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舞台芸術にかかわった人たち、あるいはそれについて思索し、分析している人たちの文献を批判的に講読するということがこの授業の中心的な課題となるであろう。つまり、この授業はやや形而上学的な思索と舞台芸術批評との関連を探ろうとするものになるであろう。その試みを進めていくためには、現代の重要な舞台作品(ピナ・バウシュやフォーサイス、カントールなど)の実態について知っていなければならないとはいえ、そのようなものに言及することはここではできない。私の意図はそれらの彼方に何を構想すべきかを考えようとすることである。実際、私が取り上げ、分析しようとしている人々は、悲劇詩人、哲学者、思想家、さらに、彼ら・彼女たちについての論考を発表している研究者など多岐に渡るが、それとの関連で言えば、アリストテレスの『詩学』をラカンがどのように読んだか、つまり現代思想とギリシア的理念とはどのような関係にあるのかとか、あるいは『ドイツ悲劇の根源』を書いたベンヤミンの思想においてギリシア悲劇の分析がどのような意味をもっていたのかなどという、舞台芸術といわれるものの哲学的、現代思想的な考察を個々の具体的な場面において追及していった果てにどのような問題系が現われてきたのかということが授業内容になると思われる。つまり、西欧の近代演劇はギリシアの演劇とどのように違うのか、そこにどのような文化的な連続性があるのかといったことを、近代演劇批評とギリシア文献学とを比較しながら考えるということが、舞台芸術批評研究という学問の課題として浮上してくるのではないかということである。今年はとりあえず、アリストパネースとエウリピデスがどのような関連のもとに批評的に語られてきたのかを調査するとともに、それと近代劇批評とはどのように関連するのか、ルカーチやジョージ・スタイナー、あるいはエリック・ベントリーの批評を参照しつつ考えていく。このとき、アリストパネース論を「喜劇と医学」というタイトルのもとで書くことは可能かとか、モンペリエ大学医学博士のフランソワ・ラブレーやモスクワ大学医学部卒業のチェーホフがなぜコメディアや笑いの文学の重要な作家になったのかということを演劇批評の側面から考えていきたい。 |