第六十一回物理学会年次大会(2006 年 3 月)シンポジウム「『ニセ科学』とどう向き合っていくか?」概要
池内了(早稲田大)
そこで非合理な仕打ちに非合理をもって対するというわけで、怪しげな宗教や疑似科学のご託宣に頼っていくことになる。血液型や星占いなどのたわいもない遊びから財産の喪失や人殺しまで、さまざまなレベルがあるが、人間社会に存在する非合理を一気に解決するかに見えるのが疑似科学の特性なのである。このような心のゆらぎは、時代が大きく変化するときと時代が閉塞して身動きができないと感じられるとき、特に大きく増幅され疑似科学が横行した。時代が持つ文化的・社会的背景とは無縁ではないのである。
では、現代はいかなる時代なのだろうか。消費文明は爛熟してはいるが、環境問題などを考えると、このままずっと続くとは思えない。といって輝かしい未来を構想できる状況でもない。一種の閉塞の時代なのである。さらに、個の自立が言われながら情報過多の中で「お任せ」体質が血肉化し(観客民主主義)、自らの頭で決定する習慣を失っている時代とも言えよう。また、時間が加速され、てっとり早く答を求めて安心したいという風潮も強い(能率優先主義)。科学への依存と憎悪というアンビバレンスな感情もあるだろう。疑似科学は、自分の頭で考えなくてもすぐにご託宣を与えてくれるし、科学を超克するらしい雰囲気にしてくれるのだ。
それだけではなく、現代社会には非合理性(戦争、テロ、飢餓、核兵器、南北問題、環境問題など)が溢れ、非理性的・非合理的生き方(政治や官僚の腐敗、弱肉強食の企業社会、勝ち組と負け組の大きな格差など)が罷り通っているが、それに対して大人社会は声を挙げることもなく従順に従っている。社会に認知されている疑似科学(サイコセラピー、自己啓発セミナー、文部科学省の心の教育など)も大きな顔をして蔓延っている。大人達は現代の非合理になす術もなく流されているように見えるのだ。それに対して抗議をしようなんて誰も考えていない、そう若者達が考えるのも無理ないことと言えるかもしれない。
疑似科学とは、実証も反証もできないことを、あたかも明示された真実であるかのように見せつける、あるいは科学であるかのように装うが立証責任を放棄(転嫁)してただ信じることを強制するという特徴がある。自分の頭で考えず、てっとり早く答を得たい現代人によくフィットする。「遊び」であると許容しているうちに、信じ込んで抜き差しならない犯罪に巻き込まれてしまいかねない。何より、自らが決定する習慣を失って付和雷同的になり、ファシズムの温床になる危険性がある。疑似科学を侮ってはならないのだ。 しかし、社会が閉塞しているかのように感じられ、対決するのではなく逃避することが常態となっている現代において、疑似科学が廃れることはないだろう。社会が産み出す必然の膿とも言えるからだ。
では、どうすればいいのだろう。私は、基本的には「教育」しかないと思っている。すべてのものをまず疑ってかかるという懐疑的精神と筋の通った解釈を求め続ける合理的精神を養うことである。他人の言うことをすぐ信じるのではなく自らの頭で考えることを習慣とし、答がわからなければペンディングにしておく勇気を養うことなのだ。そのために、小学や中学で疑似科学を題材とした学習の機会を作るべきだろう。また、心ある科学者は、バカな奴が陥るバカな所業として放っておかず、懐疑主義を広めるのに力を尽くすことが必要ではないかと思っている。
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