諏訪春雄通信 54


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 前回の通信53でもちょっとふれましたように、『アジア遊学』(勉誠出版)2003年新春号が「アジアの正月」という特集を出します。そこへ、私は総論として「アジアの正月」という一文を寄せました。その文を書くために書庫から『暦の百科事典』(暦の会編集、新人物往来社・昭和61年)という書物を出してきて、ながめているうちに、いつか往時のなつかしい思い出のなかにひたってしまいました。

 この書には私の「古典文学を鑑賞するための暦の知識」という文章も掲載されています。ほかに、桃裕行先生(前東京大学史料編纂所所長、立正大学教授、肩書きはいずれも当時のもの)、広瀬秀雄先生(前東京天文台長)、内田正男先生(東京天文台研究員)、斉藤国治先生(元東京大学教授)、岡田芳朗先生(女子美術大学教授)、大谷光男先生(二松学舎大学教授)など、日本の天文学と暦の研究を指導してこられた錚々たる学者が筆をとっておられます。

 それよりもまえ、昭和40年代、50年代、この先生方がおつくりになっていた暦の研究会に私もくわえていただき、毎月の研究会に欠かさず出席していました。暦の研究会は暦の会としていまも継続していて、毎回の案内が送られてきます。しかし、当時の多くの先生方は鬼籍にはいられ、メンバーは一新し、私ももう出席はしていません。

 私が暦の研究会という畑違いの分野に首をつっこむようになったのは、桃裕行先生からお声をかけられたのがきっかけでした。近松の浄瑠璃作品に「大経師昔暦」、「賢女手習並びに新暦」など、江戸時代の貞享元年(1649)におこなわれた、いわゆる貞享の改暦に取材した作品があります。その研究に必要な暦の資料を桃先生がお持ちであることを知り、新宿の百人町のお宅にうかがい閲読をお願いしたときに、この研究会に出席するようおすすめをいただいたのです。昭和40年代半ば、私がまだ学習院の女子短期大学につとめていたころでした。

 先生からお借りした史料は、『暦道一式』という近世の暦の発行にかかわる超一級史料でした。江戸時代、日本全国発売の暦のもとになっていたのは、京都で発行されていた京暦でした。その発行権を独占していたのが、宮廷から発行権を許可された大経師と院の御所から許可された院経師の二つの家でした。この史料はその院経師菊澤家の古記録です。

 一方の大経師家は、この改暦から間もなく取り潰しにあっています。ちょうどそのころ、大経師家で妻と手代の不義密通事件がおこっており、二人は丹波ににげたのですが、とらえられ市中引き回しのうえ、粟田口で斬首されています。近松の「大経師昔暦」はこの事件をテーマにした名作です。二人の主人公おさん茂兵衛の名は、そののち近世恋愛悲劇の主人公として、多くの作品にとりあげられ、日本人にふかい印象をあたえました。西鶴もおなじ事件を題材に、『好色五人女』第三話「中段に見る暦屋物語」という、これも名作を書いています。

 これだけ有名な事件でしたが、.姦通事件はいつおこったのか、.姦通と家の断絶は関係あるのか、.関係者の実名と事件の実際の経過はどうであったのか、など不明な点がいくつかあり、明治以降の多くの研究者の検討にもかかわらず、未解決のままになっていました。

 こうした疑問を一挙に解決した史料が『暦道一式』でした。.おさん茂兵衛の姦通事件がおきたのは天和三年(1683)、.大経師家の断絶はその翌年の貞享元年の12月であり、直接に管轄する京都所司代を超えて、江戸の町奉行所へ暦発行の独占権をねがい出たためで、姦通事件とは無関係であること、.大経師家の当主の氏名は浜岡権之助、妻はおさん、手代は茂兵衛であったことなどがあきらかになりました。

 この史料の検討結果をまとめた「大経師事件の実説」を、昭和47年11月に徳島大学で開催された日本近世文学会で発表しました。四国へわたるフェリーの都合で(当時、本州と四国をむすぶ橋はまだかかっていません)会場へ30分ほど遅刻したにもかかわらず、会場の皆さんが到着を待っていてくださったこと、横山正先生(故人、大阪学芸大學教授、近世演劇専攻)がそのあいだ自分が話でつなぎましょうかと司会者に申し出てくださったこと、発表後、野間光辰先生(故人、京都大学教授、西鶴研究の第一人者)から熱心な質問をうけたこと、など、いまもよくおぼえています。

 往時茫々、ただお世話になったありがたく、なつかしい先生方のお顔を思いうかべながらつづった「アジアの正月」の一文をつぎにかかげておきます。総論ですので、やや硬い文章となりました。各地の正月の多様性を決定する根本則、日本の小正月の由来などに注意してお読みください。小正月の習俗が中国から伝来したと示唆しているのは、文化人類学者の大林太良先生お一人で(『正月の来た道』小学館、平成4年)、日本の学者ではほかにいません。読みやすくするために、例によって段落分けしています。

 正月の深層―繰りかえしと食糧獲得
 正月は時間と世の中の秩序が更新されるときであり、あわせて人間の生命も新しい活力を得てその時に再生する。このような正月にたいする観念は地球上の人類に普遍的である。人間も世界も時が経過すれば衰弱する。そのためにある時間を区切って回復の手段を実行しなければならない。祭りとか、年中行事とかよばれる人間の営みは共通してこのような目的をもっている。

 そこには繰りかえすことによって生命の永続をはたそうとする人類の思考法がある。古代の人間にとっての最大の関心事は永遠の生命の実現である。人間はどのようにすれば永遠の生命を得ることができるのか。その手本は自然界にある。おそらく以下のような事例が人間の観察の対象になったはずである。

星辰が夜は空にまたたき日中はきえている。
太陽が朝に東から昇り夕に西に没する。
月が満ち欠けをくりかえす。
花が咲いては散る。
植物が冬に枯れて春に芽を吹く。
蛇が脱皮をくりかえす。
渡り鳥や回遊魚が季節をきめて訪れる。
動物たちが冬眠で姿をけし春に姿をあらわす。
気候が乾季と雨季をくりかえす。

 このような自然界の繰りかえしには一日単位のみじかいものもあれば、年単位の長期のものもある。なかでも長期にわたる繰りかえしの最良の手本となったのは太陽であった。太陽は短期に日の出と日没をくりかえすだけではなく、冬には日射時間がみじかくなって生命力がおとろえ、夏にはながくなって生命力がつよくなるという長期の繰りかえしもおこなう。

 しかも、人間が永遠の生命を維持するためには、現実の問題として、食物を獲得しなければならない。太陽はその食物の獲得方法ともふかくむすびついていた。

 原始の人類の食物獲得方法は、採集狩猟であった。野や山、海辺におちている木の実、草の実、海藻をひろい、山の動物や海の魚をとって食物とした。そうした食物は季節によってゆたかに入手できる時期と、山野の動植物がいっせいに姿をけし、空腹にたえねばならない時期があることに気づいた人間は、その季節の循環が太陽とむすびついていることを長年月の観察によって知るようになった。太陽がまず長い時間の区切の基準となった。暦の原型の誕生である。

 食物の獲得を採集にたよっていた人たちは、やがて計画的に土地をたがやし、種をまいて採取する農耕段階にはいってゆく。また野山の動物の狩猟にたよって食物を獲得していた人たちは、計画的に動物を管理飼育し、望んだときに肉や乳を入手する牧畜の段階へとすすんでゆく。人類の食糧獲得の手段が牧畜や農耕の段階にはいって、時間を単位に区切り、季節の進行を知る暦の必要性はますますつよまった。

 世界中いたるところでひとしく暦の一年の単位が太陽によって決められ、正月行事がその一年のはじめにすえられたのは、以上のような食物の獲得方法と太陽光線の強弱の繰りかえしのリズムがふかくむすびついていたからであった。

暦と正月
 人々がいっせいに同一の時間の単位を使用するためには、それを人々に強制することのできる強力な権力が必要である。統一された暦法が中国やエジプト、ギリシアなどの、はやく文明が誕生して巨大帝国が形成された土地で生まれたのはそのためである。

 古代の人類は、永年の観察の集積から、太陽を基準とした一年の長さ、一太陽年は、一昼夜の三六五倍と四分の一ほどであることを知った。しかし、一太陽年は時間の区切としてはあまりに大きすぎる単位である。日常の生活を支障なくおくるためには、もっと小さい単位が必要である。そこで太陽の出没の周期と月の満ち欠けの周期をくみあわせて、一昼夜を約三十日分あわせて一月とする暦法が生まれた。

 しかし、月の満ち欠けの周期、いわゆる一朔望月は平均して二九・五日強であるため、これを一二倍しても三五四日強となり、太陽年の長さに一一日ほど不足する。そこで一二ヶ月の一年を一回か二回おえたところで一三ヶ月の一年をつくり、調節した。このような工夫で生まれた暦が、太陰太陽暦である。その結果、太陽太陰暦一年の始まりの正月は地球上の広範囲にわたって同一の時期となった。

 太陰太陽暦は地球上のどこかの場所で最初に発見されて、のちにそれが各地に流布したものではなく、基本原理は複数の民族によって相互に無関係に工夫されたものとかんがえられる。しかし、細部のこまかな工夫、執行上の細則では、流布影響の関係もあったとみるべきであろう。

 古くから太陽太陰暦を使用していた中国では、異民族を征服するたびに中国の暦日の使用を強制した。『礼記』などにしるす「正朔を改める」とはこの事実をさしている。

 三世紀ごろの日本は「その俗正歳四時を知らず、ただし春耕秋収を記して年紀となす」(『魏志倭人伝』裴松之注)といわれたように、正しい暦法を知らなかった。農耕の自然のサイクルによって一年をきめていた。これは歴史家が説くように、当時中国が朝鮮半島の経営に力を集中していた時代であったために、日本にまでその強制力がおよんでいなかったためであろう。しかし、日本もすぐに中国の暦法を導入し、中国を中心とした東アジア体制にくみこまれてゆく(広瀬秀雄「人間は、暦とどのようにかかわってきたか」『暦の百科事典』新人物往来社、一九八六年)。

正月行事の多様な型
 太陽太陰暦が世界の暦の主流となることによって、正月の期日は統一されるようになった。にもかかわらず、各地の正月の時期には変化があり、行事にも多様な型がある。

 正月の型を生んだ要因の第一は〈暦法の違い〉である。正月の時期の相違は暦法の相違によって説明ができる。たとえば、日本各地の正月も新暦と旧暦によって時期に違いがある。

 日本が新暦を採用したのは、明治六年(一八七三)からである。旧暦の明治五年一二月三日を新暦の明治六年一月一日とさだめた。その間に約一ヶ月のズレがあり、それが今日にまでもちこされているのである。

 旧暦はこれまでみてきた太陽太陰暦である。略して太陰暦とよばれることも多い。月の運動には遅速があり、そのために平均値だけで一月をきめると、長いとき短いときで三時間以上の差が生まれる。それを大の月三〇日、小の月二九日のくみあわせで調整するが、その観測と決定の過程が複雑である。こうした不便を排除し、毎月の日数、閏日の指定などをあらかじめ約束事としてきめることができるのが新暦である。

 新暦は太陽を基準とする太陽暦である。一五八二年に当時のローマ法王グレゴリオ一三世によって制定されたので、グレゴリオ暦ともよばれている。日本が明治をむかえたころ、世界の主要国はほとんどグレゴリオ暦を使用していた。近代化をいそいでいた明治政府が新暦の採用をきめたのは当然であった。

 しかし、その普及はすすまず、明治二二年(一八八九)の調査では、新暦への移行がスムーズにおこなわれたのは、東京、京都などの大都会だけで、日本全国のほとんどの土地が旧暦での正月、旧正月をいわっていた(内田正男「旧暦と新暦、どこが違うか」前掲書)。おなじ調査を昭和二一年(一九四六)に全国でおこなったときには、新暦で正月をいわうもの四三・六%、旧暦または月おくれでするもの四一・三%、混用しているもの一四パーセントとなっている(鈴木棠三著『日本年中行事辞典』角川書店、一九七七年)。現在はもっと新暦化がすすんでいることであろう。

 ふだんは新暦で生活していても、祭祀や年中行事などの伝統行事は旧暦でいとなむ国が多い。中国、日本、韓国など、アジア諸国で、中国の暦法を採用していた国々はすべて、現在も事実上は新旧の暦法を併用している。

 多様な正月の形態を生む第二の要因は〈伝播〉である。

 日本の正月には旧暦・新暦による形態のほかに新年の朔の日(新月)にいわわれる大正月と望の日(満月)に行事の集中する小正月という別種の二つの形態がある。大小の正月の関係についてはさまざまな論があって決着をみていない。総じて日本の特有の習俗で説明しようとする説が目立つが、中国や朝鮮半島の小正月との関係は無視できない。

 日本の小正月は共同体の外からの訪問者をむかえる時期である。こうした習俗は中国や朝鮮半島の小正月にも顕著にみられる。そこにはあきらかに共通性がある。中国では、道教の教えにもとづき、陰暦の正月一五日を上元、七月一五日を中元、一〇月一五日を下元とよんで、年中行事のなかでも特別の祭日となっていた。上元には健康と幸福と祈願して、灯篭をかかげ、かゆを食し、柳の枝を門にはさんで悪鬼をはらうなどの習俗がみられた。門付け人たちの来訪が活発であり、子どもたち中心の行事もさかんであった。こうした習俗が朝鮮や日本に伝播したのである。

 第三の要因は〈経済段階〉である。日本各地の正月では、餅をたべる「餅正月」と、正月に餅をタブーとしてたべずに芋を儀礼食とす る「餅なし正月=芋正月」の分布が地域的にわかれている。これに注目し、餅正月は水田稲作農耕を文化の母体としてきた人々の正月であり、芋正月は焼畑雑穀・根茎農耕(芋が中心となる)を文化の母体とする人々の正月であろうと推定されたのは坪井洋文氏であった(『イモと日本人』未来社・1979年)。

 日常では米を主食としていながら正月のような特別の日には米でつくられた餅をたべずに芋をたべるという習俗は、中国の東海沿岸にもひろまっている(諏訪春雄「中国舟山列島に日本文化の源流をさぐる」『中国東海の文化と日本』勉誠社・1993年)。日本の習俗はその影響をうけたものとかんがえれば、これも伝播の実例となるが、主要な食糧獲得手段の相違の遺風とみれば、経済段階の違いとなる。

 沖縄をはじめとする南島地方でおこなわれている旧暦の五、六月ごろから八月くらいにかけての節替りの正月は、亜熱帯冬作地帯の季節の境の行事であるが、粟を主体とした雑穀農耕の正月とかんがえれば、これもまた経済段階の相違による型の違いの例になる。

 大分ながくなりました。次回はまた伊勢神宮と出雲大社の問題をあつかいます。今回はこの辺で失礼します。


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