担 当 者 | 単 位 数 | 配当年次 | 学 期 | 曜 日 | 時 限 |
吉澤 保 講師 | 4 | 3~4 | 通年 | 月 | 2 |
この授業ではドゥルーズのテクストの講読を行います。二点補足します。 1.哲学は数あるディシプリンの一つにすぎず仏語圏文化研究には必ずしも必要ない、と思う方もいるかもしれませんが、果たしてそうでしょうか。物事の前提を問いかけるものとしての哲学は、およそ物事を考える人に無縁ではありません。私達の実践はいずれも、無前提にはなされません。実はこの点はドゥルーズその人においてよく見て取れます。ドゥルーズは文学や映画から政治に至るまで様々な物事を論じていますが、それらの議論はドゥルーズの哲学によって規定されています。それらは、ドゥルーズの哲学の応用、もっといえば哲学そのもの、に他なりません。 2.西洋の近代批判の根本的なものは、自己同一的な個体(実体、主体、意識)に対する批判にあると思います。無意識的なものの存在を認めればそれでいいのかと言えば決してそんな安易なものではなく、無意識的なものが帰属される主体の自己同一性を認めている限り、実質的には変化はありません。精神分析と政治を結びつければそれで済むというのはあまりにもお気楽すぎます。ドゥルーズ哲学はこの勝義の近代批判の系譜にあります。ドゥルーズ哲学は生成の哲学です。一般に生成の哲学によれば、万物は流れ、僅かたりとも同じ物として持続することはありません。ただ私達の経験は決して単なる流体のようなものではありませんから、この点を説明する必要があります。ドゥルーズはこのような哲学的な難題に取り組んでいます。ドゥルーズ哲学は同時に、多様体の哲学、出来事の哲学でもあります。生成としての多様体或いは出来事は単なる個体でも普遍(形相、本質)でもありません。これはドゥルーズ哲学の最も重要な概念です。このようなドゥルーズ哲学は、デリダ的な脱構築にとどまらず、すべてを解体するかのようです。主体批判の極北にあるドゥルーズ哲学は私達を魅了してやみませんが、その一方で果たしてこれだけでいいのかという思いも呼び起こします。スキゾやノマドになればいいのでしょうか。主体の価値や様々なレベルでの普遍性の価値を考えることなしに、実践を構想することはできるでしょうか。ドゥルーズは、どのような国家もその起源たる専制君主国家の本質を免れないとしていますが、果たしてそうなのでしょうか。私自身の現段階の関心は、ドゥルーズがおこなった主体批判を踏まえつつ、目的論的議論をどのようにして再導入するのかということにあります。これは、ルソーが正しいとする「国家」と「人間」を、ベルクソンやホワイトヘッドがいう「憧れ」を、主体の価値と普遍性の価値を、正義の問題を、考えることでもあります。この授業では、ドゥルーズのテクストを丹念に読むことが第一の目標ですが、ドゥルーズを批判的に読むという視点も常に持ち続けていたいと思います。これはもちろん、ご都合主義的にドゥルーズ哲学から実践への要請を引き出すことでは全くありません。 |