化学反応を通して見る生体膜の構造・物性

 生体膜は細胞の内外の境界であるだけでなく、光合成における電子伝達系などの重要な生化学反応が進行する反応場でもあります。化学反応の速度は、粘度や極性などの反応場の環境によって決まります。そのため、生化学反応を理解するには化学反応場としての生体膜の環境を知る必要があります。わたしたちは生体膜のモデルであるリポソームを用いて生体膜の化学反応場としての環境をピコ秒時間分解けい光分光法を用いて調べています。現在、生体膜の中の粘度に注目して研究を進めています。

 リポソームは生体膜を構成する物質の一つである、リン脂質の集合体です。リン脂質は水中で親水基を外側、疎水基を内側に向けた脂質二重膜を形成します。脂質二重膜を丸めて球状にしたものがリポソームです。リポソームはカプセル型の構造をしているので、内部に物質を封入することができます。リポソームの内側の水には水溶性の物質、脂質二重膜の部分には脂溶性の物質を封入することができます。わたしたちはリポソーム脂質二重膜中にtrans-スチルベンという分子を封入し、そのけい光寿命と回転緩和時間を測定しています。これらの結果から、リポソーム脂質二重膜中の粘度を見積もっています。[1]
図1 実験内容の概念図。リポソーム脂質二重膜中にtrans-スチルベンを封入し、そのけい光をピコ秒時間分解けい光分光計を用いて測定した。

 スチルベンのけい光減衰曲線は、有機溶媒中では単一指数関数でよく近似されます。しかし、脂質二重膜中では二重指数関数でよく近似されました。わたしたちはこの結果から、リポソーム脂質二重膜中には二種類の異なる環境が存在すると推測しました。測定したけい光寿命から、スチルベンのtranscis 光異性化反応の速度を求めることができます。アルカン、アルコール中での光異性化反応の速度と溶媒の粘度の間には相関があることが知られています。[2][3] 既知の相関を用いて、けい光寿命から算出した光異性化反応速度の値から脂質二重膜中におけるスチルベン分子近傍の粘度を見積もりました。その結果リポソーム脂質二重膜中には、アルカン程度の粘度をもつ粘度の小さな環境と、その数十から数百倍の粘度をもつ粘度の大きな環境の二種類が存在することが示唆されました。
図2 リポソーム脂質二重膜中でのtrans-スチルベンのけい光減衰曲線および溶媒の粘度とtrans-スチルベンの光異性化反応速度定数の相関。(a) Egg-PC (卵黄由来ホスファチジルコリン) リポソーム脂質二重膜中におけるけい光減衰曲線。赤線が測定値、黒線が単一指数関数による近似曲線、青線が二重指数関数による近似曲線を示す。 (b) アルカン、アルコール中でのtrans-スチルベンの光異性化速度定数 kiso と溶媒の粘度の相関。赤線がアルカン中における相関、青線がアルコール中における相関を示す。図中の数字は溶媒分子の炭素数を表す。けい光寿命から算出したkiso の値を用いて見積もられた粘度を矢印で示した。

 けい光異方性減衰曲線の測定からも、脂質二重膜中の粘度を見積もることができます。この測定から脂質二重膜中でのスチルベン分子の回転緩和時間を求め、求めた回転緩和時間の値からStokes-Einstein-Debye モデルを用いて膜中の粘度を見積もりました。けい光異方性減衰曲線は二重指数関数でよく近似され、膜中における二種類の環境の存在を支持する結果が得られました。回転緩和時間からの膜中の粘度を見積もった結果、ここからも脂質二重膜中には粘度が数十倍異なる二種類の環境が存在することが示唆されました。

【参考文献】
[1] Y. Nojima, K. Iwata, Chem. Asian J., 2011, 6, 1817.
[2] S. K. Kim, H. Courtney, G. R. Fleming, Chem. Phys. Lett., 1989, 159, 543.
[3] S. H. Courtney, S. K. Kim, S. Canonica, G. R. Fleming, J. Chem. Soc. Faraday Trans. 2, 1986, 82, 2065.

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