諏訪春雄通信99
アジア文化研究プロジェクトへようこそ。
隔年に実施してきた「アジア民族舞踊交流会」が9月21日(日曜日)午後2時から学習院百周年記念会館で開催されます。今回は中国の雲南省から8人、韓国から10名、日本からは15名の代表団が参加され、黛民族舞踊文化財団とアジア文化研究プロジェクトとの共催で実施されます。
中国は、ナシ族、タイ族、ハニ族、イ族、ヤオ族などの少数民族舞踊を、韓国は、アリラン、クッコリ舞、サルプリ、アパック舞などの伝統舞踊を、日本はややこ踊、鳩間仲森、越中おわら、黒島口説などの各地の民俗舞踊を上演します。
午後2時から、「東アジア舞踊の研究会・シンポジウム」が、各国代表に参加していただき、私の司会で開催されます。ねらいは、今回上演される舞踊演目の解説と、それらが生まれてきた背景、三国舞踊の共通性と違いの解明にあります。
前回開催された交流会の様子は、諏訪春雄通信4で報告してありますのでご覧になってください。この交流会を実現された黛民族舞踊文化財団の創立者故黛節子さんのご遺志がこのような形で生きつづけているのはほんとうにうれしいことです。
河合隼雄さんの『神話と日本人の心』(岩波書店)を読みました。前作『中空構造日本の深層』(中央公論社)は『天皇の由来』を執筆するときに参照しました。前作と比較したとき、衝撃度はいささかうすれますが、日本神話じたいの考察はこちらのほうが緻密です。これからたびたび引用することになるでしょう。皆さんは、この通信でお送りする私の王権神話論と読みくらべていただくときっと興味深いはずです。
前回お約束した日本の王権神話誕生の母胎についての話をつづけます。
〔質問〕日本は中国ほど複雑ではありませんが、けっして単一民族ではありませんし、文化も稲作だけには限定できない多様さをもっています。日本文化を稲作農耕、太陽信仰と規定することには疑問がありますが……。
おっしゃるとおりです。大事なご質問ですので、順を追って、まず稲作文化の問題から説明します。
日本文化にはたしかに採集文化もあれば狩猟文化文化もあります。北海道のアイヌ文化、東北の文化、沖縄の文化などは、長いあいだ採集狩猟文化にとどまっていました。また、本土日本文化にかぎっても、これを平野の稲作文化一辺倒ととらえることはできません。山の文化もあれば海の文化もあります。
柳田国男に代表される日本の民俗学は長い間、日本文化を稲作文化と規定して、その基本理解のもとで日本文化論を組みたててきました。しかし、稲作農耕が日本を代表する唯一の農耕文化であるかのようにみなすことに反対する学者や思想家は跡をたちません。昭和以降にかぎっても、宮本常一氏を先駆として、坪井洋文、網野義彦、佐々木高明、杉山晃一らの各氏です。
この人たちは、ムギ、ソバ、アワ、ヒエ、ダイズ、アズキ、ゴマなどの雑穀やイモ類などが、ながいあいだ日本人の主食であり、米よりも重要な食べ物であったと主張しています。これらは米にくらべて、やせ地や寒冷地でそだち、はるかに耕作に手間がかかりません。しかもこれらの雑穀は、水田稲作以前の焼畑農耕で栽培されていました。
弥生時代の初期から中期にかけて、日本人は、炭水化物の総摂取量の半分以上は、米以外の雑穀やイモ類からとっていたであろうという見解も出されています(佐々木高明氏『稲作以前』NHKブックス、一九八三年)。
網野義彦氏は、日本文化を稲作単一文化とかんがえることにたいする反対論者の急先鋒です。いわゆる網野史学といわれるものは、稲作文化論打倒の理論です。
氏は、米が日本人の唯一の主食であったとかんがえる風潮がつくられたのは、江戸時代の状況を中世にあてはめ、二つの時代がなめらかに同質的に連続しているかのようにみなしたためであったと主張しています。
その根拠として、氏は若狭国太良荘の貞和三年(一三四七)の資料を提出します。女百姓の所有物をさしおさえたときの記録によると、没収されたもののなかに、米五斗とその二倍の量のアワ一石がふくまれており、太良荘のような米を税としておさめていた稲作地帯でも、ふだんたべていたのは、米ではなく雑穀であったことをあきらかにしています(『日本中世の民衆像―平民と職人』岩波書店、一九八〇年)。
このような論旨はけっしてまちがっていません。柳田民俗学の最大の弱点は、そしてその弱点はいまの民俗学にもひきつがれているのですが、日本文化を稲作中心ととらえたことにあるのです。
にもかかわらず、私が先に日本の文化体系を稲作農耕と規定したのには、二つの理由があります。
その一つは、長江流域文化と日本文化が同質の稲作文化でむすばれていたということです。
アジアの稲の起源地は、最近の考古学の発掘成果によって、中国の長江中流域と決定しています。一九九五年に湖南省の西南部玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡から一万二千年まえの栽培稲の稲籾が発見されています。その年の八月十日から五日間、湖南省の首都長沙市で開催された考古学学会に出席した私はこの稲籾を顕微鏡で確認してきました。野生の稲のばあいは稲籾の先端についている「芒(のぎ)」とよばれるとげが長くのびており、栽培稲ではこの芒が退化して小さくなって区別がつきます(諏訪春雄「稲作文化と雑穀文化」『日本人の出現』雄山閣、一九九五年)。
学会会場の湖南文物研究所の展示会場で、ちょうど私が顕微鏡をのぞいていたとき、隣で順番を待っていたのが稲の遺伝子研究で有名な佐藤洋一郎氏でした。すこし遅れて隣接する江西省の仙人洞遺跡からもやはり一万二千年まえの栽培稲が中国・アメリカ合同の調査隊によって発見されています。
これらは焼畑で耕作された熱帯ジャポニカといわれる品種で、中国南部から黄河・淮河周辺の雑穀地帯を経由し、山東・遼東・朝鮮の各半島をへて日本に伝来しました。日本で発見された最古の稲は岡山県や鹿児島県から出土しており、縄文時代前期、六千年まえにまでさかのぼる熱帯ジャポニカです。おそらく日本でも焼畑耕作によって、ヒエやアワ、キビなどの雑穀とともに栽培されていたものと推定されます。
日本で熱帯ジャポニカが耕作されだした、ちょうどそのころ、中国の江南地方では水田耕作による温帯ジャポニカの生産がはじまっていました。現在わかっている最古の水田の遺跡は、江蘇省蘇州市の六千年まえの草鞋山(そうあざん)遺跡です。この水田稲作は朝鮮半島をへて縄文晩期の二千六百年まえには佐賀県唐津市の菜畑遺跡におよんでいました(浦林竜太「イネ、知られざる1万年の旅」『日本人はるかな旅』NHK出版、二〇〇一年)。
水田稲作の日本での開始年代は、最近の研究によって五百年ほどさかのぼって三千年まえになる可能性が出てきました。国立歴史民俗博物館の研究グループによる放射性炭素年代測定法の調査の結果、弥生時代が全体として五百年さかのぼる可能性が生まれたことによります(二〇〇三年五月二〇日各紙朝刊)。最終の決着はまだついていませんが、中国で六千年以前に開始されていた水田稲作が日本で三千年まえにさかのぼっても不思議はありません。
水田稲作は、朝鮮半島を経由せず、直接、中国から日本へ伝来したものもありました。前述の佐藤洋一郎氏は、遺伝子の研究によって、水稲の日本への伝来は、中国からの直接ルートと朝鮮半島経由のルートの二つがあったと主張しています(「DNAからみたイネの道」『日本人はるかな旅』)。
たいせつなことは日本の稲作の故郷が中国の長江流域であったということです。稲はそれだけが単独で日本へわたってきたのではありません。稲作文化とよばれる文化複合をともなっていました。かつては稲作の渡来が日本の弥生時代の始まりとされていました。その考えは訂正をうけて、焼畑耕作による熱帯ジャポニカは、日本の縄文時代前期には伝来しており、弥生時代を開始させたのは水田耕作による温帯ジャポニカとされるようになりました。その両方をあわせて、縄文文化の大部分と弥生文化のほとんどが稲作伝来とともにはじまっており、それらの文化は稲作とともに長江流域から日本へわたってきたのです。
たしかに、日本文化を稲作一辺倒とかんがえる見方は訂正されなければなりませんが、稲作文化が日本文化の重要な根幹をになってきた事実は否定できません。日本文化をかんがえるときに、中国の南の文化を考慮しなければならないという、私の主張がおわかりいただけたとおもいます。
もう一つの理由についてのべます。
私の検討テーマは王権神話です。日本の王権の中枢は、中国の南に起源し、王権神話の骨格は南の稲作文化の一環として日本へ伝来したものです。このテーマはこれから本書で論証してゆことになりますが、ここでは『古事記』『日本書紀』の王権神話の根底に稲の信仰があることだけを説明しておきます。
日本の王権神話でもっとも重要な位置をしめる神はアマテラスです。この神はあきらかに稲をつかさどる神、稲魂、穀霊としての性格をあたえられています。『古事記』によりますと、つぎのように記述されています。
アマテラスは水田をつくり新嘗を主宰している。
アマテラスとタカミムスヒが最初に地上に降臨を命じたアマテラスの子アメノオシホミミは威力ある稲の神の意味であり、交替して降臨したアマテラスの孫ホノニニギは稲穂の豊穣の意味をもっている。
さらに『日本書紀』を援用すると、穀神としてのアマテラスの本質はいっそうあきらかになります。
ツクヨミに殺害されたウケモチノカミの身体から生じた五穀のうちアワ・ヒエ・ムギ・マメは畑に、稲は水田にうえて大きな収穫を得ている。
スサノオと誓約して、威力ある稲の神の名をもつオシホミミ、天上界の霊力ある稲の神の名をもつアメノホヒなどを生んでいる。
天上で水田を耕作し新嘗を主宰している。第三の一書によれば、アマテラスは天上で三か所の良田を経営している。
第二の一書によると、ニニギの降臨のさいに高天原の田で収穫した稲穂をさずけている。
これらの記事によって、アマテラスを主神とした日本の王権神話は、稲作文化、それも水田稲作文化が生み出したものであったことがあきらかです。稲作文化が日本の王権神話の骨格を形成していたことは、アマテラスだけにかぎりません。その事実はこれからさらに検討していきます。
〔質問〕稲作農耕が中国南の文化であり、日本の王権神話と関係をもっていたことはわかりました。つぎに太陽の信仰について説明してください。
最初にはっきりさせておかなければならないことは、太陽信仰と天の信仰の相違です。私たちの感覚でいえば太陽は昼間天にかがやいています。太陽信仰を天の信仰とわける必要があるのかという疑問がおこります。しかし、古代中国人の認識では太陽は地上の存在なのです。
中国古代の地理書『山海経(せんがいきょう)』(紀元前三世紀以降の成立)には
東海の海の外、甘水のほとりに義和(ぎか)の国がある。女性がいて名は義和といい、ちょうどいま太陽を甘淵で水浴びさせている。(大荒南経)
とのべられていて、太陽は東海の海の外にすんでいるとされています。その東海には扶桑(ふそう)という大木がありそこには十個の太陽がやすんでいて、一個ずつ交代で空にのぼっていくとのべられています。夕方になればまた太陽は東海の扶桑の木にもどってきてそこで憩います(同書「海外東経」)。
『山海経』とほぼおなじころに成立した『楚辞』は長江流域の楚の国にうたわれていた民謡をあつめた書です。そのなかで太陽をうたった民謡をつぎにあげます。詠み方は『新釈漢文大系 楚辞』(星川清孝、明治書院、一九七〇年)によります。
赤々と朝日は東方に出ようとして、扶桑の下にあるわが宮殿の欄干を照らす。私の馬をおさえて静かに駆けると、夜は白々とはや明けてきた。竜に車をひかせ、雷雲に乗り、雲の旗を立てて、ゆらゆらとたなびいている。私は長いためいきをついて、いよいよ天に上ろうとするのであるが、心は去りがたくて顧みおもう。ああ、歌声や色うつくしい巫女の私をなぐさめることよ。観る者は皆心やすらかに帰るをわすれる。張りつめた琴と打ちかわす鼓の音、玉でかざった台にかけた鐘を撃つ。鳴りひびく横笛と吹き鳴らす笙の調べ。神巫女(かんみこ)の徳すぐれてみめうるわしいのを思うのである。(東君)
この詩は複雑な表現法をとっています。題名の「東君」は太陽です。太陽が朝方東の空に竜馬にのってかけのぼろうとする様子を詠んでいて、「わが」「私」は太陽の自称です。朝日が一人称で心中をかたっている形式をとっています。そのように解釈したときに、ひっかかるのは最初にあらわれる「赤々と朝日は東方に出ようとして……わが宮殿の欄干を照らす」という表現です。朝日が「私」であるなら、ここでは朝日と私=太陽が分裂しています。
このような表現が可能なのは、朝日に扮した神巫女=巫女が、朝日の視点と巫女の視点とを自在につかいわけているからです。客観としての朝日が宮殿を照らす描写と主観としての心情吐露とを、同一の状況のなかでおこなっています。後半の管弦の場面でも、巫女たちが、自分たちで朝日をまつる儀礼を、朝日の視点から描写しています。
楚は紀元前九世紀ごろから紀元前三世紀の春秋戦国時代に湖北省を中心にさかえた国です。最盛時、その支配領域は湖南、江西、安徽、浙江、江蘇の各省、つまり長江中流域から下流域にひろがっていました。その地方で、太陽は地上に宮殿をもち、朝がくると竜馬にひかせた車にのって天をかけると民謡にうたわれていました。太陽は地上の存在とみられていました。
太陽が竜馬の車にのって天をかけるというのは、じつは比較的新しい詩的発想で、本来は鳥によって運ばれていました。紀元前五千年から紀元前三千五百年まえにまたがる浙江省の河姆渡遺跡からは二羽の鳥が太陽をささえて飛ぶ模様を彫りこんだ象牙の板が出土しています。太陽は地上から鳥を乗物として天へのぼるという観念が存在したことをしめしています。この観念は、楚の時代にもありました。おなじように二羽の鳥が太陽をはこぶ図柄の楽器が戦国中期の墓から出土しています(『楚文化』上海遠東出版社、一九九八年)。これらの資料から太陽は地上の存在であり、乗物、多くのばあいに鳥によって天へはこばれていたことがわかります。
中国トン族出身の民俗学者林河氏は著書『中国巫儺史』(花城出版社、二〇〇一年)のなかで、鳥が太陽をはこぶ図柄を「太陽鳥」と名づけ、これこそが古代稲作民の信仰の中核をなしていたとして、各種の資料を博捜して、さらに多くの例をくわえています。出土地のあきらかなものにかぎってあげます。
湖南省黔陽高廟遺跡 七千五百年前 湖南省湘水下流長沙大塘 七千年前 浙江省良渚文化遺跡 六千年前
また、南方の、ミャオ、トウチャ、トン、ヤオ、山西漢族などの各民族の衣装の模様にもおなじ図柄を発見紹介しています。のちにこの鳥はカラスとなって太陽のなかに棲んでいるとみなされるようになります。
太陽信仰はかならずしもすべてが鳥と対になっているわけではありません。現在のトン、ミャオ、ハニ、トウチャなどの各民族にも太陽信仰は民俗の各分野にいきわたっていますが、それらは多様なあらわれ方をしています。鳥とかかわりなく、太陽を象徴する鏡となったり(ミャオ)、傘となったり(トン)して表現されています。
他方、星辰を対象にした信仰が天の信仰です。長江流域の民謡集『楚辞』にたいし、黄河流域の民謡集が『詩経』です。成立年代は『楚辞』よりもさかのぼり、周の時代から春秋時代くらいまでの歌をあつめています。周を理想化した詩が多いのですが、その点を割り引いても、その時代の天にたいする信仰の様子がわかります。『新釈漢文大系 詩経』(石川忠久、明治書院、二〇〇〇年)から引用します。
文王の御霊は天におり、ああ天に輝く。周は古い国であるが、天命をうけて国勢を新たにした。周の国威は大いに明らかに、その天命は久しい。文王の御霊は天地を昇降し、上帝の側に仕える。(大雅)
文王は殷をほろぼして周を建国した王です。その文王の創業を天命拝受の結果としてたたえています。文王は没後に天へのぼり、上帝の側につかえて、地上の子孫と天上の上帝のあいだを往復しながら、子孫の行動を見守っています。
周は黄河流域でさかえた国でした。この地域では天の信仰がさかんでした。天の信仰とは、天の命令をうけて王となり、徳をうしなって天の怒りをうけて王の位置を追われるという信仰であり、思想です。はやく、一地方政権にすぎなかった周が殷(商)をたおして王権をうばった行為を正当化するためにかんがえだされた、多分に政治的イデオロギーであり、『書経』『詩経』をはじめとする儒教の書物のなかで明確に理論化されていきました。
いまイデオロギーといいましたが、信仰の基盤のないところにつくりだされた人工のイデオロギーではありません。北極星、北斗七星その他、天上にまたたく星辰を神とあがめる信仰がすでに黄河流域の遊牧・雑穀生業地帯にひろく存在しており、その基盤のうえに組みたてられたイデオロギーだったのです。
おなじ『詩経』の詩をもう一つあげます。
きらきらと輝く小さな星。東の空に三つ星、五つ星。つつしんで夜に行って、かしこんで祭壇に拝する。我は天命に忠実にしたがおう。(国風)
天の星がすべて信仰の対象であったことがわかります。そのなかでもひときわ目立つ北極星はその位置を変えず、多くの星がその周辺をめぐるために、至上神としてあがめられました。
天に至上神をみとめる信仰は、周に先立つ殷代においても存在していました。帝または上帝とよばれた天の神は、天候や災害、作物の実りなどの自然界と、戦争、祭祀、官吏の任命などのあらゆる人間界の事象をつかさどるとかんがえられていました。当時、シャーマンでもあった殷王は、亀卜をもちいて上帝の意志をたずね、災害の時期や戦争の結果を予知し、さまざまな呪術をおこなってその被害をふせごうとしました(『郭沫若選集13 青銅時代』中村俊夫訳、雄渾社、一九八二年)。
私は中国北方には太陽の信仰がなく、中国南方に天の信仰がなかったなどといっているのではありません。王権をささえた中心の信仰として大きな役割をはたしたものが、北方では天の信仰であり、南方では太陽の信仰であったと主張しているのです。
中国古代史学者の渡辺信一郎氏が注目される発言をしています。私の考えとぴたりとかさなります。引用がながくなりますが、重要な指摘ですので引用させてもらいます。
正史など中国の文献によって東アジアの諸地域における祭天儀礼の分布を見てみると、特徴的な偏りがある。匈奴・韓・夫余・高句麗・ワイ(「さんずい」に「歳」)・烏丸など、中国北方・東北地方ならびに朝鮮半島に活動したモンゴル・トルコ・ツングース系諸族、すなわち遊牧地帯ならびに稲・雑穀栽培地帯には祭天の儀礼が広範に存在する。ただし、中国のように王権に固有の排他的祭祀であるとは必ずしも限らない。中原を中心とする中国華北地域における祭天儀礼は、この北東アジアの稲・雑穀栽培の文化複合にかかわる王権儀礼の系譜上に位置する。
これに対して中国南方、長江以南の諸族をはじめ、稲単作文化地帯に属するいわゆる南蛮、西南夷には祭天の諸儀礼にかかわる記述はない。日本の倭国にかかわる記述にも祭天儀礼はなく、文身の慣習とともに南方諸族と同類とみなされていた。日本古代の史書六国史には、祭天儀礼の記述が三度だけしか見えず、しかも対になる地神皇地祇の祭祀はおこなわれず、ましてや都城を囲繞する諸廟・祭壇も建造されなかった。このことは、平安時代の祭天儀礼が部分的な導入、悪く言えば借りものであったことを示している。日本の古代文化は、稲単作文化と稲・雑穀文化との複合文化であるが、祭天儀礼に関して言えば、長江以南の稲単作文化圏と深い関係をもち、ユーラシアの遊牧諸民族や北東アジアの稲・雑穀文化圏とは一線を画するものであり、王権の祭祀としては体系的に導入されなかった。(「中国古代王権の正統性と祭天儀礼」『中国古代の王権と天下秩序』校倉書房、二〇〇三年)
まさにわが意を得た提言です。ただ私は、長江中流域に誕生した稲作が北上して、北方の雑穀地帯でもおこなわれるようになり稲・雑穀の複合文化としてあらわれる以前に注目するために、稲文化と雑穀文化というように対比してとらえ、さらにそうした現象がなぜおこったのかを本書でさぐろうとしているのです。
アマテラスが稲の神の本質とあわせて太陽神の性格をもっていることはよく知られています。念のためにおさらいをしておきましょう。
『古事記』によれば、「天を照らす大御神」と表記され、天空(高天原)の支配を命じられたこと、天岩屋戸にこもったことが日蝕とも冬至とも鎮魂際とも解釈されること、鏡を魂の依代とすることなどが、太陽神としての性格をあらわしています。
『日本書紀』を援用すると、アマテラスが太陽神であることはいっそうあきらかになります。アマテラスは日神(太陽の神)、オオヒルメムチ(太陽の女神)などともよばれ、「この御子は輝くこと明るく美しく、天地四方の隅々まで照りかがやいた」などと叙述されています。
とくに注意したいのは、アマテラスが地上で誕生して、のちに天へのぼった神であったことです。『古事記』では、黄泉国をのがれて地上に生還したイザナギが筑紫の日向の橘の小門(おど)の阿波岐原でみそぎをして生んだ神です。『日本書紀』でもイザナギ、イザナミの両神が地上でアマテラスを生んだのちに、「我が子は数多くいるけれども、まだこのように神秘的で霊妙な御子はいなかった。長くこの地上にとどめるべきではない。すみやかに天上に送って、天界の政事をゆだねるべきである」として、天の御柱をつたわって天上におくった神なのです。太陽が地上の存在であるという、中国南方の観念はしっかりと、日本のアマテラスにうけつがれていました。
〔質問〕なぜ狩猟・牧畜・畑作農耕が天の信仰とむすびつき、稲作農耕が太陽の信仰と結合するのでしょうか。
この問題については次回の通信でお答えします。
今回はこの辺で失礼します。