※日本文学演習
夢とうつつの文学‐‐『伊勢物語』から泉鏡花まで‐‐

担 当 者 単 位 数 配当年次 学 期 曜 日 時 限
兵藤 裕己 教授 4 4 通年 5

授業の目的・内容

北村透谷に『宿魂鏡』という小説がある(明治26年1月、『国民の友』)。女の母親によって仲を裂かれ、郷里へ帰った男のもとへ、深夜、女がたずねてくる。女は、嫌いな男にとつがされる苦衷をうったえ、「誓ひし事のいつはりならずば…」という。翌朝、男は自室で死んでいた。おなじ時刻に、女も東京の屋敷で息絶えていた。
『宿魂鏡』は、詩と批評をもっぱらにした透谷の、ゆいいつの小説らしい小説である(ほかに、あらすじだけのような小品もあるにはある)。この小説のなかで、女と再会した男は、「夢か、夢なるにせよ、我れ覚めたりと思ふ間は夢ならず」と独白する。本人が覚めていると思うあいだは、夢は、たしかに夢ではないのだ。
目が覚めているのにみてしまう夢を、幻覚という。そして夢とうつつとの区別が判然としなくなった人は、「正常」でないとされる。透谷じしん、妻のミナ子によって、後年、「もうその頃から気ちがひだったのですねエ」と回想されているが(「『春』と透谷」、明治41年)、しかし入眠時における睡眠と覚醒とのさかいめが判然としないように、わたしたちの日常的な経験からいっても、夢とうつつとの境界はあいまいなのだ。
たとえば、「うたた寝」ということばがある。平安時代の歌語に由来することばだが、「うたた寝」の「うたた」は、「うたふ」、「うたがふ」、「うたて」、「うたげ」などの「うた」と同根の語であり、それは、なにかの魔がさしたときの、「われがわれであらぬような心の状態」を意味する語だという(藤井貞和『物語文学成立史』)。つまり、夢とうつつとのさかいめのような状態が「うたた」であり、「うたた寝」である。
「たらちねの親のいさめしうたた寝は 物思ふ時のわざにぞありける」(『拾遺和歌集』897番)は、「うたた寝」による恋人との逢瀬を期待した歌である。ふるくは『万葉集』に、「筑波嶺のをて面(も)かの面(も)に守部(もりへ)すゑ 母い守(も)れども魂(たま)そ逢ひにける」(3393番、巻十四)とあるのも、いわゆる魂逢いの歌である。こうした「魂」の逢瀬は、夢うつつの「うたた」の状態で行なわれたのだ。
夢うつつの逢瀬をうたった歌として有名なのは、『伊勢物語』六十九段の、「君や来し我や行きけむ思ほえず 夢かうつつか寝てかさめてか」である。この歌にまつわる歌語りとして、『伊勢物語』は、狩の使いの男(業平)と伊勢の斎宮との密通スキャンダルを伝えているが、おそらくそれは後づけの説明物語である。この「夢かうつつか」の歌も、魂逢いの歌なのであり、まさに「寝てか醒めてか」という状態で、魂は恋人のもとへかよい、恋人の魂はこちらへかよってくる。
ところで、「うつつ」という古語が、イコール「現実」でないことはいうまでない(坂部恵『仮面の解釈学』)。「うつつ」の「うつ」は、漢字をあてれば、「顕」(うつし世)であり、「虚」(うつせ身、空蟬)でもある(『時代別国語辞典・上代編』)。それは、「いま・ここ」の現前を意味する一方で、「うつろ」な仮象をも意味する。そして神仏が、しばしば夢の時間に現れるように、「うつつ」と「夢」とは、容易にその真正性(オーセンティシティ)の水準を反転させるのだ。
現前するのは仮象としての「うつつ」でしかない。現代のわたしたちを取り巻く「現実」をさすようなことばは、古語には存在しなかった。近代のリアリズム文学や絵画が観察・描写したような「現実」は、いうまでもなく、世界を遠近法的に認識する近代的な「主体」とともに成立した。
さきにあげた透谷の『宿魂鏡』は、夢うつつの<魂逢ひ>をテーマにした小説だった。恋人どうしの魂の逢瀬から、心中にいたる筋立ては、泉鏡花の心中小説をおもわせるが、魂逢いによる心中(後追い心中)をえがいた鏡花の小説に、『春昼』がある。『春昼』(『春昼後刻』を含む)は、女主人公が書きつけた小野小町の有名な古歌、「うたた寝に恋しき人を見てしより 夢てふものはたのみそめてき」をめぐって物語が進行するが、この小説を書いたころの鏡花の心境は、『自筆年譜』に、「『春昼後刻』を草せり。蝶か、夢か、殆ど恍惚の間にあり」(明治39年11月)と記される。
「蝶か、夢か」云々は、「荘周の夢」という有名な故事をふまえた一文である。まさに、蝶か、夢か、「現実」などそもそも存在しないのだという、そんな(ポストモダン的な!)地点から出発しないかぎり、夢うつつをテーマにした和歌や物語も、また、夢とうつつの境界をあつかう芸能(たとえば、鏡花がしたしんだ能楽)も、鑑賞・解読することはできない。さらにいえば、明治二〇年代の北村透谷の詩劇も、明治三〇年代の泉鏡花の小説も読みとくことはできない。「幻想文学」などといった名辞では、なにも説明したことにはならないのだ。ーー
夢とはなにか、という問いは、こんにち、すぐれて大脳生理学の問題でもありますが(アンドレア・ロック『脳は眠らない』、など)、この授業では、夢にまつわる一連の問題系を起点として、わたしたちの「主体」イメージがゆらぎ、ねじれる瞬間について考えたいと思います。夢うつつのはざまでゆらぐ「主体」のありようを、文学や芸能の問題として問うことで、ポストモダン後の「主体」のありようについても考えることができれば、と思います。

授業計画

授業の趣旨説明。
前回につづいて、授業の趣旨説明。
輪読を開始する。

授業方法

第1学期はまず、坂部恵の古典的な名著『仮面の解釈学』の輪読から始めたい。カント哲学の大家であり、「日本語による哲学」を実践した坂部氏における「うつつ」と「夢」に関する解釈を理解し、共有することからはじめたい。
第2学期は、受講者の専門分野(古典から近代)に引きつけるかたちで、夢にかかわる文学上の諸問題を考えたい。

成績評価の方法

出席点と、発表とレポート。
授業での発表と、学年末のレポートによって評価します。

教科書

藤井貞和日本語と時間』(岩波新書岩波書店2010
坂部 恵仮面の解釈学(新装版)東京大学出版会2009
『仮面の解釈学』は、「新装版」(2,800円)ではなく、廉価な「旧版」を古書店(amazonなど)で購入しても、一向にさしつかえありません。ただし、「旧版」を購入する人は、「新装版」に付された熊野純彦氏の解説(全11頁)を、コピーして入手してください。

参考文献

アンドレア・ロック能は眠らない(新装版)講談社ランダムハウス2009
ポール・リクール、ほか脳と心みすず書房2008
アンリ・ベルクソン物質と記憶』(ちくま学芸文庫筑摩書房2007
兵藤裕己北村透谷の「他界」』(雑誌『文学』2010年11-12月号岩波書店
上記以外にもたくさんありますが、授業時に指示します。

履修上の注意

第1回目の授業に必ず出席のこと。