日々の雑感的なもの ― 田崎晴明

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茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。


7/1/2005(月)

物理数学の講義がおわって、これで、どの講義も残り一回。 なんとか、ここまで来たっていう感じ。 レポートの提出日も調整したので、あとは、試験問題をつくり、レポートを採点し、最終回でまとめて、試験を採点すれば、おわり --- って、まだ大変だ。

今日の講義で、さいごに時計を見ながらぎりぎりまでかけて丁寧に行列の三角化の計算をみせていたら、最後になって、配る予定のプリントにまちがいの記述があることに気付いてしまった。 板書にも。 式変形は正しくやっているのに、説明の表現がおかしい。 寸前になって書いたところで、ひどいポカミスだった。 あわてて訂正したけれど、ちょっと冷や汗ものであった(もともと大汗かいて講義しているから、冷や汗などでないけど)。


学期末になって、論文の修正、論文書き、本書き、レフェリーレポートなど、すべて休止状態なので、学期がおわったら爆発的に仕事をするのだ。 あと、少し落ち着いて初歩的なことを勉強してみたいなと思っているテーマもいくつか。 あと、懸案中の懸案の統計力学の教科書に向けても本気で動き出したいなあ。 (もちろん、考えたいことを考えるのは、言うまでもない。)

夏休みが一年くらいあると、いいんだけどね・・


7/6/2005(水)

あいかわらず、予定をひとつひとつ必死で消化している(そして、その合間をぬってプールに行っている)日々なので、簡潔に。(今日も、講義からはじまって色々やっていて夕方から会議だ)

ピアニストについては半ば予想(覚悟)していたことだったが、ギタリストも脱退。 林檎ファンとしてはすなおにショックである。 おそらく「東京事変」の新メンバー選びが着々と進んでいることだろうが、そこで思い出すのが、セミプロのバンドでギタリストとして活躍している、かつての教え子の TAxxKI(←この伏せ字だと Tasaki のようだが、ちがう)のこと。 もし、お声がかかって「事変」の新ギタリストになったら、ぜひとも林檎さまに紹介していただきたいものである。 よろしくね。

と書いてから、つらつらと考えるに、TAxxKI には彼なりに目指す音楽があるはず。 たとえ、林檎、亀田からアプローチがあったとしても、メジャーに流れて自分の目指すものを曲げてよいものか? あえてメジャーにならず自分のやりたいことを着実にやっていくのがベストというのが、わたしが身をもって彼らに教えてきたことではなかったかっ!??

というわけだから、TAxxKI 君。 「東京事変」からオファーがあっても、ぼくのためを思って、無理に受ける必要はないからな。 自分のなっとくする音楽をやってくれ(ついでに、いつも言っているが、君は何でも要領よくこなせて人付き合いもうまく、かつ学習院物理学科の本格派の教育課程を終え、卒業研究で最先端の現場も体験しているのだから、その利点と長所をいかす道はたくさんあると思うぞ。そのことも忘れないでください。あと、ほんとについでですが、バンド活動のなかで、もしたまたま林檎さまとお知り合いになったら・・・)


郵便を見に行くと、大学の本屋さんから、一ヶ月限定の「国書刊行会書籍の15パーセント値引」の案内がはいっていた。

多くの本好きの人にとってそうだろうが、ぼくにとっても、「国書刊行会」という出版社の名前は独特の魅力をもっている。 学生時代、ラテンアメリカ文学のシリーズ(やたらかっこいい装丁だったなあ)などを、(お金がないのに)せっせと買い集めた愉しい感覚はよく覚えている。

今日はとてもよく働いているし、これからも働くし、会議までの小一時間のあいだくらい本を見に行ってもいいのではないかという、いわゆるひとつの「自分へのちょっとしたご褒美」感覚で本屋さんにふらふらと足を運んでしまう私であった。

どうせ趣味にあうものはないさ、というようなオチをも想定していたのだが、行ってみると、ボルヘスとかレムとか、ぼくにとって永遠の魔力をもっている著者たちの本がちゃんとあるではないか。 えらいぞ、本屋さん。

しばし立ち読みし、悩んだあげく、前からほしいと思っていたレムのエッセイ集「他界しろ」じゃなくて「高い城」を購入。 財布の中身がもともと少なかったので、ほぼ空になりました(←妻への私信)。


あぴー。

全学の会議だから、Tシャツにジーパンはちょっとまずいだろうと思って、(穴のあいていない)ジーパンとポロシャツという準正装でのぞんだわけだが、行ってみると、学部長とか、女子大長とか、学長とか、学習院長とか、いろいろな人のでる大きな会議で、男性は全員(より正確には、ぼくの視界に入ってくる男性は全員)画一的にネクタイをしているではないか。

ううむ、困ったなあ。

と、儀礼的に書いては見たが、内省してみるに、別に微塵(みじん)も困ったなどとは思っていないようです。


7/8/2005(金)

「物理数学1」の最後の講義。

これで、「教員になってからもっとも大変だった一学期間」のすべての講義がおわった。

あとは試験がおわれば夏休みだ、と話していたら、

「試験がおわったら、勝手に夏休みに入っていいんですか?」
とたずねる T 君。 たしかに、高校までなら終業式があるもんね。 (質問は)かわいかったぞ。
少し前の雑感(6/23)で
アインシュタインが 1905 年の光量子仮説の論文でなにをやったかが、おどろくほど認知されていないことに驚く。
と書いたのは、講義のために Pais のアインシュタインの伝記で勉強した歴史と、あちらこちらに書いてある解説が、あまりに激しく食い違っているのに驚いたから。

そのあたり、どうのような食い違い(というより、あちらこちらの解説の間違い)を説明し、また、その間違いの元凶を探りたいと思っていたのだが、そうこうするうちに、前野さんがそのあたりのことをかなり詳しく書いて下さった。 この4日の日記以降を読むとだいたいのことがわかるはず。

しかし、時をほぼ同じくして、前野さんとぼくが一般に流布している「歴史」の嘘に気づいたというのはものすごい偶然 --- と言いたいところだけれど、二人とも講義でアインシュタインの話をするにあたって Pais を勉強していて「あれ?」と思ったのであった。 「奇跡の年から百年」なんてどうでもいいとも思うが、こういう有益で楽しい副産物が出てくるのはよいことだ。


7/9/2005(土)

泳ぎ終えてプールサイドにあがると、珍しく体が冷えたような気がしたので、プールのすぐ横にあるサウナ室に入ってみることにした。 誰もいないサウナ室のドアを開けると中から音楽が聞こえて来る。 バッハの(管弦楽組曲三番の)アリアが流れているのだが、それにのせて(黒人?)女性の声で

Everything's gonna be all right.
というコーラスがくり返される。 この手の「古典の再利用」は(一般には)好きではないのだが、確かに絶妙のバランス感覚を保っていて、ボイラーの音に紛れてかろうじて聞こえてくる音楽を聞くとはなしに聞いていると、それなりの快感がある。

異様に蒸し暑いサウナ室の中で、ボイラー音+アリア+女性ボーカルを聞きながら、ぼくは、ごく自然に、何年か前に見た映画のあるシーンを思い出していた。 あのやたら暑かった夏のある日、ぼくとガールフレンドは、学校をさぼって新宿の映画館に行った。 思ったより早く新宿についてしまって冷房の効きすぎた喫茶店で時間をつぶしていたのを覚えている。 ぼくらが見たのは、いわゆる「夏 EVA」であった。 二部構成のうちの前半は、物心ついたころから鉄腕アトムを見て育ち、ヤマトの本放送を毎週楽しみにみていたぼくにとって、ずっと求めていたものの一つの姿だったかもしれないと今でも思う(ぼくは大人なので、後半については語らない)。 テレビシリーズの「思わせぶり」を思いっきり引きずった緊張感のつづく展開、ぼくにってもっとも魅力的な登場人物だったミサトの活躍と結末、そして、ラスト近く、究極のエリートでありながら限りない屈折を抱えた美少女アスカの殺伐としつつも美しい孤独な闘いのシーンは、SF アニメの一つの究極の姿を体現していたと言っていいだろう。 その凄惨なシーンのバックにバッハのアリアを流すという趣向は、ある意味で凡庸かも知れないが、凡庸さをこえた成功だった。

これまでバッハのアリアを聴いても、とりたてて EVA のシーンと結びつくことはなかったのだが、この女性ボーカルとの取り合わせのもっている何かとサウナ室の熱気が、あの印象深いシーンとアリアの組み合わせをぼくの記憶からよみがえらせたのだろう。 ボイラー音+アリア+女性ボーカルを聞きながら、ぼくは、アスカが量産機を次々と倒していく光景を、ありありと思い出していたのだった。

しかし、プールで泳いで息が上がっているぼくにとって、サウナの暑い空気も、アスカの戦闘シーンも、あまりに重く濃厚だった。 ぼくはすぐに我慢できなくなり、サウナ室を出ると、プールサイドで冷たいシャワーを浴び、更衣室にむかう階段をのぼった。

更衣室にも音楽は流れていたが、それは、アリアではなかった。

(上のどーでもいい文章の一部に、年齢詐称にあたる部分があることをお詫びします。)


7/11/2005(月)

と、二時間おきに予定がある。 まるで忙しい人のようではないか(というか、忙しいのだ)。
学習院に教員として勤務して実はすでに十七年になるのだが、女子部・女子大のキャンパスに足を踏み入れるのは、はじめて。 お堅いお嬢様学校の教壇に立つのだからということで、(最初アインシュタイン T シャツで行こうかと思ったが、今回ばかりはそれはやめて)ネクタイこそしていないが、カッターシャツに綿パンという、普段とはかけ離れた姿で(やたら暑い中、汗をかきながら自転車をこいで)女子部へとむかう。

二十数人の高校二年生の女の子たちに、「アインシュタインが百年前に考えていたこと」という題で、奇跡の三論文すべての概要とそれが如何に現代の物理にかかわるかを五十分で話す --- という、うまくいったら、それこそ奇跡に近いようなプランであったが、プランの無茶苦茶さの割りには、なんとかなったのではないかと思う。

光量子仮説の説明のあとは、まさに光が粒であることを最大限に利用した最先端の研究として、平野研の量子暗号の装置の写真をみせる。 次に、ブラウン運動と分子の実在の話のあとは、西坂研の顕微鏡の写真とブラウン運動の画像を見せて彼女たちの先輩の活躍ぶりを教え、それから溝口研の STM の写真とそれで撮った結晶表面の原子配列の画像をみせる。 最後に、相対論の簡単な説明と宇宙論だブラックホールだという話のあとは、井田さんの加速器によるブラックホール生成の論文をちらっと見せたあと、机にすわっている井田さんの写真を出して、「ここが研究装置ね」と彼の頭を指さしてオチをつけたところでちょうど五十分。 高校の小さな黒板に、いっぱい板書してきました。

大爆笑みたいなリアクションはもちろんなかったけど、みなさん一生懸命聞いてくれたと思います。


夏休みに入ったら仕事をしまくるべく、試験の準備、会議の準備などを着々とこなし、またずっと懸案だった長い長い論文のレフェリーレポートも無理に時間をつくって送ったのだが、そうはさせじとばかりに、レフェリーレポートの依頼が二つ届く。 一つは依頼ではなく、ずっと忘れていたのの催促だから断れない。 もう一つも、なかなか、断りがたい状況。 闘いだ。
7/14/2005(木)

月曜の ドキドキの 女子高等科出張がおわって、本当にすべての授業がおわったわけだが、まだ期末試験やら会議やらが色々とつづく。 しかし、気分はもう夏休み!! というわけで、有無をいわさず懸案の仕事をびしびしと、異常なまでの能率で、こなすのである。

まずは二つの中くらいの重さのレフェリー。 固体電子物性に近い話と、非平衡系への仕事の話。 私の研究テーマの昔と今、みたいな感じになっているが、ともかく、会議や試験監督の時間にもどんどん論文を読み、手を抜かず内容をフォローし、どちらも詳細なレポートを書き上げて送り返す。

もう一仕事もやっつけ、次は、Elsevier の Encyclopedia of Mathematical Physics の記事の修正。 前の原稿にもらったコメントを反映するためのちょっとした書き直しだ。 学期中は、この程度のことにも手がつかなたかったのだが、今になってはじめるとすいすいと進む。 空き時間(?)には、第二法則の仕事の論文もいじる。


9 日の駄文について、「ガールフレンドと夏 Eva じゃ、時間軸があってないんじゃないですか?」という期待通りのつっこみをしていただく。 まったくそのとおりで、正確には、(元ガールフレンドであるところの)妻と二人で、子供たちにないしょで見に行ったのでした。

「夏 Eva なんて、つい最近じゃないですか」とおっしゃるので、そうですねと受け答えしていたけれど、調べてみると、あれはもう八年も前の夏なのだ。 最近とか言うと、思ったほどお若くないのかなどと邪推されてしまいますよ 時のたつのは速いですねえ。


あ、Elsevier のやつ、もう終わった。速っ。 思ってたより楽だったのか、はたまた、水泳で基礎体力がついて仕事が速くなったのか?

この勢いで、(成り行きで引き受けてしまってちょっと後悔している)数理科学の原稿もやるぞ。


5月号の Physics Today をさっき開いたら、The Second Law of Thermodynamics というのが載っていて、これは商売上、読まないといけないのかと思ったら、Alan Lightmanという、物理から転身して小説家になった人の短編小説であった。 じゃ読まなくてもいいかと思ったけど、つい気になったので、(仕事もはかどっていることだし)読んでしまった。 構成も上手だし、すなおに引き込んで、どんどん読ませる小説だと思うけど、ま、内容や(真の)感想には(ネタバレにもなるし)踏み込まないことにしよう。
7/15/2005(金)

和気藹々(わきあいあい)の楽しい雰囲気ではじまった「物理数学1」のテスト。 この調子で、受験者全員合格という教員の夢をかなえてほしかったのだが・・・

試験監督をしながら、数理科学に書く「格子ガスの相転移と Lee-Yang のゼロ点」についての解説の構想を練る、というより、時間がないので計算や下書きをはじめる。 どうせ書くからには、統計力学という分野をまったく知らない人に、この分野のすごさと魅力を感じてもらえるようにしなくてはならない。 というよりも、そういう理由でこそ引き受けたのだと思う。

ひたすら作業 → プール → 作業 → 作業終了。

さ、(大学院入試とオープンキャンパスはあるけど)ほんとに夏休み。


7/17/2005(日)

あれ? 数理科学おわってら・・

一昨日は書き殴っただけで、実質的には昨日はじめたわけで、しかも昨日はほかにもいろいろとあり、今日はプールも行ったし(←非常に気持ちよく汗をかいた。ようやく体が馴染んできた気がする)久々に夕食にワインを飲んで、それから女子バレーの試合も少し見たんだけど、ともかく、おわった。 印刷して表現もなおしたし、あちらのフォーマットで分量も調整したし、9 サイトの系の Lee-Yang ゼロの数値計算を MATHEMATICA でプログラムしてやらせてグラフも作ったし、あとは実験のグラフをもらってきて張り込むだけ。

手抜きじゃないよな。

構想どおり、Lee-Yang ゼロ点と相転移についての急がない解説になっている。

もちろんもともとすばやく仕上げるつもりだったけど、その自分の予想よりもずっと早く仕上がった。 びっくり。 やっぱり、水泳の効果というのは、絶大なんだろうか --- というのはおそらく違って、ここ一年くらい、異常なペースで講義ノートをつくっていたのがよかったのだろう。 イメージ+論理+日本語+数式を TeX でまとめ上げるという技量がきわめて向上したにちがいない。

などと言ってないで、次の仕事をしようっと。I've gotta switch to a different mode.


7/19/2005(火)

ずっと不調で、だましだまし使っていた洗濯機が、今朝、ついに完璧に故障してしまった。

考えてみると、高校生の息子とほぼ同い年で、二度の引っ越しを経験しているのだから、よくぞ今まで動いてくれた、というべきだろう。 堅実な製品を作り出してくれた技術者たちに感謝するとともに、洗濯機のマニトウに哀悼を捧げたい(←適当に書いているので深く考えないで)。

しかし、今朝の最後の洗濯では、どうにかこうにか衣服を洗うことはできたが、まったく脱水ができずに全行程がおわってしまった。 一応きれいにはなっているものの、水でびしょびしょの洗濯物の山。 いったい、どうすりゃいいんだ? これをコインランドリーに運ぶわけにはいかないぞ。 なすすべを知らず、しばし呆然としてしまう私であった。

が、濡れたタオルを取り出したとき、田崎の手が自然に動いた。

しぼれば、いい
逆転の、発想だった --- というほどのこともなく、考えてみれば、当たり前。 むかしは脱水機なんかなかったんだから、手でしぼるしかなかったんでしょ。 そーいえば、子供の頃、家で使っていた洗濯機には、横にローラーが二つついていて、母親がそこに洗濯物をはさんで水をしぼりとるのを面白くみていた記憶がある。 ローラーにはさめないようなものは、手でしぼっていたんだろう。 さらに時代をさかのぼれば、曾祖母なんかはタライと洗濯板を使ってひたすら手作業で洗濯をして、すべてぎゅうぎゅうと手でしぼっていたのを面白くみていた記憶がある --- わけはねえか。
7/22/2005(金)

早起きして出勤し、会議などいろいろあり、気疲れした一日。

こういうときは、疲れていてもかえってプールに行って体を動かしたくなるものだ --- などという台詞(せりふ)がぼくからでるのだから驚き。 体の使い方に直結する習慣というのは、みごとに人を変えるものなのだなあ。

カレンダーにプールに行った日をプロットしてみると、はじめて行った 6 月 9 日の次の週からは、驚くべきことにちょうど週に三回ずつ通っていることがわかった。 別に数えていたわけではないが、まったく過不足なく週三回になっていた。

今週だけは、すでに週四回目。

たしかに夏休みだ。


さて、このように、とつじょとして水泳に目覚めた私に対する周囲の人々の反応を記録しておこう。
高麗さん:「週に二、三回プールなんて、もうスポーツマンじゃないですか。」

川畑さん:「ああ、あの『健康のためなら、死んでもいい』というやつね。」

井田さん:「ぶふっ」(←スポーツ健康科学の新しい施設の話題になったとき、ぼくが唐突に「あ、プールはいいですねえっ」と発言したため、教授会の途中で吹き出した)


7/23/2005(土)

今年の学習院大学オープンキャンパス第一回。

ぼくは学科紹介と研究室ツアーのガイドの係なので、朝から出勤。

入試相談をやっているホールに行ってみると、在校生が相談に応じる窓口は盛況なのに、教員がすわっている窓口はガラガラ。 たしかに、近い立場の学生さんから話を聞きたいと思うのは自然かもしれないけど。


午前と午後の二回、学科紹介をし、ツアーのコンダクターをつとめる。 学生さんのアルバイトも充実しているので、ツアーについてまわる必要はないのかもしれないんだけど、こういうときは、何故か「サービス、サービス」モードになってしまって、ああだこうだと説明したり質問に答えたりしながら、がんばってしまう。 寸暇をおしんで研究しているはずなんだけど、不思議。 サービス業の血が流れているのか?

いずれにせよ、みなさん --- 特に学生さんたちの --- ご協力を得て楽しい研究室見学ツアーになったと思います。 ご協力ありがとうございました。

ツアーのとき、「息子さんもご両親も田崎のファン」とおっしゃる方にお会いし、ひたすら恐縮する(←「わははは、そーですか、ファンですかっ!」とか言うわけにはいかないしねえ)。 お父様にはお会いできませんでしたが、どうかよろしくお伝えください。


今日も、疲れたなあと思うとプールに行きたくなる。 日、月、水、金、土と、プールに行きまくりの一週間。小学生のようだ。

疲れているので、100 メートル(クロール50、平泳ぎ50)を泳いだら、横のコースで水中を歩いたりプールサイドにあがって休んだり、というのをくり返していたら、けっきょくトータルで 1000 メートル泳いでしまった。

私の基準からすれば、信じがたいできごとである。


7/24/2005(日)

今さらですが、今年の上半期、特殊相対性理論の入門的な講義をした人は皆、ある強い誘惑とたたかっていたはずである。 もちろん、かく言う私を含めて。

互いに等速直線運動をしている二つの慣性系でものごとを観測することについて、スタンダードな思考実験を考えよう。

今、地上にいる人たちを A, B, C としよう。 この人たちが、等間隔に同期した時計をもって並びたいわけで(中略)

同様に、電車の中にも、D, E, F という人たちがいる。 電車は、ずーっとこっちの方から走ってきて、その中で、三人は物差しを使って、等間隔に並ぶ位置を決め、また、それぞれの位置に固定してある時計を、さっき説明したみたいに光を使ってばっちり同期させる。 この間、電車はずーっと同じように走り続けているところがポイント。 こうして座標系を設定しておけば、あとは観測地点に来るまでは、三人とも好きにしていていい。 ぶらぶら歩いたりしててもいい。 そーしてるあいだに、なんかいっしょに電車に乗っていた酔っぱらいが E にちょっかいを出したりして、それを D が助けたりとか、してだな・・・・

と、いうわけだが、しかしわからない人にはまったくわからないし、なかなか落としどころも、むずかしい。
D: おれ、観測とか相対論のことをずっと友達に相談してたんだ。

E: いいお友達なんですね。

じゃ誰も泣かない。

(わけがわからないと思われた方への補足:「D = 電車男、E = エルメス」なんですが、そう言われても、やっぱりわけわからないと思います、すみません)


7/25/2005(月)

ふと朝永振一郎「量子力学と私」というのを手にとってひらいてみると、冒頭に「鏡のなかの世界」というエッセイがあって、

鏡にうつった像は左右がひっくりかえるが、上下はひっくり返らないのは、なぜだろう?
という、めちゃくちゃよくある疑問が論じられていることに気付いた。

論じられているのだが、どうも、気に入らない。 「物理学者というのは、こういうことも延々と議論する変な人たちなんですよ」みたいなことをおっしゃりたいようだけど、こういうのを延々と議論するのは別に学者だけじゃないでしょ。 それにですね --- たいへん失礼ながら、朝永先生 --- これは延々と議論するような問題でなく、落ち着いて、事実と心理的な要因を分離すれば、あっさりと片が付く問題だと愚考します。 けっきょく、朝永エッセイにも、最後の方に正解が書いてはあるのですが、どうもシャープさに欠ける。

やはり気に入らないので、わかっている人には言うまでもないことなのですが(そして、以下の説明の一部の表現は、何人かの人から web 掲示板などで教えてもらったものなのですが)、なんとなく気が向いた機会に、まとめて書いておこう。


ぼくはせっかちなので、まず結論を言ってしまうわけだが、
鏡のなかでは左右がひっくりかえる
という主張は、ほぼ、まちがい。 ちょっと譲ってまちがいじゃないとしても、きわめて混迷した言い方になっている。

じゃ、何がひっくりかえるかというと、

鏡のなかでは前後がひっくりかえる
というのが正しい。
なっとくするために、鏡の前に立とう。

鏡の外の世界で、上と下をみると、上には天井、下には床が見える。 次に、鏡の中をのぞき込んで、上と下をみると、やはり、上には天井、下には床。 たしかに、上下はひっくりかえらない。

次に、鏡の外で、右を見ると階段があり、左をみると台所があるとしよう。 鏡を斜めからのぞき込んで、あちらの家の間取りを調べてみると、やはり、右に階段があり、左に台所がある。 左右がいれかわったりは、していないのだ。

さて、鏡の外の世界では、立っているあなたの後ろにお風呂場がある。 鏡の中をのぞいてみると、あら不思議、あなたの前方に、あっちの家のお風呂場ある。 つまり、前と後ろは、いれかわってしまったのだ。


あるいは、別のなっとくの仕方。

それぞれ東西南北上下と書いた六本の矢印を、それぞれの方向に向けて、「三次元版道しるべ」みたいなものを作ったとしよう。 あなたは北を向いていて、目の前に、この「道しるべ」を置く。 そして、あなたの正面には鏡がある。

鏡にうつった「道しるべ」はどうなっているか?  明らかに、上下は正しいし、考えてみれば、東西も正しい方向を指している。 おかしくなるのは、南北で、これは現実の方位とは、ちょうど逆を指している。

いれかわったのは、「左右」に対応する「東西」ではなく、「前後」に対応する「南北」だった。


以上は、むずかしい言葉を使わない、小学生にもなっとくできる説明だった。

ちょっと抽象的に考えれば、以上のことは自明。 上下も左右も、鏡の面と平行な方向に過ぎないので、これらは基本的に等価。 鏡の面に垂直な方向である前後は、これらと異なったふるまいをしてよいのだ。


じゃ、なんで世間では
鏡のなかでは左右がひっくりかえる
ということになってしまって、それが中学入試の理科の問題に出題されてたりまでするのだろう?(こういうことを理科の問題とする精神には大いに問題があるのだが、それはまた別の話題。)

正直なところ、ぼくは、人間が直感的に「鏡のなかでは左右がひっくりかえる」と感じているという意見にはかなり疑問をもっている。 虚心坦懐に鏡をみていても、鏡のなかの世界はあくまでああいうちょっと不思議な世界だ、という以上のことは感じないと思うのだ。 わざわざ「右と左がひっくりかえっている」とかいうのは、なんとなくそういう話をしつこく聞かされているからなんじゃないだろうかとさえ感じる。

じゃ、なんでそういう話になったかというと、これには、単なる言葉の問題と、もう一つ、人間の体の対称性の問題がある。


鏡の世界のなかでは、上下、左右がひっくりかえらず前後だけがひっくりかえったことによって、パリティー(偶奇性)が外の世界とは反転してしまう。 つまり、文字が裏文字になってしまい、右巻きのネジが左巻きのネジになってしまう。

これは左右の反転とは別のことなのだが、あえて「左右」という言葉を拡大解釈して、パリティー反転のことを「左右がひっくりかえった」と表現しているのだ、というのが一つの見方。 これは、一つの正解だと思う。


もう一つの論点には、今までわざと登場させなかった、「鏡のなかにうつった自分」がかかわってくる。

さっき、「鏡のなかをのぞいても、台所は左にある」と書いた。 このときには、もちろん、鏡の外にいる自分にとって左のことしか言っていないわけだが、「鏡のなかにいる自分の立場に立って左右を考えたらどうなるだろう」と思い始めると混乱のはいる余地がある。 鏡のなかにいる自分にとっては、どっちが左なのかという基本ルールを決めるときに

  1. 左手の鏡像がある方が左
  2. 鏡は実はガラスで、自分の像だと思っていたのは、自分とそっくりの俳優だったとして、そいつの左手の側が左
という二つの解釈ができてしまうからだ。

1 の解釈なら、今までどおり、左右はいれかわらないという結論になる。

2 の解釈をすると、その俳優にとっては右の方に台所がある、ということになる。 さらには、台所とか考えなくても、こっちが鏡の前で右手をあげたら、その俳優は左手をあげなくてはいけない。 こう考えると、「左右がいれかわった」と言いたくなるわけだ。

しかし、そもそも 2 の解釈というのは、あまり普遍的なものではないことに注意。 たとえば、人間も(ある種のザリガニかなんかみたいに)右手だけがやたら大きかったりしたら、鏡をのぞいたとき、2 の解釈はぜったいにしない。 そもそも、俳優がガラスの反対側に行って鏡像の真似をするなんてことは、できない。 そういう連中のあいだでは、「右手」を表す言葉が「でかい手」とかになっているだろうし、鏡のなかでも外でも、(ザリガニでも階段を使うとして)階段は「でかい手=右手」の側にあると自然に解釈するだろう。

つまり、解釈 2 は、たまたま人間の体が(外見上は)ほぼ左右対称になっているために混ざり込んでくる考えにすぎないわけである。


以上をまとめれば、 ということ。

オチも結びの言葉も思いつかないけど、ともかく、そういうこと。


補足:「なぜ『左右がひっくりかえった』と思う人が多い(らしい)か」という方については、心理的な問題でもあるので、実に様々な論点がありえますね。 まわりの景色や間取りのことを考えず、ただ自分の姿を鏡にうつした場合に限定しても、いろいろと仮説が出せるけど、それらを列挙したりはしません。 いつも足を下にして歩いている、という人間の暮らし方も影響しているのは確実。

あと、床とか天井が鏡になっているときは、ほとんどの人が「上下がひっくりかえった」という正解を出すでしょうね。 これも、あまり首尾一貫していない。 ひょっとすると、人間にとって直感的な座標は「上下と左右」の二つ(「前後」が抜けている)なのかもしれない。 普通の鏡の場合は、明らかに上下はひっくり返っていないので、残る左右が(誤って)ひっくり返っていることにされてしまっているが、天井が鏡なら、はじめから上下がひっくり返っているととらえる、というのはどうだろう?


今日もけっこう忙しい一日だったが、早めに大学を切り上げてプールに急ぐ。

が、着いてみると自転車置き場もガランとしていて、いかにもやっていない。 月末の月曜日は休館なのだった。

「月末の月曜は休み」という知識はもっていたのだが、なんとなく休館日なんてずっと先のような気がしていた。 公式を暗記しいていても実際の現場に適用できない、というやつだ。


仕方がないので、夕食前に一人でちょっとだけ散歩にでかける。

蒸し暑く、台風の接近を予感させる風が吹いている。 それでも、家から少し歩いて、遠く新宿のビル街を見渡せるような高台に大きな家が並んでいる一角につくと、とても気持ちがいい。 前に妻と来た道を少し歩き、少しだけ新しい道を開拓する。

帰路につくころには、街に灯りがともりはじめ、空と人工の灯りが絶妙のバランスを保って同じくらいの明るさになる、あの一種独特の時間帯になっている。 アホみたいだと思うけれど、この時間帯には、ただ街中にぼけっと突っ立ってあたりを見ているだけで、なんか寂しいような懐かしいような、変な感じになってしまう。

むかし(翻訳で読んだ)サリンジャーの中に、こういう時間帯についての絶妙の表現があったのだけれど、どの小説だったか忘れてしまったまま何年も経っていた。 最近、Salinger の(個人的な)再ブームで英語の小説をずっと読んできて、今日の早朝、いったん目が覚めたあと眠れなくなって起き出して SEYMOUR --- An Introduction の最後の方を読んでいて、ようやくその部分との「再会」を果たした。

できれば暗唱してしまいたいくらいなので、その部分を引用しておこう。

One late afternoon, at that faintly soupy quarter of an hour in New York when the street lights have just been turned on and the parking lights of cars are just getting turned on --- some on, some still off --- I was playing curb marbles with a boy named Ira Yankauer, on the farther side of the stide street just opposite the canvas canopy of our appartment house (p201).
あるいは、もっと簡潔に、
At that magic quarter hour, if you lose marbles, you lose just marbles (p202).
おまえがいるのは東京で会って、ニューヨークじゃないだろとお思いかも知れないが、この「魔力の時」には普遍性がある。なぜか知らないが、この時間だけは、東京もニューヨークもきっと他の街も、同じ不思議な空気に包まれるのだ --- 何年か前に家族で滞在した夏のニューヨークの夕暮れの空気を思いだしながら、そんなことを考えるのであった。
7/26/2005(火)

台風が来るらしいので、在宅で仕事(研究のまとめや論文関連の仕事)ができる体制を整えてある。

そして、実際、朝から情け容赦なく(誰に対する情けや容赦だろ?)仕事をする。 けっこうはかどるではないか。


というわけで、いつもより早く三時頃からプールに行く。

台風が接近しているので、ガラガラの貸し切り状態だったらどうしようと思ったのだが、たしかにすいてはいるが、お年寄りを中心に確実に人がいた。

例によって、最初は少し泳いだだけでばて気味になるのだが、しばらく泳いでいるうちにだんだんと調子が出てくる。 けっきょく、なんだかんだで、100メートル泳いでは歩いて休憩というのを十回くりかえし、通算で 1000 メートル泳いでしまった。

そうなると体も暖まって調子がでてくるので、もう少し泳いでみようと思い、ゆっくりと泳ぎはじめると、なんか知らないけど、やめられなくなってしまう。 もう終わりだろう、もう終わりだろうと、思いながら泳ぐのだが、コースの終わりまで来て深呼吸すると、ついつい、また泳ぎだしてしまうのだ。 けっきょく、一度も休憩せずに 500 メートル泳いだところで、さすがにやめようと思って、完泳コースから出た。

これが運動をしていて、ハイになってしまうという現象なのだろうか?  たしかに、泳ぎ続けているうちに、なにがなんだかわからなくなり、かつ筋肉の中で何かが燃えているような感触があり、それが無性に快感。 一種のトリップだな。 四十代なかばにしてはじめて経験する危険な世界である。


7/28/2005(木)

夏休みを満喫(いくつかの仕事をおえて、ついに大物である Sasa-Tasaki の改訂にとりかかり、それに関連して、自分なりに線形応答を導いたり破れ方を整理したりして楽しんだり)していた私のところに、 [148 reports from Komaba]

ゆうパックが届きました
押印又はサインの上、ご受領下さい
という事務からのメール。

駒場の「現代物理学」のレポートだろうとは思うが、なぜに「ゆうパック」? 例年はふつうに大きい封筒で来るのに。

渡されたものをみて、心の底から、ショック。小型の段ボール箱にずっしりとレポートがつまっている。 封筒ではなく、立派な小包だ。 履修者が多いのは知っていたが、これほど多くの人がレポートを出してくるとは。

レポートの内容も、相対論、ブラウン運動、光量子仮説におよび多彩。 なかには解答者が自由に設定をつくって自分なりに計算するような問題もある。 相対論は、考えているといろいろおもしろい問題があったので、興に乗って、ついついたくさん出題してしまった。 しかも、レポート問題は、ほとんどアドリブで出しているので、出題するそばから忘れてしまっている!(久々に字をでかくしてしまった。むかしの「日々の雑感的なもの」みたい。)

嗚呼、久しぶりに感じる、深く大きな絶望感。

しかし、ともかくこれを終えて駒場に成績を提出しなくては、私の夏休みは来ない! 科学も(ぼくの担当分は)進まない!!

やるぞ!!!

  1. ともかく封をあけた。 ガムテープをびりびりはがして開けなくてはならない。これだけでも大変な作業だ。
  2. レポートを箱から出した。 出しても出しても出てくるので、大変である。もちろん、破いたりしないよう細心の注意が必要。
  3. 大きさがまちまちであるから、整理した。 A4 のものがほとんどだが、いくつか B5 が混ざっている。これを仕分けして、並べ直す。 採点を能率的におこなうためには重要なステップだ。
  4. 一枚ホッチキスがはずれて紙がとれてしまっているのがあった。 残りを発見して、とじ直す。 これをやり損なうと、あとで大変なことになる。 本質的に重要な作業をしたといえる。
  5. せっかくだから、枚数を数えよう。定量化は重要だ。 げげげえ。 148 人分もあるよお。 (大きな教養科目を教えていらっしゃる方には申し訳ないが)これは生涯で最高の採点枚数だ(大学入試と、Princeton の Physics 103, 104 の集団採点を除く)。 ああ、どうしよー。
  6. そうだ、せっかくだから箱とレポートを写真に撮って公開しよう! ぱしゃぱしゃ。
  7. む、この写真だと、お一人だけ、かろうじてだが学籍番号が読めてしまうかも? これはまずいな。個人情報保護は今や大学教員にとっての最重要事項の一つだ。iPhoto の retouch 機能を使って修正してみよう。 おお、これは簡単でおもしろい。 まさに消しゴムで消すように文字が消えるぞ!
  8. この写真を logW に掲載し、ついでに短く説明を書こう。 大学教員の日常を世間に発信するという重要な任務だ。 これがおわったら、採点にかかることにしよう。 書いていると、ついつい筆が進んでしまうが、それは仕方があるまい。 中途半端な記事では読んでくださる方に失礼というもの。 ええと、他に書くことなかったっけ? なんかないかなあ?? なんか書くつもりだったんだけどなあ・・・
採点しまーす。
あああ、やっぱり 148 名分のレポートはちがう。 ぼくの水泳と夜テレビでやっている水泳ほどにちがう。

ともかく、パターン認識で採点できるような小問をやった。 ふつうこういうのはルーチン的にできるようになると、少しがまんして淡々とやっていると気付いたときには終わっているという感じなのだが、これはやってもやっても終わらない。ていうか、飽きる。そう、変化がないので、すごく飽きる。 飽きるので逃避してこれを書いているのだ。ちょっと悪い子だ。 でも、これだけで終わりにして、またがんばって次の問題にいくじょ。いい子だろう。日記に中身ないけど。


あ、また地震だ(19:15)。

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田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
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