諏訪春雄通信 58


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 通信53で、『日本書紀』の崇神天皇・垂仁天皇の父子二代にわたる伊勢神宮と出雲大社に関する記事を検討し、最後に留意すべき点として、

 a 伊勢神宮は出雲大社と対立・拮抗する神社として創建された。
 b 三輪神社の祭神大物主神と出雲大社の祭神大国主神は同一神格である。

の二つを指摘しました。aについてはすでに、弥生系、縄文系という2つの記号をつかってこれまでに説明を終えました。今回はbについて検討します

 大国主神は複雑な神格をそなえた神であったらしく、多くの別名をもっています。

古事記
 大国主神 大穴牟遅神 葦原色許男神 八千矛神 宇都志国玉神

日本書紀一段一書一
   大国主神

日本書紀八段一書一
   大国主神

日本書紀八段一書六
   大国主神 大物主神 国作大己貴命 葦原醜男 八千矛神 大国玉神 顕国玉神

出雲風土記
   大穴持命 

などです。これらの多様な神名は大国主神がさまざまな別神格を一神格に統合した神であったことをしめしています。大国主神の複雑な性格のなかで、ことに注目されるのが出雲大社の祭神でありながら、大和の三輪の大神(おおみわ)神社祭神とかさねあわせた伝承があることです。 

 まず、『古事記』上巻の大国主神の国造り神話です。

 協力者のスクナビコナは、まだ葦原中国の国造りが完成しないうちに海の彼方の常世国にわたっていってしまった。とりのこされた大国主が途方にくれていると、海上を照らして近寄ってくる神があった。その神は、自分の御魂を大和の青垣の東の山のうえに祭ることを条件に協力を申しでた。この神こそ御諸山(みもろやま)のほとりに鎮座している神である。

 この神の名はしるされていませんが、三輪山に祭られた大物主神とみられます。また、多くの別名をつたえる『日本書紀』の八段一書六にこの『古事記』の記載と対応するつぎのような伝承が記載されています。

 大国主神、別名大己貴命(おおあなむちのみこと)はスクナビコナと国造りにつとめたが、スクナビコナは、途中で熊野の岬から常世国にわたっていってしまった。そのあと、独りで国造りを完成した大己貴命が出雲国で「この国を平定したのは私一人である」と誇っていると、不思議な光をはなって海上に浮かんでくるものがあった。「あなたに協力して国造りを完成させた私はあなたの幸魂・奇魂である」と名のり、大和の三諸山に鎮座したいと望んだ。そこで、その神の宮殿を三諸山に造営した。これが大三輪の神である。

 この伝承によると、大国主神の霊魂が大三輪の神ということになり、両者の重層性はいっそうつよまっています。さらに、『延喜式』におさめられている出雲国国造が奏上する「神賀詞」には、これも大国主神の別名の大穴持命が「自分の和魂を鏡につけて大和のオオモノヌシクシミカタマと美称をあたえて三輪山に鎮座させなさい」といったとあります。

 なぜ、『古事記』や『日本書紀』はくりかえし出雲大社の祭神である大国主神があわせて大神神社の祭神であることを説いているのでしょうか。それを解く鍵が、諏訪春雄通信53で紹介した『日本書紀』の崇神天皇七年二月の記事です。

 崇神天皇の御世、疫病が流行し、民が離散し、反乱をくわだてる者さえ出るなど、災害がおさまらなかった。天皇はふかく反省し、それまで皇居内部にまつってあった天照大神と倭大国魂神の二神を皇居から出して他の地でまつらせた。しかし、災害は依然おさまらず、天皇は神浅茅原で神々の神意をうらなわせた。そのときに大物主神が巫女にのりうつり、「自分を祭れば天下は平穏になるであろう」と告げ「私は大和の国内にいる神で、名を大物主神という」と名のった。天皇がその教えにしたがって祭祀をおこなったが、効果はなく、さらに神意を問うとふたたび大物主神が天皇の夢にあらわれ、「自分の子の大田田根子に祭らせよ」とおしえた。

 このような経緯があって大和の三輪の地に、大神神社が大田田根子を神主として創建されました。ここでかんがえなければならないのは、崇神天皇と三輪とのむすびつきです。

 日本の古代史学者のあいだに王朝交替論とよばれる学説があります。かんたんにいえば、天皇家は『古事記』や『日本書紀』にしるされているような万世一系などではなく、幾度も王朝が交替していたという説です。江上波夫氏の「騎馬民族征服論」などを先駆的な学説として、水野祐氏、井上光貞氏、上田正昭氏などがそれぞれの立場から古代王朝の交替を主張し、それにたいする反論もまた活発です。

 そうした各種の古代王朝交替論のなかで、研究者がほぼ一致して、最初の王朝の建設者としてあげる天皇が崇神天皇なのです。

 たとえば、騎馬民族渡来説をとなえた江上波夫氏は、古代の東アジアでは北方の騎馬民族が南下して各地に征服国家を建設し、その系譜を引く南朝鮮の任那の王が崇神であり、この崇神が北九州にはいって、日本の最初の王となったと主張しました(『日本民族の起源』平凡社、1958年)。水野祐氏は、『古事記』や『日本書紀』の「崩年干支」つまり天皇の死亡年に関する記述の有無を検討し、歴代天皇の実在を判断し、そのうえで古王朝、中王朝、新王朝の三王朝交替論をとなえました(『増訂日本古代王朝史論序説』小宮山書店・1954年)。その水野氏が古王朝最初の王とかんがえているのも崇神天皇です。

 また、日本最初の王朝として三輪王朝を想定した上田正昭氏も三輪王朝初代の天皇として崇神天皇をかんがえています(『大和朝廷』角川新書、1967年)。崇神天皇の和名マキイリヒコ以降、名前にイリをもつ皇子や皇女たちが歴代の天皇となったイリ王朝は、三輪地方に宮居や墳墓をもつことが多く三輪を拠点に勢力をひろげていったと上田氏は説きました。

 もちろん、以上紹介した王朝交替論には批判説も出ていますが、実在した最初の天皇であった可能性のきわめて高い崇神天皇の時代に大神神社が創建され、これも実在した可能性の高いその子垂仁天皇との二代をかけて伊勢神宮の造営と出雲大社の完全支配が実現したとされていること(通信53で詳述しました)はけっして偶然ではありません。

 この記述にたいする解釈は二つ提出できます。A.史実の反映、 B.神話的仮構、です。『古事記』や『日本書紀』の記載をすべて史実と読むことの愚かしさはいうまでもありませんが、しかし、まったくのデタラメと片付けることも学問的ではありません。真理はつねにその中間にあります。

 『日本書紀』の崇仁天皇の御世の大物主神の祭祀にかかわる記事を読むと、まず最初に巫女にのりうつったときに「「私は大和の国の内にいる神で名を大物主神」と名のり、その祭祀によって大和の国内はおさまったが、辺境の地はおさまらなかった、とあります。

 これをAの立場でなんらかの史実の反映とみるならば、三輪地方に根拠をすえていた崇神王朝が地方最大の土地神であった大神信仰を管理することによって、大和国内をおさめたが、大和国外の勢力を制圧するまでにいたらなかった当時の政情を反映していると解釈することができます。王朝交替論をとなえる前記の学者たちが、アクセントの強弱の違いは別として、ひとしく依拠している考え方です。

 軍事は信仰の戦いでもありました。崇神天皇は大和国外に四道将軍を派遣するとともに、国外信仰の最大拠点である出雲大社の管理に乗りだします。それが、出雲大社の神宝事件でした(通信53参照)。

 父のあとをうけて、大和国外の制覇を完成したのが子の垂仁天皇でした。この天皇の時代に出雲大社の管理統制が完成し、伊勢神宮が創建されました。出雲大社は国外勢力の象徴としての役割をはたしています。

 これにたいして、Bの立場、神話的仮構として一連の記事を読んだらどうなるでしょうか。この立場をとった格好の学説があります。出雲神話自体を大和でおこった実際事件をもとに仮構されたものとかんがえる説です。その一人、荒川紘氏はつぎのようにいいます(『古代日本人の宇宙観』海鳴社・1981年)。

 出雲を舞台とし、高天原つまり大和の勢力との関係としてかたられる出雲神話の国ゆずりあるいは国づくりの物語は、もともとは大和とその周辺でくりひろげられた事件の記憶を核に構想されたものと読みとることができよう。要言すれば、記・紀の表面的なストーリーである出雲と大和との空間的な関係は、一地域大和における旧勢力と新勢力とのあいだの時間的な関係の神話的表現であったということができる。

 はやく鳥居竜蔵が1910年代にとなえた説(『有史以前の日本』『鳥居竜蔵全集第一巻』朝日新聞社・1975年刊、所収)をうけて、三谷栄一氏(『日本文学の民俗学的研究』有精堂・1960年)、原田礼二氏(『神武天皇の誕生』新人物往来社・1975年)などが発展させた考えです。

 A、B二つの対立説のどちらか一方に固執することは、やはり誤りではないでしょうか。真実はその中間にあります。これまで、この通信で考察してきた結果をもとに、伊勢神宮、大神神社、出雲大社の三社の関係に限定してかんがえてみますとつぎのようなことがいえます。

  1. 大神神社は大和の地方社であり、出雲神社は大和国外の神社である。
  2. 伊勢神宮は地方と国外の信仰を統轄するはずの全国社である。
  3. 大神も出雲も本来は山の信仰、その具体化としての蛇(大神神社神体)や樹木(出雲大社神体)を対象とした縄文系の神社である。
  4. 伊勢神宮は太陽信仰を基礎にした弥生系の神社である。
  5. 伊勢神宮の太陽神信仰のなかに出雲大社と大神神社の山の信仰を統合しようとしたが、表層にとどまった。

 以上の5点を確認したうえで、大物主神と大国主神が同一神格であったと繰りかえし説いた『記紀』の意図を推測するとつぎのようになります。

 政治的統治は宗教的統治でもなければならない。伊勢神宮の太陽信仰のなかに大神神社や出雲大社の縄文系信仰を統合してゆくためには、太陽神のもとに帰順した神話(あるいは歴史)をもつ大国主神(大物主神)と大物主神(大国主神)を同一神格とする虚構が必要であった。その虚構の構築は、大和の王権が国内・国外つまり日本全国を一元的に統治するためであった。

 説明をくわえますと、括弧の補足はB説によっています。記紀神話では大国主神の帰順が先行しますが、B説によれば、はじめに統轄された大物主神の神話的仮構が大国主神となります。

 いずれにしても、中国の南方原理に由来する太陽女神の信仰が、先行する土着の信仰と対峙し、それらをとりこみながら日本に定着していったときのイデオロギーのあり方のみごとな見本が、伊勢、出雲、大神の三社の相互関係であったといえます。

 通信3以来、1年半にわたってお送りしてきた「天皇の比較民俗学」は今回で終了します。次回以降はあたらしいテーマで再出発します。長いあいだのご愛読を心から感謝します。新テーマとしては、10月15日に東京女子大学で講演した「日中霊魂観の比較―幽霊・妖怪そして鬼―」を中心にかんがえています。講演では、時間の関係で梗概程度の報告におわったこの問題を、じっくりと腰をすえて本格的に論じてみようとおもっています。

 さらにこの「霊魂観」のテーマと各回交替で「浮世絵の方法」という通信も並行してお送りします。私はすでに『歌舞伎の方法』『江戸文学の方法』という著作がありますので、それらとからめて「浮世絵の方法」を根本からかんがえてみようと思っています。

 今回はこの辺で失礼します。


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