諏訪春雄通信 46
アジア文化研究プロジェクトへようこそ。
6月30日(日曜日)に学習院大学で国際浮世絵学会の大会がひらかれ、そこで「浮世絵の空間構成―右回りと左回りー」という研究発表をしました。このことについては前々回の通信44でのべました。あわせて、私は総会の議長をつとめ、最後の議案として『浮世絵大事典』(東京堂出版刊行)を学会の編集とする提案をおこない承認を得ました。
この『浮世絵大事典』の編集室は私の研究室に4月から設置され、専属の事務室員1名をおいて、すでに項目選定までほぼ終わっています。これが、私のいう三つの出版計画の二つめです。
この『浮世絵事典』を学会編集とすることにはいくつかのねらいがあります。
1 信頼できる拠り所の提供
2 学会の活性化
3 学会活動の宣伝
4 浮世絵愛好者の掘り起こしなどです。
これまでに浮世絵専門の事典は二種類刊行されています。『原色浮世絵大百科事典全十一巻』(浮世絵協会編、大修館書店、第一巻1981年)、『浮世絵事典全三巻』(吉田暎二著、画文堂、上巻1965年)です。どちらも個性のあるすぐれた事典ですが、前者は40年、後者は20年まえの刊行物です。
二種類とももう古本でしか入手できず、書店に出まわることもめったになくなりました。たまに出てもかなり高値がついています。
さらに、そののちの学問の進歩はめざましいものがあります。最新の研究成果をとりいれ、しかも手ごろな値段で利用しやすい浮世絵事典の編集刊行は私の日頃の念願の一つでした。
この事典刊行の事業もまた私にとっては「夢と志の実現」となるやりがいのある仕事に出あったことになります。研究者冥利につきるありがたいことです。
前回の通信46の最後を私はつぎのような文でむすびました。
「日本人の公式の方位観は中国の天の信仰をうけいれて、北極星にむかい、右回りを重んじる南北軸(子午線)重視ですが、それとは別に、神社の祭壇などを東側に設置する東西軸重視の信仰があるのです。この問題をさらにつきつめてゆくと、日本の神社信仰=神道が、あきらかに中国の南方原理をうけいれて、天の信仰とは異質の太陽信仰にもとづいていることがあきらかになってきます。」
今回はこの東西軸重視の問題を中心に論じます。
日本の古代に東西軸重視の観念が存在したことについては、これまでかなりの数の研究者が論及しています。
西郷信綱 『古事記の世界』岩波書店、一九六七年
吉村貞司 『日本古代暦の証明』六興出版、一九八一年
吉野裕子 『日本古代呪術』大和書房、一九七四年
吉野裕子 「日本古代信仰にみる東西軸」『東アジアの古代文化二四号』大和書房、一九八〇年
大和岩雄 『神々の考古学』大和書房、一九九八年
山折哲雄・上田正昭・中西進 『古代の祭式と思想 東アジアの中の日本』角川選書、一九九一年
などです。代表的な説をつぎに紹介します。
まず、すべてを陰陽五行思想で解読しようとする吉野裕子氏です。東西軸を日本の古代の原始信仰軸であったとして、「東方の神界・常世国と西方の人間界をむすぶ東西の軸を、古代信仰軸とすれば、この東と西の二極に、この二極の統一体としての中央の穴を加えた、東・中央・西の三極が、日本古代信仰をもっとも具体的に表現するものとして考えられよう。」とのべ、そこへ北方重視の陰陽五行思想が文字とともに移入された結果、「原始信仰は複雑化し、哲学的に深められ……信仰軸の多極・多様化」をまねいたと説きます(『日本古代呪術』)。
東の朝日の地伊勢の伊勢神宮にたいし、西の夕日の地出雲の出雲大社という説ははやく西郷信綱氏にみられます(西郷氏前掲書)。この西郷氏や吉野説をうけて、大和岩雄氏はさらに出雲大社、伊勢神宮の社殿配置にまでふみこんで東西軸重視の信仰を立証します。
「大和王権は中国を見習って、子午線を重視したから、大和王権下の神社の多くは、社殿も神座も南面の子午線重視である。しかし出雲大社は、社殿は南面しているが、神座は西面している。」「中国の子午線重視の思想が入ってくる以前の、縄文時代からの東西線重視によって、もっとも大事な神座は、南面させなかったとみるべきであろう。」(大和氏『前掲書』)。
大和氏はさらに伊勢神宮や大嘗祭の社殿・神座の配置に言及していますが、伊勢神宮についての発言を引用します。
「こうした東西軸への固執は、前述したように伊勢内宮の正殿内の興玉(おきたま)神と宮比(みやび)神が東西に並んでいることや(両神とも縄文時代の立石と同じような石が神体)、外宮では宮比神は土御祖神と呼ばれ、土宮の祭神になっているが、この宮のみが東面(冬至日の出方位)していることからも証される。」(大和氏前掲書)
このように、日本の伝統的な東西軸重視の信仰が中国からはいった子午線軸(南北軸)重視の信仰と習合して複雑化したことは多くの研究者が一致しています。しかも、子午線軸重視の信仰が北極星重視の天の信仰にもとづくことも共通理解となっています。
この点についての山折哲雄氏の発言をつぎに引用します。
「どうも南北を神聖軸とする背後には北極星信仰があるかもしれない。太陽信仰、日月信仰というのが東西を神聖軸とするコスモロジーを生み出したとすると、北極星信仰というのは南北を神聖軸とするコスモロジーを生み出したのではないかと思うのです。どうも日本の神社仏閣の設計プランは、後に中国の天子南面思想の影響を受けて南面するようになるのですけれども、しかしそれによって古くからあった東西軸に基づく空間認識はかならずしも否定されることがなかったということではないでしょうか。」(山折氏前掲書)
山折氏は問いかけの形式で発言していますが、氏の推定がすべてあたっていることはいまさらいうまでもありません。
問題は日本の伝統的な東西軸重視の信仰の由来についてきちんとした説を提出している研究者がいないということです。
私はこの通信でくりかえし、太陽を信仰する中国の南方原理についてのべてきました。日本の伝統的といわれる東西軸重視の思想は、じつはけっして、日本固有のものではなく、中国南方の太陽信仰移入の結果であるという私の主張は、かなり独自性をもつものであることが、先人の説の吟味・検討からあきらかになってきます。
ここで興味ぶかい説を一つ紹介しましょう。太陽ののぼる東を尊重する信仰が古代の中国には存在しなかったと強調する中国古代史研究家の尾形勇氏の論です(山折哲雄氏ら前掲書)。
「朝日が昇って、それを拝むという儀式は確かに中国にありました。そして皇帝というあの権力者が出てきた時代、漢、魏普南北朝、隋、唐を通しまして、こういう儀式は国家の儀式として確かにあったのです。ところがいろんな意味でこれは大した儀式としては思われていなかったということも言えるのであります。」
「中国で最も大切なお祭りは何かというと、それは天と地を祀るお祭りでありまして、これは国家的儀式として毎年行われております。とりわけ天の神様を祀るというのは大変重要な儀式でありまして、こういう儀式はどこで行われたかというと、都を南に出外れた南の郊外でこれが行われます。そして、東の郊外で行われる太陽をお祀りするもの、西の郊外で行われる月をお祀りするものとは全然別な場所、つまり南の郊外、南郊の祭りというのが最も際立って重要な祭りであり、東の郊外の祭りというのは大したことはないのであります。」
「天の神様、地の神様が社長だとすると、月の神様、太陽の神様は部長、課長クラスであるということでしょうか。」
この尾形氏の発言は、以前、この通信13で紹介した京都府立大学教授の渡辺信一郎氏の祭天儀礼を幅広く調査されて出された結論とも一致しています。
古代中国史の研究者が直接に依拠する資料は、北方巨大帝国の内部で制作された文献資料です。そのような資料からみちびき出される古代中国の祭りは天を重視する北方原理にもとづくものです。太陽祭祀が部課長止まりであるのは当然です。
私がこの通信で重視する南方原理をみちびきだした資料は文献ではありません。文字すらもたない南方少数民族の民俗資料が中心です。そこには歴然と太陽信仰が存在し、稲作とともに古代の日本に伝来し、いわゆる日本の伝統的東西軸尊重の観念を生みだしたのです。文献学ではなく民俗学の方法でなければ到達できない結論です。私がこの通信で追いかけている王権の問題のタイトルを「天皇の比較民俗学」とするのはそのためです。
今年の八月に貴州省の黄平県でひらかれる、革家とよばれる謎の民族が保持している太陽信仰を調査・検討する太陽文化国際学術検討会に参加します。
中国では今も所属の明確でない謎の人たちが各地にいます。有名なのは湖南省の山奥にすんでいるといわれる野人です。貴州省の革家も謎の民族といわれていますが、私はいくつかの理由から苗族ではないかとひそかにかんがえています。
彼らの信仰と習俗の調査結果もこの通信で、できたらリアルタイムでご報告したいとおもっています。南方原理の中核を構成する太陽信仰はいっそうあきらかになることでしょう。
今回はこの辺で失礼します。