諏訪春雄通信87
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5月20日(火曜日)の朝刊各紙がいっせいに、弥生時代の起源が500年さかのぼって、紀元前10世紀になったと報じていました。ご覧になった方も多いとおもいます。
千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館の研究グループが、北部九州から出土した縄文時代後期から弥生時代中期にかけての土器に付着していたススなどを放射性炭素年代測定法で測定した結果、あきらかになった事実といいます。
放射性炭素年代測定法というのは、生物が大気からとりこんだ放射性炭素C14の濃度が、死後、しだいに低下するという事実に注目し、その減り具合を測定して経過時間をわりだす方法です。ただ、この測定法では、大気中のC14の濃度が微変動するため、全体として古い年代に設定されることが多く、その信頼性をめぐっては、学界になお論議があります。たとえば、これまで12300年前とされてきた縄文時代のはじまりが、C14をつかった測定では16500年前となり、3000年以上もさかのぼってしまい、その測定結果はほとんど無視されてきたという事実もあります。
ここで問題になるのは水田稲作の渡来年代です。各新聞の報道によると、弥生時代の起源が500年さかのぼったことは、そのまま稲作の起源がさかのぼったこととしています。
稲には熱帯ジャポニカ(野生・焼畑耕作など)と温帯ジャポニカ(水田耕作)の二種類があります。日本の最古の稲は縄文時代前期、いまから6000年前にさかのぼって岡山県や鹿児島県から出土しています。ただしこれは焼畑などで耕作された稲で、水田稲作ではありません。
日本で熱帯ジャポニカが耕作されだした、ちょうどそのころ、中国の江南では水田耕作による温帯ジャポニカの生産がはじまっていました。現在わかっている水田の最古の遺跡は、江蘇省蘇州市の6000年前の草鞋山遺跡です。この水田が朝鮮半島を経て縄文晩期の2600年前に佐賀県唐津市の菜畑遺跡におよんでいたというのがこれまでの説でしたが、今回の研究によってさらに500年ほどさかのぼらせようということになりました。
中国では6000年前には水田耕作がはじまっていたのですから、日本の水田稲作の起源を3000年前にもってゆくことには、それほど問題はありません。将来、もっとさかのぼる可能性もあります。
むしろ、今度の発表とこれまでの稲作以外の研究との整合性が重要です。たとえば、福岡県の曲り角遺跡から出土した弥生早期の鉄器が紀元前8世紀のものとなって、中国で本格的な鉄器が普及するまえに、日本に鉄器文化があったことになります。
私が問題にしたいのは、そののちの日本文化の展開との整合性です。水田は長江流域ではじまった文化であり、これまでの説では、戦国時代の動乱のなかで、長江流域の呉や越が滅び、彼らが水田稲作の技術をもって、おなじ環境の土地をもとめて、朝鮮半島南部や日本へわたってきたという説がじつにスムーズに成立していました。紀元後の3世紀ごろに歴史のうえに登場してきた倭人や邪馬台国は、彼らの子孫とみれば、文化や人種へのつながりがうまく説明できました。
もし、水田稲作の起源を500年さかのぼらせるとすれば、その技術をつたえた人たちはだれであったかという問題がおこります。
国立歴史民俗博物館の春成秀爾教授は、日本の弥生時代開始の背景として、これまでの紀元前5世紀ごろにはじまる戦国時代の動乱にかわって、紀元前11世紀ごろの殷(商)がほろんで、西周が成立する動乱をかんがえるべきだとしています。
ここでたいせつなことは、中国の北と南の文化の相違です。この通信でもたびたびふれてきましたように、中国の黄河流域の北の文化と長江流域の南の文化とではつぎのように顕著な対比ができます。
中国黄河流域 狩猟・牧畜・畑作農耕 天の信仰 強大王権交替
中国長江流域 漁撈・稲作農耕 太陽の信仰 弱小王権交替
日本 漁撈・稲作農耕 太陽の信仰 天皇の永続
殷も周 も北方文化に属します。彼らの子孫が直接日本へ水田稲作文化をもって渡来したと考えると、そののちの日本文化につながりません。彼らの子孫が長江流域に押し出し、玉突き状態で南の人たちが水田稲作を中心とした南の文化をもって朝鮮半島や日本へわたったとかんがえるべきでしょう。
戦国時代に江南の地で興亡をくりかえした国は越と呉でした。越は今の浙江省の紹興を中心に勢力をもった国で、古代越人の末です。これにたいする呉は、やはり越人の建てた国で、現在の江蘇省の太湖の周辺で越ととなりあっていた国でした。
『史記』によりますと、呉を建国した太伯という人は、周の王の太王の長男でしたが、後継者問題で身の危険を感じて、江南の地にのがれ、文身・断髪して、この地の風俗にそまったとあります。こうした事情を知って、この地の人々千余家が彼にしたがったといいます。
七世紀の中国の歴史書『梁書』諸夷伝によりますと、日本列島の倭人がみずからを周の王族太伯の子孫であると称したという記述もあります。また、室町時代の京都の五山僧中巌円月のかきのこしたものによると、日本の神武天皇が呉の泰伯の子孫だとあります。これらの伝えは、以上のような事情を反映したものだとかんがえると、今回の500年さかのぼらせる説は妥当ということになります。
5月31日(土曜日)午後2時から開催した研究会「中国長江南部の太陽信仰と日本の王権」は掛値なく盛会でした。会員・一般社会人の参加が80余名、そのほかに多くの学生が聴講していました。この講演の要旨はこの通信81に掲載してありますので、ご参照ください。おわってからの質問の多さも、私にもはじめての経験といってよいほどのものでした。
当日の会場からの、そのあとで行列をつくって私のまえにならんだ方々の質問のなかから、注目される三つをえらびました。
1 東京都の中心に位置する皇居が地番をもたないのはその空虚性の端的な表現か。
2 日本の王権の空虚性は神話におけるウツボの神聖さに通じるか。
3 皇室の紋章菊花は太陽からの変化か。
この三つの質問の答えはいずれもYESです。当日の質問者の学識の高さをしめしています。
この研究会で使用するビデオをえらんでいたときに、じつに貴重な資料にゆきあたりました。Victorが1997年に発売した『中国五十五少数民族民間伝統芸能大系 トン族』に収録されていた「ジィ・サ サセ(祖母)を祭る儀礼」です。「この行事は祖先を祀る儀式で、三年ごとに一度小さい祭りを、五年ごとに一度大きい祭りを正月1日に行う」としか解説にありませんが、私にはすくなくともつぎの3点を教えてくれます。
トン族の祖先の女神薩歳のご神体が太陽を象徴する傘であること。したがって、トン族の儀礼建築物鼓楼の本質も傘とかんがえられること。薩歳や傘についてはこの通信10で報告しました。
この薩歳祭は、日本の新嘗祭、大嘗祭とまったくおなじ性格の祭りで、子孫に降臨した祖先の女神が、稲や酒をはじめとする供物を共食する祭祀であること。
この祭りで覆面をして神がかりする男性たちは、古代祭祀に登場した尸とかんがえられること。
この3点はまったくあたらしい知見です。1からはアマテラスの、2から新嘗祭・大嘗祭の、3からは古代の葬儀や祭礼の、それぞれ本質を解明する手掛かりが得られます。
終了後、事務局4名も参加した卯月での夕食会はたのしいものでした。
次回は、7月13日(日曜日)午前10時から、東アジアの芸能と演劇の形成・展開を、講演とシンポジウムによって解明します。5名の講師をお招きしています。多数の方々が参加してくださることを期待しています。
今回はこの辺で失礼します。