち、戦争だけが平和であるということになります。われわれがいるのはそういうパラドクスの時代です)。「民族的浄化」に連続したのは世界の総「他者」化という徴候。チェチェンや中東の憎悪の構造も、同じではありませんが、共通した相があるでしょう。ナポレオン戦争でも、反ファシズム闘争でもいい、かつて戦争や革命で倒されるのはひとまずは体制であった、いまそれは他者というものそれ自体です。で、その「他者」とはなんであり、そして、その局面において、まさにそこで、はじまったばかりの世紀は十九世紀や二○世紀とどう違うのか、問わなければならないのはそこです。転じて、クローン問題にしても「他者」と「同一性」の関係に異なった角度から問いを突きつけているし、また、バーチャル・メディアとはその他者なるものの捉え難さ、その認識の不確実性の上に乗り、そこにつけ込み、幅を効かせている新資本主義の動向ではないですか。こう考えると、現在の一切は他者とはなにかの問題に帰着すると思われます。
ところが、われわれの環境、日本では他者などどこにもおらず、自分と同一化可能な人間がどこまでも世界の構成物だと考えられ、たとえば上記のごとき諸現象が他者の問題と有機的に類縁されて、思考されることは稀れ、「外」があり、他者がおり、世界中その問題をめぐって場合によっては武力衝突が起こっていることへの認識は事実上稀薄です。それどころか、ごくやさしくいって、おのれのかたわらには他人がいるという自覚すらしばしば欠けているのが現状でしょう。畢竟、他者などいない、そのような枠組で永久に幸福な同時代が続いていくという「信仰」(つまりは、同一性の神話)がわれわれを見事に呪縛しており、そんな幸福や同一性の世界がいかに根拠なく曖昧なものであるかをつめて考えないでも済むからです。そうでなければ、電車のなかのケータイ問題をはじめとする「みんながやるからわたしもやる」式の、すべての年齢層に共通してみられるいまや傍若無人ともいえる「みんなの自分勝手」、「いいじゃん、おれの自由だろ」といった「みんな」への同一化現象、蔓延する没主体現象は起こりません。「みんな」しかないところに、その「手前勝手」しかないところには他者も主体もないからです。ちなみに、どこかの新聞の世論調査で、外国人はこれ以上日本にきて欲しくない、犯罪を犯すから、という回答が多数を占めた由、発表になりました。世論調査ですから、額面通り信ずるわけにはいきませんが、でも、これも、いうなれば、この地に巣喰っている他者観、他者不在、他者嫌いの現われでしょう。要するに、「他者」はいろんな現われ方をするわけですね。他者の悪しき定立、排除的「他者化」はかくのごとく差別(外国人=犯罪者=「他者」という非常に矮小で偏見的な認識構図)や、「永続的戦争」や「民族的浄化」を招きますが、といって、他者がいないと考えたり、それはどこか遠い彼方にあるものだと考えるのも虚妄です。この二つは実は同じ思考の裏表です、根底に厳然と疑いえない同一化(主義)を隠しているのですから。かつてそこらには、イデオロギー的な錯誤もありはしたにせよ、歴史や記憶に根ざして他者と対応でき、それを対象化しうる基準のようなもの、いうところの思想やエチカというものが存在したのですが、イデオロギーの終焉と一緒にそれは流されてしまったか、通用しにくくなってしまったわけです。そういう意味では、われわれの生きているのはしごく厄介な時代です。他者の現存をまともに把握できないでいるのですから。たちどころに解答が出るはずもありません、世界はもうhybrideにしかありえない、われわれにできるのはそのことを基底にとことん考えることだけです。
そういうわけで、いま述べたような環境(もちろん、いくぶん極論したところもないわけではありませんが)にどっぷり浸っているわれわれにとって「外」とはなんなのか、そこではいまなにが起こっているのか、その「いま」についてなにが語られているかを通して、われわれなりに思考してみようというのがこの授業の目論見です。フランス文学科の最終学年の授業ですから、これまでに習得したフランス語の力や昔の言葉でいう教養(いまなら、知見でしょうか)を活用して、「いま」を具体的に語るテクストを読みつつ、フランス語の読解力も高め、世界への関心を育て、合わせて、自分たち自身の環境への批評的意識ももってもらおうという欲張った腹づもりです。しかし、卒業年次生なら、この程度の事象と一度は格闘してみてもいいのでは、それを経て社会に出るといいのではないかと思ってわたしとしては授業内容を構想しました。世界で起こっているすべてを知っているわけではありませんから、背景などについてはわたしも勉強しますし、諸君にもいろんなことにふれ、勉強してもらうつもりです。

授業計画

使用するテクストはアラン・フィンケルクロートが2002年に出したものです。ここには当然マンハッタンの出来事は出てきますが、それだけではなく、旧ユーゴ情勢の反省からユダヤ人の被迫害の歴史やパレスチナの錯綜にいたるまでの政治や戦争のこと、バイオ=テクノロジー問題から、それこそケータイ是非にいたる論議まで、ある哲学者が目前で起こり、起こったさまざまな現象について、無理にテーゼふうにまとめてしまうのでも、急いで価値判断をするのでもなく、事柄を素直に受けとめ、それについて思考をめぐらせるというかたちで痕跡を書きとめた日録です。わたしは必ずしもこの語り手の意見に賛成できないところもありますが、それはそれ、このエッセイのアンテナはなかなかなものだと思いますし、中身も興味深いと思います。日録ふうの記述ですから、きわめて雑多にいろんなことが語られていますが、それぞれは短いもので(一日当たり大体長くて三頁前後)、非常にラコニックに、かつまた、皮肉をたっぷり効かせた記述だといえます(それだけに丹念に読まないと読みとれないところもかなりあります)。これを、昨年度読んだ日付けの続きから読む予定です。一冊すべてを一年で読みきることはたぶん無理ですが、なるべく多角的に読むことができるに如くはないと考えています。ときに難しい箇所もあろうと思いますが、仏文の卒業年次生でこの程度のものにまったく歯が立たないのではちょっとどうかなと、それはないだろうと、まあ期待しているわけです。知識不足でわかりにくい箇所は予備的に調べてもらい、かつまた、わたしが自分の知ることを媒介に極力リードしながら、演習形式で進みます。フランスの内政に関わって、われわれにはあまり馴染みのない事柄は飛ばして、本質的で大事だと思える章をゆっくり読むつもりです。題材はなんであれ、考えることがもっとも大切だし、それが要求されるでしょう。また、考えることは、やってみれば面白いのだ、喰わず嫌いだったのだということが心底体感できるといいなと幻想しています。

成績評価の方法

第1学期(学期末試験)、第2学期(学年末試験)
教場での読解と二回の試験で語学力、および、考える力をみて、総合的に成績は出します。なお、これは蛇足ですが、あえて、つけ加えておきます。近年特別演習がともすれば通過儀礼になっているという話を聞くことがあります(諸君の構えが、ですよ)。特別演習は卒業に必要な科目ですが、卒業のために機械的に単位が与えられる性質のものではありませんし、もちろんわたしも、通過儀礼だと思って授業をするつもりはありませんので、そのことは履修する諸君はくれぐれも脳に叩きこんでおいて下さい。そんなことはそもそも他者を知ろうという授業の趣旨にも反しますし、第一、学業として無意味です。どのくらいそれが徹底できるかはわかりませんし、授業をただむやみに難解にやるつもりは毛頭ないわけで(懸命に思考することと硬直していることとは別です)、可能な限り授業は自由闊達にやりたいですが、それでも、いいですか、わたし自身、教場では諸君に対していわば一箇の他者として対峙するつもりですから、諸君もそれなりの覚悟は決めておく方がいいのではないでしょうか。

教科書

Alain Finkierkraut, l'Imparfait du Prsent, nrf. Gallimard, 2002

参考文献

参考文献について。背景等(わたし自身が知らないことはあらためて勉強しつつ)に関しては、適宜、気づいた限りで、教場で教え、また、読んでもらいます。基礎資料として地図が要ることもあるので、それも、なにがあるか、どれがいいかは必要に応じて紹介します。