諏訪春雄通信 34


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 4月16日(火曜日)、京都瓜生山の京都造形芸術大学の特別講義に出て「日本の伝統芸能―六つの視点―」というテーマの講演をしてきました。

 今年度、私は国内研修という制度により学習院大學の講義をもっていません。したがって他大学の講義も原則としてもつことはできませんが、以前からの約束でキャンセル不可能な講演会や研究会などには「学習院の広報活動」という勝手な理屈をつけて出さしてもらっています。

 京都造形芸術大學は春秋座という950名収容のすばらしい多目的劇場を建てました。そこの芸術監督をつとめているのが、同大學の副学長市川猿之助さんです。しかし、実際の運営責任者の立場にあるのは、私の教え子で同大学助教授の田口章子さんです。

 一般社会人と学生を対象として1年間にわたって日本芸能に関する実技と理論を講義するという企画は彼女が立てたもので、私はその第一回の総論をつとめたのです。この企画のヒントは私が学習院大學ではじめた総合基礎科目「日本の伝統芸能」ですが、講師の顔触れには圧倒されました。

雅楽(芝祐清)  能(観世栄夫)  狂言(茂山千三郎)  民俗芸能(梅原猛)  平曲(上原まり)  京舞(井上八千代)   文楽(竹本綱大夫)  歌舞伎(市川猿之助)  日本舞踊(藤間紫)

など、日本を代表する人間国宝クラスの名がずらりとならんでいます。私は、比較的スケジュールの自由が利く自分の教え子を数人講師にくわえることによって、舞台人や役者の学習院大学の講義日程を調整しました。そうした方法をとれない田口さんのコーディネーターの能力に脱帽です。

「日本の伝統芸能―六つの視点―」で私はつぎの6項目の話をしました。

  1. 芸能には神と人が同居する
  2. シャーマニズムは芸能の母である
  3. 伝統芸能は日本固有ではない
  4. 直面・仮面・人形の三種は信仰の種類と段階を示す
  5. 型の精神には人類の可能性がある
  6. 伝統芸能を通して多神教的思考法へ

 私がこれらの話をとおして強調したかったことは、「動植物までもふくめた異質なものへの寛容」「自分をつつむ大きな世界との調和」という二つの精神がゆきわたっている伝統芸能は、ゆきつまった現代世界を救済する可能性をもつ、ということでした。

 京都在住の文楽の大夫さんと結婚している、やはり学習院の卒業生で田口さんの後輩の森谷裕美子さんも聴きにきていましたので、終了後、三人で夕食をともにしました。「食は京都」という田口さんの怪気炎がたしかに納得される吉兆の味でした。


 本来の王権の問題にもどり、今回は「女帝」についてかんがえます。「皇室典範」によって明治以降、日本では女子が皇位につくことはできなくなりました。女帝論争がジャーナリズムをしばしばにぎわしているのはそのためですが、明治以前の歴史の上でも日本の天皇制の重要な課題です。

 初代の神武天皇から124代の昭和天皇まで、「皇統譜」に記載のある124人の天皇のうち、女帝は10代をかぞえますが、再度即位した女帝が2名いますので、実際の女帝は8名だけです。その出現の状況はつぎのようになります。

7世紀 3名   8世紀 3名   17世紀 1名   18世紀 1名

 日本の歴史20世紀のあいだで、4世紀にだけあらわれて、ほかの16世紀には出現していません。古代の6名の女帝の本質については、巫女王説中継ぎ説の二つがあります。

 巫女王説というのは、折口信夫(「女帝考」)、上田正昭(『日本の女帝』)などの各氏がとなえている説です。多少のニュアンスの違いはあっても神の啓示に耳をかたむけて政治の方向を決定してゆく聖なる巫女的統治者とかんがえる点で一致しています。

 中継ぎ説は、井上光貞(「古代の女帝」『日本古代国家の研究』)、小林敏男(『古代女帝の時代』)、荒木敏夫(『日本古代の皇太子』)、水野祐(「古代女帝の謎」『日本の女帝』)などの各氏が提唱している論です。皇位継承上の困難な事情のあるときに、中継ぎとして先帝または前帝の皇后が即位する慣行があったとします。

 両説とも、具体的な論旨の運びは、しかし、段階を区分したり、王権構造の質的変化を考慮したりして、単純に一つの性格や本質に終始しているわけではありません。それぞれの代表的な論を紹介しましょう。

 まず巫女王説では上田正昭氏の論をとりあげます。巫女から女帝へという展開をかんがえる上田氏は、女帝の歴史を三段階に区分します。卑弥呼・壱与・神功皇后・飯豊女王などの巫女王の時代、推古・皇極・斉明・持統の巫女王から女帝への中間段階の時代、元明・元正・孝謙・称徳の女帝の時代の三つです。

 この上田説を批判した小林敏男氏は、この通信30でふれたヒメ・ヒコ制に注目します。しかし、ヒメ・ヒコ制を男女二人の王とはとらえず、日本の王権や首長制をつらぬいて存在した聖と俗の二つの価値とかんがえます。そのようなヒメ・ヒコ制を前提に、(A)王・ヒメ制(B)大王・キサキ制(C)大王・オホキサキ(大后、先帝の后)の三段階をたどって王権は発展したと主張しました。

 A段階では、ヒメは霊能・呪力をもち王権を構成する一方の主体者で、王はヒメと聖婚することによってその神性を獲得できたとし、B段階をへてC段階に大王とともに共同統治の立場に立つようになったオホキサキの出現の延長上に女帝は登場したと位置づけました。

 通信32の遊女論でも指摘したように、一見きびしく対立しているようにみえる説も、子細に検討すると、相互排除よりも相互補完の関係にある場合が多いものです。

 上田説と小林説も一見対立しているようであって、じつは共通性もあり、相互補完の関係にあります。両者ともに、日本の女帝の歴史が、聖的状況を源流として俗的状況に推移したとみる点で、共通しています。ただその聖と俗の状況の表現方法に相違があります。

 上田氏は、聖→聖・俗→俗という三段階の推移を女帝中心に立論します。それにたいし小林氏は・俗→聖・俗→聖・の三段階の推移を男王とキサキをともに視野にいれた制度としてかんがえます。このばあいの太文字であらわした聖・俗はそれぞれ聖性と俗性の優越を意味しています。

 各種の女帝論を参照し、かつ私の独自な見解をまじえて留意すべき点をあげておきましょう。

  1. 日本の女帝は大きく聖優位から俗優位へとその性格を推移させた。
  2. 俗優位の状況を生むうえで大きな要因となったのは持統天皇時代における皇太子制の成立であった。
  3. 皇太子制の成立以前の女帝は聖性が優位し、成立以降は中継ぎとしての性格をもつようになる。
  4. 8世紀以降に女帝がきえていった重要な要因は、後継者育成制度としての後宮の成立と仏教の浸透であった。

 これらについては、また別の機会にくわしくかんがえます。

 今回はこの辺で失礼します。


諏訪春雄通信 TOPへ戻る

TOPへ戻る