私たちが日々目にする五千円札の顔、新渡戸稲造。しかし、夏目漱石や福沢諭吉といった人たちよりも彼に関する生涯を知る者は少ないように思う。では何故彼は五千円札の肖像画に選ばれたのだろうか。彼は、どのような人生を送り、日本だけでなく世界に何を遺したのだろうか。彼の生涯を追うと共に彼の生きた時代の国際情勢について研究するものとする。


 新渡戸稲造は1862年盛岡市で生まれ、7歳の時に明治維新を迎えることになる。

彼の生涯を通して貫かれた精神は、理不尽な権力に対するきびしい反骨の精神であった。
彼は、北海道開拓に必要な人物を育成するために作られた札幌農学校で農学を専攻し、その後アメリカのジョンズ・ポプキンス大学留学する。

 しかし彼は、日本の固有の文化と伝統と西洋の優れた文明がお互い理解されていないことに疑問を感じ、日本と西洋の架け橋になるためにもう一度東京大学で勉強し直すことを決意する。その時の言葉が、「願わくは われ太平洋の橋とならん。」である。

 日本の文化や思想、習慣ついて説明するために1899年に「武士道」を英語で出版する。
その内容は武士道に基づく日本の道徳観念が日本固有のものであると同時に、西洋の道徳思想と、いかに共通しているかを、聖書はもとより、西洋の思想家、哲学者、文学者などの説を引用して論述している。

 日本と世界の架け橋となるために、1919年に彼は国際連盟の事務次長に就任する。彼は平和論者、非戦論者として何のためらいもなく外国人に訴えることができる人間であった。また彼のこの在任中の功績は、日本の地位と声価を海外に広く高めたことである。そして、ユネスコの前身「知的協力委員会」を設立し、真の平和を訴えたのである。

 彼の平和に対する思いや国際連盟時代の彼の活躍ぶりを軸に彼の生き方やこの時代の国際情勢について研究する。

 畠山ゼミ4年卒業論文 
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