朝日新聞97年10月6日夕刊の記事は、朝日新聞の科学部の方が、私に色々な質問をされ、私がとりとめなく答えた内容を、とても手際よくまとめてくださったものです。 「web page の url も書いていただけますか?」とお願いしたら、それをきちんとオチに持っていかれた手際などは、見事と言う他ありません。 実は、この方は物理を専門に勉強されていて、私の仕事もお読みになってきちんと理解して下さっていました。 しかし、今回は、いわゆる「ひともの」という事で、物理の解説はほとんどないわけです。
本当は少し不正確。 私は、学生の頃からプラスティック製のシャープペンシルに HB の芯を入れたものを使っています。 鉛筆よりもさらに軽いのが快適で、これ以外の筆記用具は重くて手が疲れると主張しています。 かなりの量のものを書いているつもりなのですが、日本製のシャープペンシルは驚くほど優秀でほとんど壊れることがありません。 これほど役に立っているのだから少々のお金を出すのも惜しくないのですが、値段もとても安いし、なにしろ壊れないので、前に買ったのはいつだったかも覚えていません。 こういう優れたものを作っている人たちが儲かっていないのではないかと、不安になります。
私は、論文を書くときは、Mac 上で TeX を使っていますが、そのときもかなり最終稿に近いところまで、紙にシャープペンで原稿を書きます。 Mac に WYSWYG で本文も式も直に打ち込むなど、いくつかの現代的方法も試してみましたが、結局、古くさい方法に落ちついていく性分のようです。
少し真面目な話として、いわゆる「紙と鉛筆」のスタイルというのは、たとえば数学の世界などでは今でももちろん当たり前のものです。 物理の世界でも、コンピューターに頼らない理論家はもちろんたくさんいます。 私の特殊性をあえて考えると、理論物理屋でありながら数学的な厳密さにこだわっている事(そういう人はかなり例外的)と、私の研究しているようなテーマでは、純粋な理論が殆どなくなってきて、殆どの人がコンピューターを使っているという点があると思います。
こだわっているというよりは、今の所そういうやり方しかできないし、それが一番楽しく性にあっているので続けているということだと思います。 ひょっとしたら、これからの研究生活で、スタイルが変わることだってあるかもしれない。
こう書くと何となくのらくら暮らしてるみたいですね。 一言足していいなら、「家で夜遅くまでずっと仕事をしていて完全に行き詰まったので、ビールを飲んで・・・」としたいところ。 前後の状況をつけ加えます。
これは、数年間ずっと考え続けていた問題(バンドが平坦でないハバード模型で基底状態が強磁性を示すことを証明する)が最終的に解決したときの事です。
数年間ずっと考え続けるといっても、色々な時期があります。 (途中に他の仕事をして休んでいることもありますし。) 日々ずっと考え続けている内に、ごくまれに、新しいアイディアを思いつきます。 そうすると、そのアイディアで、どこまでちゃんとした議論ができるかを徹底的に考えていきます。 ずっと目をつぶって考えたり、計算をしたり、図を描いたりして、かなりの集中力で、昼も夜も、頭が痛くなるまでずっとやります。 こうやっていると、最初は気がつかなかった色々な問題点がどんどんでてきます。 ものがよく見えるようになってきますが、その分、だんだん苦しくもなります。 問題の解決を試みたり、アイディアを修正したり、と色々がんばりますが、結局、何日間か、何週間かすると、問題解決は不可能だということがわかるというのがふつうです。 そうすると、また新しいアイディアを探す旅にでるわけですが、一つのアイディアについて徹底的に考え抜い(て失敗し)た後では、少しずつものの見方が変化しているのかもしれません。 こうやって、かなりの数のアイディアを採り上げては捨てながら、ずっと考えているわけです。
最終的にうまくいったアイディアを思いついたときも、興奮して、何日間か必死で考えていました。 ところが、やはりどうしようもない問題につきあたって、結構細かい計算をした結果、今回のアイディアもうまくいかないという結論がでてしまいました。 この時はもう夜もかなり遅く、あきらめて寝るしかなかったのですが、こういうときには興奮しているのでなかなか寝付けるものではない(と言い訳することもないけれど)というので、ビールをあけて飲みながらふとテレビをつけたわけです。 全く予期しなかったことに、教育テレビで埴谷雄高の特別番組をやっていました。 仕事に行き詰まったときに、学生時代にのめり込んだ作家の話を聞くというのも奇遇だ、気分を変えろというお告げかもなあ、などと思いながら番組を見て、それから寝床に入りました。
記事にあるとおり、一眠りした後、ふと目が覚めて、証明に使う道具をほんのちょっとひねってやればうまく行くぞということに突然気づきました。 もちろんがばっと跳びおきて、あわてて(紙とシャープペンで)計算をしてみると、確かにうまく行っていました。
この後、「うれしくて、研究室でぴょんぴょん跳ねた」と続きますが、さすがに深夜に研究室に跳ねに行ったわけではありません。 ご存じのように、数学の証明というのは、一度できたと思っても、頭を冷やして、冷静にチェックしてみるまではどこに穴があるかわからないものです。 ですから、この埴谷雄高を見た夜に「出来た!」という確信を持ったとしても、本当に最終のチェックが終わるまでは、あまり喜ばずにじっとがまんしていたのでしょう。 何日かして、証明に穴がないという確信が得られたときに、じわじわと喜びがこみ上げて、「ぴょんぴょん跳ね」ました。 人生にうれしいことというのは多少ありましたが、研究者としての人生に限れば、これが一番うれしいときだったかもしれません。
「おもしろい」問題をやりたいというのが私の基本姿勢ですが、なにが「おもしろい」かというのはとても難しい問題です。 このへんはマセマティカルフィジックス・ワンダーランドの中でも議論しているのですが、簡単過ぎもせず、かといって極端に難し過ぎもしない、何年間か必死で努力し続けて、頭を極限まで使って、かろうじて理解できるか理解できないかくらいの難しさの問題が一番おもしろい。 (だから、取り上げてしばらく考えてもものにならないテーマはたくさんあります。 「打率は1割以下ということですね。」と朝日の科学部の方が適切に要約してくださいました。) 方法が確立していて、誰がやっても一応の結果がでるに決まっている問題をやろうとは思いません。(コンピューター嫌いとも関連しています。) 逆に、「生命の本質は何か?」、「進化とは一体どういうものか?」みたいな、明らかにものすごくおもしろそうな重要問題でも、どう考えても現在の人類のささやかな知性のレベルではとっつきようもないし、答えられっこないような問題は、やはり(プロとしての)研究の対象としては面白くないと思います。 あまりにも問題にとらえどころがなくて、頭脳を極限まで使って物事を本当に理解するという興奮が味わえるとはちょっと思えないからです。 (コンピューターでなんかのモデル計算をして、適当に言葉による解釈をつけるというのは、なにか違うと思っています。) 言い方を変えれば、たとえ「答え」を出したとしても、それが正しいと思うかどうかという判断があまりにも主観的な判断により過ぎてしまう。 そういうある種の「ルールのゆるさ」みたいなのも好きではない。
ちょっと言い切り過ぎの感があります。 「たとえば、M さんのようなコンピューターの使い方はいいと思う。」というような事はいったのですが・・
しかし、コンピューターに頼り過ぎる「理論」物理について批判的なことをいったり、書いたりしてきたのは事実です。 当たり前のことですが、コンピューターで計算するだけでは、物事の本質は決して見えてこない、人類は賢くならないはずです。 もちろん、コンピューターによる計算をきっかけにして、ものがよく見えるようになって、本当に考え始めることができるという状況もあり得ます。 そういう新しい世界を見せてくれるようなコンピューターの使い方は嫌いではありません。
頭を使おうという意志もなく、単にコンピューターでできることをさっさとやって論文を書き、また次の問題にというやり方を嫌っているのです。 そんな人はいないだろうと思うかも知れませんが、決して少なくないと私は感じています。 もう少し詳しく言うと、流行の問題や、既に解決した問題をちょっこっと変えた問題で、新しいアイディアもなにもなく単に数値計算をして、グラフを描いて論文にするというのは嫌いです。 逆に、やたら難しい問題設定をして、既存の理論ではなんら手がでないからという言い訳のもとに、単にコンピューターで計算して、適当にことばで解釈して論文を書くというのも嫌いです。 (いわゆる「複雑系」の研究はこういうのが多い。)
学習院大学理学部物理学教室