◆(【組織の「年齢」について】より)
人間にも年齢があるのに似て、組織にも、そして国家にも年齢があるのだ。ただしこの場合の「年齢」は肉体上の年齢というより、精神の年齢を指すのはもちろんである。反射神経の鈍化。おかげで対応も、後手後手にまわりがち。政局不安定による、政策の継続性の欠如。改革を試みれば、自分自身の本質に反することをしてしまう。そして、これらの総決算でもある自信の喪失。
◆(【継続は力なり】より)
なぜか、危機の時代は、指導者が頻繁に変わる。首をすげ代えれば、危機も打開できるかと、人々は夢見るのであろうか。だがこれは、夢であって現実ではない。
人を代えたとしても目ざましい効果は期待できないということである。やらねばならないことはわかっているのだから、当事者が誰になろうと、それをやりつづけるしかないのだ。「やる」ことよりも、「やりつづける」ことの方が重要である。なぜなら、政策は継続して行われないと、それは他の面での力の無駄使いにつながり、おかげで危機はなお一層深刻化する、ということになってしまう。今や日本の外は、イラクもパレスティーナも泥沼化し、それでも足りずにチェチェン、北朝鮮、アルカイダと、まさに仁義なき戦いの時代に突入している。こういう時代だからこそ、体力、国家にとっては経済力、の回復が必要不可欠になる。
◆(【クールであることの勧め】より)
日本人の目下の最大関心事は、経済の再建を除けば北朝鮮にちがいない。一方、パレスティーナとイスラエルの間の抗争は、日本とは歴史上の関係も薄く宗教もからんでいたりして、正直言って関心がない、となるのかもしれない。私はここで、直接の利害関係がなくとも関心をもつべきで、この問題の解決には日本も他の主要国並みに努力すべきである、などという正論を吐くつもりはない。だが、成功した場合は何によったのか。動機が、自分のため、であった場合である。私益の追求からはじまった行為であり、より端的に言えば、私利私欲に基づいた行為である。なぜなら、何ごとでもそれを成しとげるには、強い意志が必要になる。しかもその意思は、持続しなければ効果は産まない。意思を持続させるに必要なエネルギーの中で、最も燃料効率の高いのが私利私欲である。誰でも、自分のためと思えば真剣度がちがってくるからだろう。私益でも公益に合致すればいいのだ。
このように地球の反対側で起こっていることでも影響を免れないのが今の世界情勢だが、帰国のたびに私を絶望させるのは、日本のマスメディアにおける海外情報の貧しさである。日本人の関心の度合いがそのまま日本の海外発信に反映しているのではないかとおもうからである。日本の外交関係者は、戦前戦後の別なく、遠方のことには発信を控える態度で一貫しているらしい。これでは、討議が近くのことになったから発信したとしても、その発言には重みがない。ゆえにまじめに聴いてもらえない。なぜなら、発信しないことは考えていないことと同じ、と受けとられるからである。つまり、パレスティーナ問題でも活発に真剣に発言してこそ、北朝鮮問題に対して発言した際にもそれを、われわれ極東からは遠い欧米人も真剣に聴く、というわけだ。私は、相手がどう考えどう出てくるかを知って・勝負に臨むのは、ゲームに参加したければ最低の条件である、といいたいだけである。戦争は、血の流れる政治であり、外交は、血の流れない戦争であるのだから
◆(【プロとアマのちがいについて】より)
政治の世界でのプロとアマのちがいも、絶対政治感覚の有無で判断できるのではないかと思っている。しかし、分野が何であろうと、この種の絶対感覚は、いったんもてば、それ以後も持続できるというような、簡単なものではない。使わないと劣化してしまう脳や筋肉と同じで、常日頃の注意と訓練があってこそ維持も可能になる。しかも、いったん鈍化すると回復は実に困難という性質まで合わせもつ。取り返しのつかなくなる前に手を打つ必要があるのだが、それには具体的にどんな手段があるだろうか。まず第一に、反省することですね。それも、自己反省。周辺の事情に変化があった、などと言ってみても無駄である。今までは周辺の事情がどう変化しようと良い成果が得られたのに、それが得られなくなったということはカンが鈍ったゆえなのだ。だから反省は、徹して自分の言行の反省に限定するべきである。そして自己反省は、絶対に一人で成されねばならない。決断を下すのも孤独だが、反省もまた孤独な行為なのである。自分と向き合うのだから、一人でしかやれない。もしかしたら、プロとアマを分ける条件の一つである「絶対感覚」とは、それを磨くことと反省を怠らないことの二つを常に行っていないかぎり、習得も維持もできないのかもしれない。
◆(【乱世を生きのびるには….】より)
主導権をにぎれなければにぎっている国の後に従う、とうのもバカ気たやり方で、それで得るのはさらなるカネを吸い上げられることでしかなく、援助外交を単なるバラ撒き外交といいかえたりすることによる目くらましに欺かされている余裕は、もはやわれわれにはないのである。そして大国でないがゆえに問題を討議するグループからさえもはじき出されている日本は、実効力のあるアイデアを主張しても他国が乗ってこないという場合に、これからはしばしば出会うようになうと思う。だからと言って、手をこまねいていては影が薄くなる一方だ。それで、というわけで提案なのだが、こうなっては腰を落ち着けて、日本人だけで解決できる問題に、われわれのエネルギーを集中してはどうであろうか。他国をないがしろにするまではできないが、優先的に、ということならばできる。そして、これは経済力のさらなる向上、以外にはない。国家にとっての体力は経済力であるからで、経済と技術の向上となれば、日本人にとっては「自分たちだけでやれること」になるからである。日本をめぐるめぐらないにかかわらず、世界情勢の激動はちょっとやそっとでは収まらないのだから。それに諸行は無常なのである。いつ、日本に出番がめぐってくるかわからないし、反対に当分の間は出番はめぐってこないかもしれない。ならばその間は腰を落ちつけて、意思があり努力する気さえあれば他国と相談しなくてもできること、つまり自分の国の経済力の向上、に専念してはどうだろう。言ってみれば今度こそ、堂々とエコノミックアニマルをやるのである。国家の体力である経済力の向上のために必要とあれば、諸制度の改革も強行せねばならず、何よりも重要なのは、持てる資源を徹底して活用する冷徹な精神である。日本の資源といえば、人材であることは言うまでもない。体力にさえ自信がつけば、何に対しても人間は、自信をもって対処できるようになってくるものですよ。
私はこの著書を読み、現在の日本は国内的にも外の他国との関係においても限界を迎えているのではないか、と感じた。われわれ日本国民一人一人の当事者意識の低さと、また自国への危機感の低さを痛感しました。それは現実を受け入れることができていないが故の事実である。そして塩野七生さんは鋭い感覚で日本を評価しているのですが、その評価は決して甘いものではなくむしろはっきりと指摘している。しかしそれは日本人であるがゆえ、日本も捨てたもんじゃないといった想いからの激励とも感じられました。現状をつきつけられた日本だからこそ考えられる政策や対処法がきっとあるはずである。また、限界を迎えようとしている今だからこそ考えなくてはならないといってもいいくらいだ。
「日本人へ リーダー編」塩野七生 2010年(平成22年)5月20日 ㍿文藝春愁