※思想史特殊研究
否定性の問題

担 当 者 単 位 数 配当年次 学 期 曜 日 時 限
杉山 直樹 教授 4 2~4 通年 4

授業の目的・内容

「授業の目的」と語る者は、授業に参加する者における「無知」という一つの否定性(この場合は「欠如」)を自明のものとし、そして講義がその「無」を充填してくれるのだ、それで「終わる」のだ、という構図であらかじめものごとを捉えている。そもそも「目的」という概念には、「目下達成されて〈いない〉」ことがある、現状のうちには「欠如」が存する、という前提が含まれている。
これはごく一般的な、ありふれた話である。我々の思考と実践には、このように、いつも「ない(無・非・不)」という否定性の要素がまとわりついているように見える。そしてこの点について考察することから、いくつもの「人間論」や「存在論」、「倫理」が構想されてきた。それにしても、現実に存在する私が、確かに実在するはずの世界において、どうして無(「ない」)を語るのか。否定性の問題をめぐり、思想史的な題材のうえに素描的考察を試みる。何がテーマになってくるのかは、初回に話す予定。

授業計画

どこにたどり着くかという「目的=果て(fin, end)」は分からない。そもそもその種のあまりに自明視されすぎている思考の枠組みに対する不快──再び、否定性──によって話は進む、あるいは進まないままにぐるぐると円を描く。もっぱら「目的への進行」や「解答への到達」として規定された思考のイメージを放棄するがゆえに、「分からない」というまた別の否定性の前で授業がストップすることもあり得る。

授業方法

あれこれの哲学者のテクストは参照され考察の対象となるが、結局はただ私たちがものを考える場所を確保するための(悲しいかな、ここでもまた「目的」図式が。)講義。教師がぶつぶつしゃべっていたりもごもご何か言っているのを聞いていたり聞いていなかったりすると、不意に指名されて意見を求められるといった事態は、十分に予期されます。

成績評価の方法

学年末レポートに平常点をいくらか加味する。

参考文献

詳細に関しては講義を通じて紹介。

その他

おそらくは、参加される学生さんに対しては非常な迷惑がかかることと思います。話につまって「わからん」と言い残して教室を去ることは避けたいと思いますが(するかもしれません)、「つまり、何なんだ」と思われるだけに終わったり、時に、単なるセンチメンタルな話に堕落する可能性も高いでしょう。手探りの模索におつきあいいただければ幸いです。
なお、「無」が中心テーマのひとつとなるだけに、特に、東洋思想を学ぶ学生さんが参加してくれればありがたいと思っています。