諏訪春雄通信 37


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 今回は「後宮と宦官(かんがん)」というテーマについてかんがえます。かんたんにいえば、古代の日本が中国の影響下で律令制度をととのえていったときに、後宮制度はとりいれながら、なぜ宦官制度だけはとりいれなかったのか、という日本古代史上最大の謎の一つに挑戦してみようということです。

 知識を整理してみます。後宮はふつうつぎのように説明されます。

 天皇のキサキの称。また、キサキや天皇に奉仕する宮人の居住空間(内裏内の殿舎)をもさす。律令制以前の後宮勤仕者貢進制度としては采女や氏女、キサキの制度としては六世紀末より成立した大后制が注目される。唐制を模した律令制的後宮の導入は、天武朝頃より準備され、大宝・養老令で完成した(『日本歴史大事典』小学館)。

 説明はまだながくつづきますが、大体の概念はこれで得ることができます。采女については、通信31でのべました。地方の豪族がヤマト朝廷への服属のあかしとして、姉妹、娘などをさしだした制度です。律令制度成立以前から存在していたこのような女子貢進制度の基盤のうえに、中国から伝来した唐代律令制の規定がはたらきかけて、日本の後宮制度は完成したという趣旨です。

 宦官はふつうの日本歴史事典の類には立項されていません。制度としては存在しなかったからです。『日本国語大辞典』から引用します。

 中国で、貴族や宮廷の後宮に仕える去勢された男子。元来は宮刑に処せられた者を用いたが、王侯の側近となるため、去勢を志願する者もでた。西アジア、ローマ、ギリシアなどにもみられる。

 ここでいう宮刑は、古代中国の刑の一つで、男女とも生殖能力をうばってしまうことです。性器切断、または卵巣摘出をおこないます。のちには去勢志願者もでたというからおどろきです。君主の後継者を養育する後宮にあって、血筋の混乱をさけるために、去勢した男性を使用人とし、その男性を宦官とよびました。宦は仕えるという意味です。

 いま、私の手許に北京で購入してきた、劉達臨編著の『中国古代性文化』(寧夏人民出版社・1993年)という奇書があります。中国の性の歴史を有史以前から清代まで克明にたどったいささか際物的な、しかし、おおまじめな研究書です。一時期、きびしくとりしまられた中国のポルノや売春などの性風俗も最近の解放政策下でかなり自由となり、性をあつかった書物の出版もさかんになりました。

 地方の公園で、「衛生博覧会」などといういわくありげな看板の出ている展示会場にはいってみると、あやしげなポルノ写真がならべてあったなどという珍妙な経験をしたことがあります。

 『中国古代性文化』に「宦官と宮廷の性管理」という章題で、宦官の歴史が要領よくまとめられています。要点をのべます。

  1. 中国の宦官の歴史は甲骨文字によると紀元前14世紀の殷代にまでさかのぼる。
  2. 宦官の出現は、古代君主の内宮において多数の后妃のなかに去勢した男子を使用人としてはたらかせ、性交活動の混乱をさけるためであった。
  3. 宦官は階級社会の残忍、兇悪な制度であったが、のちには生計のためや野望のため、みずからのぞんで宦官になる者もでた。
  4. 宦官は本来正式の官吏ではなく政治に関与することはなかったが、一部宦官は、皇帝や皇后などを篭絡して、封建統治集団の権力闘争に大きな役割をはたした。
  5. 宦官は、中国の歴史で、帝王の生活を左右し、国家の命運を決定することさえあった。
  6. 宦官には忠賢の士もいたが、さらに多くは、悪逆、残虐、卑猥な小人や陰謀家で大乱のもとになった。

 かなり悪意にみちた見方ですが、中国の歴史で宦官が大きな役割をしめてきたことは否定できません。

 もう一種、『大漢和辞典』から引用してみましょう。

 宮中の官。去勢せられた男子で宮廷に使役せられた者。中国・朝鮮・安南・印度・波斯・希臘・羅馬等に行われ、特に中国に於ては周代に既に存し、寺人・閹人等と称して、宮中に使役せられ、女官の監督、宮中の雑役に使用せられ、諸侯以下の権勢家にも使用せられた。戦国時代、既に政治上の勢力を占め、後漢・唐・明の三代に於ては特に甚しく、常に禍乱の基となった。

 このように説明したあと、つづけて、歴代、宦官になる者にはつぎのA〜Dの4種があったとしています。

A)辺裔の俘虜(唐の高力士・明の王安即不花都・孟驥即添児など)

B)外国からの貢進者及び輸入奴隷(元の朴不花・明の陳蕪など)

C)特別の事情に因って宮刑に処せられた罪人(隋唐以後は宮刑を廃したが、遼・明・清は復活して、罪人の子孫の幼少な者に宮刑を加えて使役した)

D)自ら宮した者(志願者、及び親の命令で閹割せられた準自宮者。この種のものが最も多い)

 宦官の職務も、後宮の奉仕からしだいに多様化しています。中国近世史の専門家である川越泰博氏は大きく三つにわけて、各時代の発達した宦官の職務を説明しています(「宦官の職務 その様々なる日常」『月刊 しにか 特集宦官』2000年11月、大修館書店)。

内廷宦官 後宮での奉仕。衣食住の管理、冠婚葬祭の進行、器物・資材倉庫の管理、宮廷各門の開閉など。

在京宦官 宮廷をでての諜報活動、天子護衛軍隊の統率など。

在外宦官 地方駐在の宦官。皇帝のための各種資材調達、税の徴収、地方軍の指揮・監督など。

 このようにみてきますと、内政、外政、軍政のあらゆる分野で、皇帝の権威を笠に着て跋扈していたのですから、中国の歴史は宦官ぬきにかたれないといわれているのも、納得がゆきます。

 中国の律令制を手本にし、まさに明治日本がヨーロッパ近代を各方面にとりいれたように、中国文化を貪婪に吸収して国家体制をととえた奈良・平安の日本が、なぜ宦官制度をとりいれなかったのでしょうか。この問いには、日本の王権の本質を解明する手掛りがあります。

 しかも、『漢和大辞典』がいうように、 中国朝鮮安南(ベトナム)にまでこの制度はおこなわれていたのに、日本にはつたわっていません。日本の王権だけではなく、日本文化そのものの本質をかんがえる重要な鍵といってよいでしょう。

 宦官は去勢された男性です。去勢とはなんでしょうか。このことばに謎を解く手掛りが秘められています。また知識を整理しておきましょう。『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)に手際よく説明されています。引用が多いようですが、私の不得意な分野ですのでやむをえません。ここでも辞典の助けを借ります。

 主として家畜の雄の睾丸を除去・挫滅することにより雄性ホルモンの分泌を押さえ、肉質・肥育性を向上させる技術。またヒツジ、馬、牛などの群居性有蹄類の性情を従順にする管理技術として、去勢は遊牧・牧畜社会において発達してきた。東アジア農耕社会においても早くから去勢は行われてきたが、日本では、明治以降の西洋家畜技術の導入まで去勢を行っておらず、日本家畜分化史の大きな特徴となっている。

 この説明のなかで、日本では、明治時代まで去勢をおこなっていないという部分はみとめられません。江戸時代の中期に刊行された百科事典の『和漢三才図会』などには去勢の記事がでてきますので、それ以前に日本人は去勢の方法を知っていたはずです。

 源平合戦に登場してきた騎馬軍団の馬は去勢されていなければ、あれだけ整然と集団行動はとれなかったとおもわれます。とすると、日本人が去勢技術を知ったのは、平安時代末くらいまではさかのぼりますが、さらにそれよりまえに日本人が去勢を知っていた可能性はすくないとおもいます。

 江上波夫氏の騎馬民族渡来説にたいする有力な反対意見の一つに去勢を根拠とする佐原真氏の論があります。もし騎馬軍団が日本にきて王朝を建設していたのなら、日本人ははもっとはやくから去勢の方法を知っていたはずだという主張です(『騎馬民族は来た!?来ない!?』小学館・1996年)。

 くわえて、日本人が宦官制度を拒絶したということも、騎馬民族渡来説にたいする有力な反論になるでしょう。

 いずれにしても、たいせつな視点は、去勢が遊牧・牧畜民社会の家畜飼育にはじまったという事実です。動物を去勢すると、野性をうしなって家畜化する。その方法を人間に応用して宦官が誕生しました。宦官は人間の家畜化です。

 宦官は、第一段階として遊牧・牧畜民社会にはじまり、第二段階として強力な帝国を形成した農耕民社会にその制度がひろまっていきました。

 朝鮮やベトナムに宦官制度がとりいれられたのは、この第二段階でした。

 問題は日本です。日本も第二段階にぞくしますので、宦官制度をとりいれてもおかしくありません。にもかかわらず、日本人は宦官を拒否しました。これはなぜでしょうか。

 日本人が、宦官を忌避したのは、日本の王権の中枢を形成した信仰が太陽=稲魂=女神だったからです。

 ここでいくつか整理しておかなければならないことがあります。

  1. 強大王権が交替をくりかえしたのは中国黄河流域であり、そこでは天の信仰がさかんであった。それにたいして、弱小王権が交替した長江流域では太陽の信仰がさかんであった。
  2. 黄河流域では、狩猟・牧畜・畑作農耕がながくおこなわれたのにたいし、長江流域ではながく稲作農耕がおこなわれた。
  3. 宦官制度を採用した中国の王権は、黄河流域の巨大王権であって、長江流域の弱小王権ではない。
  4. 黄河流域の巨大国家が宦官制度を採用したのは、国家体制にくみこんだ牧畜民の習俗をうけいれたからである。
  5. 日本の古代王権は中国長江流域の弱小王権の影響下に、太陽の信仰と稲作農耕を建国の精神とし、牧畜民の習俗である去勢や宦官をうけいれることはなかった。
  6. 朝鮮やベトナムが去勢習俗や宦官制度をはやくからうけいれたのは、国家をささえた牧畜民族の習俗の基盤のうえに、黄河流域の巨大王権の影響をうけいれたからである。

 この六か条のうち、1,2は、この通信のはじめの方でくりかえし、説明してきました。ここでは3以下に補足の説明をくわえておきます。

 まず3と4です。さきに『中国古代性文化』の記載によって、中国の甲骨文字であきらかになる宦官の存在は紀元前14世紀の殷代であるとのべました。甲骨文字はさらにその宦官は羌人であったとしるしています。羌人は殷の西方に居住していた異民族であり、チベット族とされています。

 また、『大漢和辞典』によって、宦官を構成したA〜Dの4種の人たちをあげました。Aは辺裔の俘虜であり、Bは外国からの貢進者及び輸入奴隷でした。かんたんにいえば異民族の捕虜や奴隷だったのです。

 漢民族中心の巨大国家はつねに周辺牧畜民を支配圏にくみこんできました。それが中国北方の王権の歴史でした。そのときに、奴隷として王権内部に収容された人々が、彼らの習俗にしたがって去勢され宦官として採用されました。それが宦官のはじまりでした。

 5と6について補足します。日本の古代には牧畜民はいません。したがって去勢をうけいれる素地が本来ありません。しかも牧畜異民族の奴隷を王権の中枢部に収容した歴史もありません。この点は、牧畜異民族が国家の形成にかかわった朝鮮などと本質的にちがいます。

 さらにたいせつなことがあります。日本の王権をささえた太陽=稲魂=女神の信仰が去勢をこばんだのです。この3種がシャーマニズムの憑霊型にささえられて人間と神との合一を強調する信仰であるのにたいし、天の信仰はシャーマニズムの脱魂型にささえられて神と人の隔絶をおしえます。このことについては、通信の14でのべました。

 去勢は男女の性差を人為的に排除して、無化された人間つまりは神の完全さに、人間の側から近づこうとする、隔絶された神と人との距離を自発的に埋めようとする試みです。人間がそのままで神と交流する合一型の信仰がうけいれることのできない観念なのです。

 日本の後宮は中国の制度をうけいれたものと説明されています。そのことはまちがっていません。しかし、日本の後宮の本質は中国の後宮とはちがいます。この点が理解されますと、宦官を排除した理由ももっと完全に納得がゆきます。次回は後宮に焦点をあててさらにこのテーマを追いかけてみます。

 今回はこの辺で失礼します。


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