諏訪春雄通信 43
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今回のテーマは「律令の日本化」です。7世紀後半から8世紀前半にかけて、日本が国家体制をととのえていったときに、中国の隋唐の律令を手本に、幾度か日本の律令の編集がおこなわれました。この時代に編纂された飛鳥浄御原、大宝、養老の各律令を検討することによって、当時の日本の本質がみえてくるはずです。
しかし、このような問題意識=日中律令制比較研究は古代史の研究者ならだれもが想定する必須の課題ですから、江戸時代にはじまって現代まで、じつに多くの研究者がこの問題にとりくみ、膨大な量の論考が発表されています。
古代史学者の武光誠氏(明治学院大學助教授)は、その膨大な研究の動向をつぎの三つにわけて整理しています(『律令制成立過程の研究』雄山閣出版・1998年)。
「第一に、日中律令の相違が、どのような政治権力の違い(中国の皇帝と貴族との関係と、日本の天皇と貴族との関係の違い)を反映しているかという問題。第二に、日本律令の中の中国の原形と異質な側面を探ることから、中国律令と日本の固有法との交渉がどのように行われたかという問題。第三に、日本律令の成立過程の考察を通して、中国律令が、どのような過程で日本に受け入れられたかの問題である」
この3種は、これまでの日中律令制比較研究に従事した多くの研究者の論考を整理したものですが、私の関心をもつ方向はこの三つのなかにはふくまれていません。ということは、私の視点がまったく独自のものであって、これまでおなじテーマをおもいついた研究者がいなかったということになります。
私の志向する研究テーマをまとめればつぎのようになります。
「日本律令と中国律令の同質性は中国の北方原理に由来し、異質性は中国の南方原理に由来している」
このような提言がなにを意味するのか、通常の古代史研究者には理解の範囲をこえますが、この通信の読者なら納得がゆくはずです。
武光氏の整理された第二の研究動向に注目してください。日本律令を中国律令と比較したときに、同質の側面と異質の側面があることは、これまで多くの研究者が指摘してきました。しかし、日本の古代史の研究者はつぎの二つの視点を欠いています。
T 中国文化を北方と南方にわけ隋唐帝国によって制定された中国律令を北方原理の表現としてとらえる視点
U 日本の固有とみられる特質はじつは中国の南方原理に由来するという視点
以上の二つの視点を欠いて、日本律令と中国律令を比較したとき、その結果は、武光氏整理の第二の研究動向となり、二つの視点を考慮して、両国律令の比較検討の成果をまとめれば、私が整理した研究テーマとなるのです。
これまで幾回か予告しながらのばしのばししてきました陰陽道を例にとって具体的に説明しましょう。
安倍晴明を中心とした陰陽道については、私の著書『安倍晴明伝説』から敷衍して、通信42でかなりくわしくのべました。陰陽道は中国から伝来しましたが、陰陽道そのものも、名称じたいも中国にはありません。中国で陰陽五行思想にもとづいて生まれた方術(不老長生術)、風水説(立地判断)、密教(加持祈祷)、宿曜(天文学)、呪禁(医術)という5種の科学・呪術複合体を総合して日本で生まれました。
同様に陰陽道を管理した陰陽寮にあたる組織も名称も中国にはありません。陰陽道ははじめ陰陽寮という国家の役所が独占していました。その陰陽寮についてのくわしい規定は養老令(刑罰法としての律にたいし令は行政法です)のうちの職員令にみられます。
陰陽寮の構成は、事務官としての頭1名、助1名、允1名、大属1名、小属1名の四等官がおかれ、また技官として陰陽師6名、漏刻博士2名、技官兼教官には陰陽博士1名、暦博士1名、天文博士1名が、それぞれ陰陽生、暦生、天文生各10名をおしえていました。ほかに下級技官である守辰丁20名、下級事務官である使部20名、直丁3名がおかれ、全体として89名の人員を擁していました。
さらに地方の大宰府、出羽、陸奥、武蔵、下総、常陸にも陰陽師各1名がおかれていました。
この日本の陰陽寮の制度は中国の唐の制度にならったものですが、両者のあいだには注目される違いがあります。
唐の制度では、秘書省の下部組織として暦・天文・漏刻の3部門をあつかった太史局があり、太常寺の下部組織に卜占と方術をつかさどった太卜署が存在しました。唐では、別々の指揮系統に配属されていた二つの役所を日本では統合して、あたらしく陰陽寮という役所をつくったのです。
この唐の制度と日本の陰陽寮の違いについて、これまでの研究者はどのように説明しているのでしょうか。その問題についてかんがえるまえに、中国の官庁制度をうけついだ当時の日本の官庁組織全体の動向をみきわめておきましょう。
はやくこの官庁組織について基本的な研究成果をうちだした中田薫氏は、日本の律令官制は、手本とした唐の政務の方式をそのまままねてつくられたのではなく、日本の国情にあった政務を機能的におこなうために、かなり周到にかんがえてつくりあげられたものであったと指摘しています(「養老令官制の研究」1937年、のち『法制史論集三』岩波書店、1943年)。
唐の官庁組織は、文書をあつかう上級機関としての尚書六部と実務をあつかう下部機関である九寺・五監にわかれています(巌耕望「唐代六部与九寺諸監之関係」『中央研究歴史語言研究集刊二四』1953年)。
日本の古代の官庁組織である太政官の八省は基本的には取捨選択をくわえながら唐の制度をうけつぎました。中田氏の研究をわかりやすく整理してしめすとつぎのようになります。
吏部→式部省 礼部→冶部省 戸部(民部)→民部省 兵部→兵部省
刑部→刑部省 太府寺→大蔵省 殿中省→宮内省 中書省→中務省
そして日本の八省の下にある職・寮・司は、中国の六部の下の二十四司や九寺・五監の職掌をかなり自由に取捨選択していました。
つまり、今日の日本の見せ掛けだけの省庁再編成とは違って、当時の日本は、国家体制にふさわしいように、スリム化、機能化して官庁組織をつくりあげていたのです。
その全体の結果については、相反する二つの評価が対立しています(武光誠氏前掲書参照)。
A
日本の貴族勢力の弱さを反映している。
井上光貞氏(「太政官成立過程における唐制と固有法との交渉」『前近代アジアの法と社会』勁草書房、1967年)や黛弘道氏(「中務省に関する一考察」『学習院大学文学部研究年報一八』1970年)の見解に代表されます。こうした説の根拠は、唐制では貴族勢力の力がつよく、皇帝の意思を貴族勢力が拘束し、規制をくわえる門下省という役所があったが、日本がそのような機関を継承しなかったのは日本の貴族勢力の力が弱かったからであるという点にあります。
B 日本の貴族勢力の強さを反映している。
石尾芳久氏(『日本古代の天皇制と太政官制度』法律文化社、1962年)、石母田正氏(『日本の古代国家』岩波書店、1971年)、早川庄八氏(「律令制と天皇」『史学雑誌八五−三』1976年)、青木和夫氏(「律令国家の権力構造」『岩波講座日本歴史古代三』岩波書店、1976年)などに代表される見解です。唐では各省の長官は皇帝の諮問機関にすぎず、皇帝の秘書局である中書省が皇帝の意向をつよくうけて政策を発案するのにたいし、日本では太政官の発案によって、国政のかなり重要な部分まで決定できたと主張しています。
このA、B二説のどちらに軍配をあげるべきか。それぞれの主張者が依拠している基本資料にまでたちいって、それらの再吟味をとおして判断をくだすことは、一見、正当な手続きのようですが、私には迂遠で効果のない方法とおもわれます。多くの論争がそうであるように結論の出ない泥試合になる危険が多分にあります。視点を変える必要があります。
通信5で、日本の天皇家が永続できた秘密にたいする解答として、これまで歴史学者や政治史学者が提出している見解を大きく三つに分類しました。
虚政あるいは中空構造
呪術的・神話的特性あるいは祭祀王
宗教性と政治性の交替あるいは政治力学
これらの3分類についてのくわしい説明は通信5でご覧ください。3者に共通していることは、実際政治は周辺にゆだねて天皇自身で執政されることはほとんどなかったという事実です。これが天皇制永続の秘密であったからには、そしてその判断は、これまでに天皇制を論じる学者たちの共通認識であったとすれば、答えはBしかありえません。
律令制形成期における日本の官庁組織の一般原則は貴族勢力の力の強さを反映していたということがあきらかになりました。陰陽寮が唐令の太史局と太卜署を統合して誕生したという事実もこの一般原則からはずれていないはずです。その前提のうえで、さらにこれまでの研究者が陰陽寮の成立についてどのように解釈しているかをみてみます。
はやく「陰陽寮成立以前」(『史淵八十二輯』九州史学会・1960年)という論文で、この問題を検討された仏教史学者の田村円澄氏は、「律令国家権力による陰陽道の独占掌握」という結論を出しています。陰陽道は卜占によって、権力者に都合のわるい風評を世の中に流布させることができます。それをさけるために卜占の技を陰陽寮に集中させ、国家権力が管理しやすいようにしたという見解です。
『日本陰陽道史総説』(塙書房・1981年)という名著を出した村山修一氏もおなじ見解です。陰陽寮が設立されたのは、壬申の乱後の天武朝でした。ことさらに人心の掌握を必要とした当時の政権が、陰陽道の独占をはかったという主張は田村氏と一致します。
さらに村山氏は唐と日本の職員数を比較しておもしろい結論をみちびきだしています。
「(1)陰陽関係では日本が17名に対し、唐は86名、(2)暦関係では日本が11名に対し、唐は44名、(3)天文の関係では日本が11名に対し、唐が157名、(4)漏刻関係では日本が22名に対し、唐843名で、これに日本では頭以下5人、唐では太史局の令以下10人、太卜署の令以下3人のそれぞれ統轄的部局が置かれ、全体を総計すると日本の66名に対し、唐は1043名となる」
「唐は実に日本の十七倍強の人員を擁する大機構であるが、内訳についていえば、陰陽関係は日本の約五倍、暦関係は四倍、天文関係は十四倍強、漏刻関係は三十八倍強となり、唐では、天文・漏刻関係に非常な重点がおかれていることがしられる」
このような人数の比較をとおして、日本は、天文、時刻などの科学的技術的側面でたちおくれていたために唐を模倣することが困難であり、施設をあまり必要としない実用的な卜占の分野でわが古来の神祇的作法とも一脈合い通じるところがあって、受け入れやすかったとのべています。
この村山氏のまとめはなかなか興味ぶかいものがあります。日本が時刻などの科学的技術的側面で唐に大きくたちおくれていたという指摘はそのとおりだとおもいます。しかし、天文については私はかなり異論があります。
当時の天文はけっしてたんなる科学技術の対象ではなくむしろ卜占の中心を占めていたという事実です。このことを立証する直接の資料が陰陽寮の規定です。
養老令のうちの職員令の規定によると、陰陽寮の頭について「天文、暦数、風雲の景色のこと、異なること有らば密封して奏聞せん事」とあります。天文、暦数、風雲の景色の3種に異常があったら、ほかに漏れないように密封して報告するよう義務つけています。この3種は、天文、暦、陰陽の三つの分野をさしています。
この頭にたいする規定に対応して、天文博士の義務規定にも、「天文の景色うかがい、異なること有らば密封せんこと」とあります。密封しての報告が義務づけられているのは、天文の異変が地上の異変の前兆とかんがえられていたからです。
古代の天文術をささえた思想は、天人相関です。天文と政治と道徳は不可分でした。地上の異常はまず天界の異変となってあらわれるという観念が、古代人を天文観測にかりたてた原動力でした。
天人相関観念は世界中で発達しましたが、東アジア社会でもっとも高度にこの観念を体系化したのは、天命思想を立国の方針とした中国北方の隋、唐などの国々でした。天変は皇帝の命運すら左右します。唐令で天文関係者の人数がほかに比較して多かったのはそのためです。
当時の日本にすでに天人相関観念がはいっていたことは、『日本書紀』の記載などを検討しても確実ですが、天変観念だけが突出していたわけではなく、ほかの地異観念と拮抗していました。その事実が陰陽寮の人員配置となってあらわれていたとみることができます。
実務者を多数必要とする漏刻をべつとすれば、日本の陰陽寮における陰陽対暦対天文の人員比は1・5対1対1となります。これにたいする中国では、2対1対3・6となり、天文が突出していたことがあきらかです。
暦・天文・漏刻の三者をあつかう太史局と卜占・方術をあつかう太卜署を合併させて陰陽寮を誕生させたことには、たんなるスリム化や機能化だけでは説明できない、当時の日本の特殊な事情がはたらいていました。私はそこに北方原理的な天の思想を抑制しようとする南方原理的な地上の思想の力をみることができるとかんがえています。
次回以降、日本神道の成立をテーマに、さらに南北原理の相克の問題を検討します。
今回はこの辺で失礼します。