これらの動きの中心になっているのは、IHM の設立者(現在は、会長)の江本勝(えもとまさる)氏のようです。 江本氏は、単行本「水は答えを知っている」の著者でもあります。
水の結晶写真を撮るために私が行っている具体的方法はこうです。 水を一種類ずつ五十個のシャーレに落とします(最初の数年間は百のシャーレでした)。これをマイナス二〇℃以下の冷凍庫で三時間ほど凍らせます。そうすると、表面張力によって丸く盛り上がった氷の粒がシャーレの上にできあがります。直径が一ミリほどの小さな粒です。これを一つずつ、氷の盛り上がった突起の部分に光をあてて顕微鏡でのぞくと、結晶があらわれるのです。 もちろん、五十個全部に同じような結晶があらわれるわけではありません。まったく結晶をつくらないものもあります。これらの結晶の形を統計にとり、グラフにしてみると、明らかに似た結晶があらわれる水と、まったく結晶ができない水、あるいは、くずれた結晶しかできない水など、それぞれの水のもつ性質がわかるのです。(p.21)
こうして水の結晶の写真をとると、都会の水道水は結晶をつくらないけれど、自然の水は美しい結晶を作るのだといいます。 ところで、ここで「水の結晶」と呼んでいるのは、別に目新しいものではなく、ごく普通の「雪の結晶」です(「ちゃんと実験をして結晶の写真をとっているのだから、本当なんじゃないの?」についての詳しい説明のページをご覧ください)。
さらに、水に音楽を聴かせるという実験もあります。 そのときは、まず、ビーカーに入れた水に、スピーカーから流れる音楽を聴かせ、そのあとで、上と同じようにして結晶を観察するようです。 水を凍らせるとき、そして、結晶の実験をするときには、音楽は流れていないことに注意して下さい。 すると、美しいクラシック音楽を聴かせた水は美しい結晶をつくり、ヘビーメタルのやかましい曲を聴かせた水はばらばらに壊れた結晶しか作らなかったいいます(ヘビーメタルの場合、曲ではなく、歌詞が悪いのかも知れないという説明が付け加えてありますが)。
私は、クラシックも、ロックも、J ポップも好きな人なので、ヘビメタが失格と言われてしまうと、それだけで、「そんなこと、ないでしょ」と思ってしまいます。 いずれにせよ、音楽の性質のちがいを水がいったん記憶して、それで水の結晶の形が変わるはずはないのですが。
そして、いよいよ、ことばを見せる実験です。 このときは、ワープロで「ありがとう」「ばかやろう」などと印刷した紙を、ちゃんと水に文字が見える向きにして、水を入れた容器にはりつけておきます。 そして、そこから取り出した水を使って、上のような結晶の「実験」をします。 この場合も、水に文字を見せるのは一種の「前処理」だということに注意して下さい。 まず文字をみせ、そこから取り出した水を凍らせ、そして、それを使って結晶をつくります。 つまり、結晶成長の実験をしているのは、文字をみせてから三時間ほど後なのです。
このようにして行なった実験の結果とされるものについては、再び「水は答えを知っている」から引用しましょう。 なお、結晶の写真は、グーグルのイメージ検索(「ありがとう 水の結晶」でイメージ検索、「ばかやろう 水の結晶」でイメージ検索)で簡単にみつけられます。
この結果は、まさにおどろくべきものになりました。「ありがとう」という言葉を見せた水は明らかに、六角形のきれいな形の結晶をつくりました。それに対して「ばかやろう」の文字を見せた水は、ヘビーメタルの音楽と同じく、結晶がばらばらに砕け散ってしまいました。 同じように、「しようね」という語りかけの言葉を貼った水は形の整った結晶になり、「しなさい」のほうの水は、結晶をつくることができませんでした。 この実験が教えてくれることは、私たちが日常口にしている言葉がいかに大切か、ということです。よい言葉を発すれば、そのバイブレーションは物をよい性質に変えて行きます。しかし悪い言葉を投げかければ、どんなものでも破壊の方向へと導いてしまうのです。(p.24)私も言葉は大切だと思います。 でも、「ありがとう」はよくて、「ばかやろう」はダメだなどと、すぱっと分けて考えていいものなのでしょうか? 「ありがとう」だって、心を込めずに皮肉っぽく言えば、ものすごく悪い言葉になりますよね。 「ばかやろう」だって、(むかしの青春ドラマなんかによくありましたが)相手のことを心から心配して、立ち直らせるための「刺激の一発」として使えば、とてもよい効果をもつことだってあるでしょう(おすすめはしませんが)。
「しようね」がよくて、「しなさい」がダメというのは、もっと気に入りません。 強制しないで、やさしく自主的に行動させなさい、ということが言いたいのでしょう。 でも、子供を育てていれば実感することですが、場合によっては、「○○しなさい!」と強く叱ることこそが子供のためになるということもあります(余談ですが、とくに、子供がとても小さいころは、「あぶない!」という絶対禁止の言葉を、きちんと子供に教えておくべきです。 これは、人に教わって、私たちもそうしていました。 普通の「だめ」という言葉は、交渉次第では「いいよ」に変わることを子供は知っているわけです。 だから、「だめよ」とは違う言葉で、理屈抜きに危険なのだということを子供に伝える必要があるというわけです。 こういうのは、「いい言葉」か「悪い言葉」かなんていう以前に、愛する子供を危険から守るための、深い愛情に支えられた、「強い言葉」だと思います)。
要するに、大事なのは、言葉をかける相手のことを思いやっているかどうかという、心と愛情の問題なのだと思います。 同じことばであっても、ちゃんと愛情や思いやりをもって、相手のことを考えた上で使うかどうかで、よいことばにもなり、悪いことばにもなります。 それを、「○○は、よいことば、××はわるいことば」と割り切ってしまうのは、人の細やかな気持ちをないがしろにすることだと、私は思います。 考えすぎでしょうか?
と、つい熱くなってしまいますが、実際には、こういうことはどうでもよいのかもしれません。 これらの「実験結果」は、そのまま事実ではあり得ないからです。
「水からの伝言」を、いい話だと思う人も、(私が上で書いたように)いい話だと思わない人も、両方いるでしょう。 しかし、好きか嫌いかというのとはまったく別に、この話は、決して事実ではあり得ません。 それは、現代の科学をきちんと知っている私たち科学者が、断言できることです。
その一つの理由は、「水からの伝言」でおこなわれている「実験」が信頼できない、ということです。 この点については、「ちゃんと実験をして結晶の写真をとっているのだから、本当なんじゃないの?」についての詳しい説明のページに詳しい理由を書きましたので、そちらをご覧ください。
しかし、私たちが、これが事実ではあり得ないと断言できる、もっと強い理由があります。 それは、「水からの伝言」のお話は、これまで正しいことが(ほぼ)確実になっている科学の大部分と、まったく相容(あいい)れないということです。 この点については、「科学に「ぜったい」ということはないはずなのに、「水からの伝言」が本当でないと言い切れるの?」についての詳しい説明のページに詳しく書きました。 細かいことは、そちらをお読みいただくことにして、ここには、肝心なことだけを書いておきましょう。
簡単にいえば、「水からの伝言」のお話は、「科学の中の、とてもよくわかっている部分」とあまりにも相容れないので、これまでの歴史のなかでたくわえられてきた数多くの経験と照らし合わせて、どうしても真実とは考えられない、ということです。 たとえ話になりますが、気象衛星が地球のまわりをまわる時代になって、「大地は実は平らな板で、大きな亀が大地を下から支えているのだ」という話がでてきたら、どうでしょう? 「はいはい、気象衛星も正しいけど、その亀の考えも正しいです」というわけには、いきませんよね。 人工衛星を打ち上げるのに使っている物理や天文の知識と、「大地を支える亀説」は、まったく相容れません。 もし亀の考えが正しいのだとしたら、これまで人工衛星を打ち上げる際に使っていた知識は、とんでもない大勘違いということになってしまいます。 だとしたら、そもそも、なんで大勘違いをしながら衛星があがって写真を送ってくるのかも謎だし、要するに、まったく何が何だか、わからなくなるでしょう。
「水が言葉の影響を受けて、結晶の形が変わる」というのは、「物の世界」の科学にとっては、「大地が亀に乗っている」というのと同じくらい、相容れない、むちゃくちゃな話だということです。
そんな、ものすごい(もし本当なら、人類の歴史の中で最大の革命になるような)結論を信じるには、ものすごくしっかりとした証拠がいるでしょう。 「水からの伝言」の「実験」では、もちろん、まったく不十分です。
というわけですから、タイトルに書いたとおり、「水からの伝言」は、「まだ科学で解明できないこと」ではありません。「今の科学で、まちがっていると断言できるもの」なのです。
関連する話題について、「「水からの伝言」が事実でないというためには、実験で確かめなくてはいけないのでは?」につての詳しい説明のページもご覧ください。
では、言葉を紙に書いて水に見せても結晶が変化するというのは、どのように解釈したらよいのでしょうか。書かれた文字自体にその形が発する固有の振動があり、水は文字のもっている固有の振動を感じることができると考えられます。 水はこの世界にあるすべての振動を忠実に写しとって、私たちに目に見える形に変えてくれます。水に文字を見せると、水はそれを振動ととらえ、そのイメージを具体的に表現するのです。(p.73)科学の用語にも、「波動」や「振動」という言葉はあります。 さまざまな状況で使われる言葉ですが、きちんとした意味をもった言葉です。 言うまでもないでしょうが、上に引用した説明のような「水からの伝言」に登場する「波動」や「振動」とは、関係ありません。
もちろん、科学者は、言葉の使い方を決める係でも何でもないので、一般の人が「波動」という言葉をどういう意味で使っても、別に、文句を言う必要はありません。 「水からの伝言」に登場する「波動」は、「色々な物から出ていて、他の物に、色々な影響を与える不思議な何物か」という感じの意味のものだと思います。 そういう「不思議な何か」が、あるのか、ないのかについて、一般的に断言することはできませんが、いずれにせよ、それは科学でいう「波動」とはぜんぜん別のものだということです。
ですから、「波動」という言葉の出てくる説明を見ても、別に、科学的な説明がついているのだとは考えないようにしてください。 水は答えを知っている」などを読んでいると、いっけんすると科学風の説明と、「不思議な何か」についての「お話」が、入り交じって出てくるような印象をもちます。 うっかりして読んでいると、「お話」の方まで、本当の科学だと思ってしまう人もいるかも知れませんので、そこは注意がいると思います。
もう少し、「水は答えを知っている」からの引用を見ておきましょう。
すべての存在はバイブレーションです。森羅万象は振動しており、それぞれが固有の周波数を発し、独特の波動をもっています。(p.67)このような書き方は、科学っぽいとも言えますが、それでも、「バイブレーション」とか「周波数」とか「波動」という言葉を、独自のやり方で使っていると見ることもできます。 ところが、この先を読むと、次のような説明も出てきます。
しかし、いま量子力学などの科学の世界では、物質とは本来、振動にすぎないということが常識になっています。物を細かく分けていくと、すべては粒であり、波でもある、という不可解な世界に入っていくのです。(p.68)量子力学というのは物理学の基礎理論の一つです。 それに、ここでは「科学の世界では」と断っているわけですから、科学者の言うのと同じ「量子力学」のことを語っているはずです。 少なくとも、この部分を読む人が、そう考えるのが自然だろうと思います。 たしかに、量子力学の一般向けの解説には、上の引用に似た説明が出てくることがあります。 ただし、この引用部分の書き方は、量子力学を知っている立場からすると、かなり話が混乱しているなあと思います。 しかし、そんなことは、実はどうでもよいのです。 本当に困ったことは、こういう量子力学の話と、「万物はバイブレーション」とか「水は振動をとらえてイメージとして見せる」といった話が、まったく、どんな意味でも、つながらない、ということです。 量子力学でいうところの「波動」と「水からの伝言」の「波動」には、何の関係もないのです。
「水は答えは知っている」には、こういう風に、本当の科学の話題と、「不思議な何か」の話を、いっしょくたに出しているところが、いくつか、あるようです。 たとえば、 p.110 では、音が波であることを利用して、騒音を遮断するのでなく打ち消してしまう技術の話がでてきます。 (波のことをご存知の方へ:つまり、もとの音の波とは、ちょうど逆位相の音波を人工的に発生させ、もとの音波と合成することで、騒音を軽減するということです。) これは、実際に研究され、部分的には応用されている、本当の技術の話です。 ところが、そこから、たちまち飛躍して、
人間の感情も同じことがいえます。ネガティブな感情には、それと反対のポジティブな感情があるのです。次のような二つの感情が、正反対の波形をもちあわせているのです。恨み--感謝、怒り--やさしさ、恐怖--勇気、不安--安心、いらいら--落ち着き、プレッシャー--平常心(p.111)という風に、人間の感情の話になってしまうのです。 もちろん、たまたま似ていることを喩えに使っているというのなら、(実は、これは音波の科学を少し知っている人には、よい喩えでも何でもないのですが)かまいませんが、科学をよく知らない読者は、「人間の感情」の話も、最新の科学と関係していると思ってしまうのではないでしょうか?
これから書くのは、「水からの伝言」の考え方をよく表していると思える、江本氏の「水は答えを知っている」についての感想だと言ってもいいでしょう。 実は、より詳しい(そして、より堅い文章で、よりきつい調子の)批判的な感想文をしばらく前から別のところで公開しています。 興味のある方は、そちらもご覧ください。
「水は答えを知っている」は、現代は「カオスの時代」で、人々は誰もが疲れ切っているという嘆きから始まります。 そして、その嘆きに続いて、
だれもが、このアリ地獄のような世界の中で、救いを求めています。だれもが答えを求めているのです。その一言で世界が救われるような、シンプルで決定的な答えを、さがしつづけているのです。(p.11)と書いてあります。
今までの、長い長い人類の歴史のなかで、とても多くの人たちが、すべてを一言で解決してしまうような「魔法の答え」を探し求めてきたというのは、本当でしょう。 私だって、そういうのがあって、世界の人々が幸せになれるなら、すばらしいだろうなあと思います。
しかし、その長い長い歴史の中で、私たちの祖先が学んだのは、けっきょくは、ものごとをあっさりと解決して、みんなを幸せにするような、簡単な「答え」なんてないんだっていうことだったのではないでしょうか? 宗教や哲学や文学や、いろいろなことを試した結果わかったことは、人が本当に幸せになるためには、簡単な「答え」などに頼っていてはダメで、世界を少しでもよくしていこうと、一人一人が一生懸命に地道に努力するしかない、ということだったのではないでしょうか? あるいは、それこそが「答え」なのではないかと私は思っています。
もちろん、何をどう努力すれば、人々の幸せにつながるかというのも、とてもとても難しい問題です。 私たちは、まわりの世界のことを、謙虚(けんきょ)にじっくりと学びながら、自分にできることを見きわめ、つねに考えながら、反省と努力を続けるしかないのだろうと思います。
しかし、江本氏の考えは違うのです。 上の文章の先には、次のように書いてあります。
私は、ここで、それを提示したいと思っています。それは、人間の体は平均すると七〇%が水である、ということです。(p.12)この文章の「それ」は、正確にいうと、直前の文の「地球上に住むどんな人にも適用でき、だれもが納得する、そしてこの世界をシンプルに説明することができる、たった一つの答え(p.12)」のことなのですが、基本的には、上の引用での「その一言」「シンプルで決定的な答え」と同じものと思っていいでしょう。
つまり、江本氏はシンプルな答えがあるというのです。 しかも、それは、人間の体が水でできているという、とても即物的(そくぶつてき)な事実なのです。 言ってみれば、成分分析です。 なぜ、成分を分析することで、「世界を救う」ことができるのでしょう?
私は、単純でロマンチックな性質らしく、「人間というのは、すばらしいものだ」と、すなおに思っています。 もちろん、人間には困った面もいっぱいあります。 でも、互いを愛し合う心、芸術や文化を生み出す精神の活動などは、本当にすばらしいものだと思います。 そういう人間のすばらしさが、どこから来るのか、本当のところは、わかりません。 おそらくは、人間のすばらしさは、複雑で精妙(せいみょう)な人の「心」から来るのだろうと私は思っています。
「心」というのは、長い長い進化のプロセスの中で、人がまわりの世界や人どうしと関わり合う中で生まれてきたのでしょう。 あるいは、神様を信じている人なら、神様に授けられたと考えるのでしょうね。 いずれにせよ、人の「心」の複雑さ、すばらしさは、「主成分が水だ」といった単純な理由で説明できてしまうものでは、ないはずです。
江本氏は、
あふれんばかりの愛と感謝で世界を包みましょう。それは、すばらしい「形の場」となって、世界を変えていきます。(p.142)と書きます。 「形の場」というのは、よくわかりませんが、水を見て、私たちのまわりの世界をみて、愛と感謝の気持ちを抱きながら生きていくのは、素敵なことだと思います。 そうやって、私たちがこの世界に生きている不思議を噛みしめるのは、生きていく上で大切なことでしょう。
しかし、それは、「水の結晶が言葉の波動の影響を受ける」なんていう話とは、ぜんぜん関係のないことなのです。 すでに説明してきたように、水が言葉の影響を受けて結晶の形を変えることは、あり得ません。 だからといって、私たちの心のすばらしさには、何の変わりもないのです。 「愛と感謝」をもって生きることの大切さにも変わりはありません。
江本氏の「愛と感謝」のメッセージに感銘を受けて共感された方も、少なからず、いらっしゃると思います。 もちろん、そういう共感は、素敵で、大切にしてほしいと思います。 そして、そういう方にわかっていただきたいのは、「愛と感謝」のメッセージと、「水が言葉の影響を受ける」という「お話」には、別につながりはない、ということです。 私たちの生き方についての素敵なメッセージを大切にし、他の人にも広めたいと思われるなら、「水からの伝言」という、本当ではあり得ない「お話」とくっつけて考えるのは、やめた方がいいだろうと思います。 人の心へのすばらしいメッセージは、「水からの伝言」のお話などがなくても、いえ、そんなお話などない方が、かえって、他の人の心にきちんと届くだろうと私は確信しています。
このページの執筆者:田崎晴明