日々の雑感的なもの ― 田崎晴明

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茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。


6/4/2007(月)

屈託も迷いもない青い空と、何のこだわりもないかのようにストレートに明るい初夏の陽射し。 山手線の窓から眺める雑然とした東京の街並みが、今日ばかりは、きらきらと光って美しく見える。

こんな朝には、やはり iPod のイアフォンから流れる Zard の夏の曲がよく似合う。 凡庸だとは思うが、電車の窓の外を流れすぎる風景が映画のシーンのようだ。

そして、大学に入った頃に通ったキャンパス。

あの頃の古い車で 砂埃りけって 走りだそう 太陽の街へ
あの頃、ウォークマンで同じ彼女の歌声を聴いていた自分と、今の自分がふと重なる一瞬。

ご冥福をお祈りします。

上記文章に、一部、時代錯誤あることをお詫びします。


6/6/2007(水)

朝の番組の占いコーナーで、「今日の最下位は○○座、××トラブルで大弱り」などと言っている。

おいおい、ぼくの星座ではないか。しかも、今日は学科予算を決める作業をしようという重要な日。 そんなトラブルは困るよ。


だが、しかし、予期しなかったところから、も ろ に ト ラ ブ ル 発 生。

トラブルの性質も、ほぼ占いの言うとおり。

単に、私のスケジュール管理やメールの読み方が悪かっただけの話だが、あまりに情けないミスなので、素直に落ち込む。 「スケジュール管理がダメダメでダブルブッキングしてしまったよーん」とか日記のネタにしていたこともあるが、今回は、情けなすぎてネタにもできんわい(付記:詳細は書きませんが、その後、皆さんの励ましもあって、なんとかなっています)。


こうして、占いと一致するような体験をしてしまうと、「占いが当たった」という記憶ばかりが強く残り、占いを信じる心を育てるのであろう。

この私でさえも、占いの威力に圧倒されそうになりながら(←誇張あり)、ふらふらと多忙な一日の予定をこなしていく。

用事で会った△△さんに、思わず「かくかくしかじかのトラブルがあったんだけど、朝の占いの通り」と話す。すると、「あ、田崎さんも○○座ですか? ぼくもですよ」とのお答え。へー、そうなんだ。 次に自動販売機の前で出会った◇◇さんにも占いとトラブルのことを話す。なんと彼も「あ、ぼくも○○座ですよ」と。 そして、△△さんも、◇◇さんも、多忙ながらトラブルなど何もない一日を過ごされていたようである。楽しそうだったし。

こうして、一人で心の内にしまっておいたりせず、無節操に人に話しまくれば、けっきょく、占いの結果などどうでもいいという心が育つことになるのであーる。


6/9/2007(土)

今日の「応用物理学特論」の講義は、菊池さんによる「ニセ科学」。

前々から宣伝していた(昨日は、一人で貼り紙を貼って歩いた)効果もあり、土曜の午後にもかかわらず南 2-200 がさらりと一杯になる盛況。

講義は、ニセ科学をめぐる一般論、ケーススタディー、より広い視点からの一般論という三部構成。 彼の話は何度か聞いているわけだが、これだけまとまって聞くのは、はじめて。 私も「ニセ科学」批判をやっていることにはなっているが、知識の広さ、考察の深さでは、菊地さんには遠く及ばないのである(そもそも、ぼくは菊地さんらの活動をサポートしているという認識でやっている)。 おお、なるほどと教えられるところも、少なからずあった。 笑いの取り方も含めて。

はじめ、質問が出なくて焦ったのだが、いったん一人が質問すると、あとは次から次へといろいろな質問や意見が出て、大いに盛り上がった。よかった、よかった。 いくつか、きわめて深い質問もあり、私も大いに考えさせられた。


講義のあとは、こっそりと、もぐりで聴きに来ていた T さんや S さんらを交えて雑談。

S さんは、ずっと前にネット上で知り合って長いつき合いの人である。 ただし、現実に出会ったことは一度もなかった。 予期せず現実世界に出現されたので、大いに驚いてしまう。

しかし、こうしてヴァーチュアルな世界のつき合いだと思っていた人たちが、次々と現実世界に出現してくるのは不思議な感覚である。 なんか、混乱しそう。 この調子で行くと、セイラさんとか、葛城ミサトさんとかも、ひょっとそこいらへんに現れたりなんかしたりして(←広川太一郎さんの声で)。


夜は、菊地さんが知り合い(←ぼくたちも、いちおう知っている人)のライブを聴きに新宿に行くというので、妻と私も同行。

同世代のアマチュアロックバンドの演奏を聴くのは、おそらく、大学の一、二年生の頃以来だ。 かつて、同世代のバンドというのは、学生バンドだったわけが、今や、同世代のバンドというのは、おじさんロックバンドを指すのである。 (大学時代の外挿で)予想していたのと比べると桁違いにうまいので驚く。 テクニックもさることながら、肩に力が入りすぎない、こなれた演奏の空気が、さすがである。

若者が演奏する「ハードロック」も聴いたが、このジャンルが(フォークなんかと同じように)完成した一つのフォーマットになって続いているということを認識する。


6/11/2007(月)

「パリティ」に依頼されていた翻訳をようやく脱稿。

Murray T. Batchelor, "The Bethe ansatz after 75 years", Physics Today, Janurary 2007, p. 36.
という Bethe ansatz(ちなみに、ぼくの訳語は「ベーテ仮設」。「仮説」じゃないところに注意)の解説を翻訳した。 決してむずかしい翻訳ではなく、実質的にかけた時間は大したことないのだが、なにせ、主任になりたて、星座占いも当たってしまうという厳しい時期だけに、そもそも翻訳に時間を使おうという心持ちになれることが少なく、頼まれてから、(今、調べたら)四ヶ月近く経ってしまった。 関係者のみなさまには、ご迷惑をおかけしました。お許し下さい。

しかし、そんな状況のくせに、どうして翻訳を引き受けたのかという疑問をもたれる方もいらっしゃるだろう。

私もそんな人の一人である。

もう圧倒的にすばらしい解説で、これをぜひとも自分の手で訳して日本の若者に読んでもらいたいと思った --- というのとは、ちょっとちがう。 もちろん専門家によるちゃんとした解説なわけだが、いささかむずかしいし、かといって正確に分かるわけではないし、歴史的な記述も完全に平等とはいえないようだ。 さらに「最近、ハイテクの実験ができるようになったので、厳密解にも光があたる!」という論調も(もちろん、Physics Today や「パリティ」的には、完璧にオッケーだろうが)、ぼくの趣味とは合わない。

発作的に引き受けてしまった最大の原因は、実におそるべきことに、翻訳依頼の手紙が届いたちょうどそのとき、ぼくが、たまたま

別宮貞徳「さらば学校英語 実践翻訳の技術
という本を読んでいたことなのだ。 ぼくは(ちょろちょろ翻訳をやっていた割りには)翻訳についての本は(2001/2/18 の日記(←この最後に、サリンジャーを英語で読みたいと書いている。けっきょく、その後、主要作品は、ぜんぶ英語で読んだ)に書いた「翻訳夜話」を除けば)一冊も読んだことがなかった。 まして、この手の「翻訳技術」と銘打った本に目を通すのは本当にはじめて。

で、いろいろと感心したり、思い当たるところを感じたりしていたわけである。 とくに、「実践翻訳の技術」には、みじめな誤訳の例がたくさん挙がっているのだけれど、その英文を、正解を見ないで自分で訳してみて、ほぼ全部ちゃんと訳せることを確認して、安心したりしていたのだ(単行本を訳したんだから、そんなのできて当たり前だろという意見もあると思う。ぼくも、そう思うんだが、現状はそうではないようだ。これについては、また気が向いたら書く)

ちょうど、そういうところに、ごく短くて簡単そうな翻訳の依頼が舞い込んだので、ついつい、気がゆるみかけてしまったのだ。

だが、これだけでは、まだ転ばない。

ゆるみかけていた私の心に追い打ちをかけたのが、解説の中ほどにあった、晩年のファインマンの文章の短い引用だ。

I got really fascinated by these (1+1)-dimensional models that are solved by the Bethe ansatz and how mysteriously they jump out at you and work and you don't know why. I am trying to understand all this better.
おお! さすが、ディック先生。これは、訳しにくいではないか。

バチェラーの本文そのものは、翻訳者が解くべきパズルもなく、半ば機械的に訳せる(というか、科学解説なんだから、そうであるべきだと思う)。 ま、うまい・へたはあっても、誰が訳しても大きな違いはあるまいて。 しかし、このファインマンは、ちょっと愉しいパズルではないか。 なにしろ、直訳すると、

私は、これらのベーテ仮設で解かれる 1+1 次元のモデルと、如何に不可思議にそれらがあなたに飛びかかってきて機能するがあなたは何故だかわからないことに、本当に魅了されてしまった。 私は、今、これ全てをよりよく理解すべく努めているところです。
だから、これでは話にならない。 かといって、勝手に作文したのでは、翻訳にならない。

ごくごく短いながら、翻訳パズルが味わえる素材(しかも、ファインマン)だぞと思った私は、ふらふらと、何者かに(←ファインマンだと思うね)操られるように「翻訳を引き受けます」というメールを返信していたのである。 「勘弁してくださいよ、ファインマンさん」というわけだ(いや、そんなタイトルの本はないだろうけどさ・・)。

とはいえ、四ヶ月の後、平野さん、高麗さん、あと、著者のバチェラーさんにもちょっとずつお力を借りて、ともかく翻訳は脱稿した。 なんのかんのいって、Bethe ansatz については中途半端な知識しかなかったぼくには、それなりにためになった。 終わってしまえば、よい想い出。 おまけに、なんと、来月のイタリアの会議ではバチェラーさんと同じセッションで話をするので、そこで会いましょうということにもなった。 因果はめぐる糸車。 世の中、面白いつながりがでてくるものだ。 ま、ともかく、めでたし、めでたしである。

さて、で、上記ファインマンの引用を、ぼくがどう料理したか?

それがどうしても気になる人は、やっぱり「パリティ」9月号(←掲載予定)を購入して、確かめていただきたいと思います(P 誌編集部、T さん、これでいいでしょうか?)


6/17/2007(日)

みんながよってたかって作る無料百科事典 Wikipedia は、おもしろいことはおもしろいし、分野によっては優れているようだ。たとえば、芸能関係とか。

でも、少なくとも物理や数学みたいな分野をみていると、当たりはずれが大きいというか、まあ、なんというか、アレです、いいにくいけど、「あまりちゃんと理解していない人が自分の勉強したことを片っ端から書いている感」があって、使えません。極端にバランスが悪いし、統一がないし、浅いし、けっこうまちがっている。みなさんも勉強には使わない方がいい。

ちゃんとした専門家が書けばいいんじゃないかという意見があるけど、専門家がじっくりやろうとしても、基本的に誰にでもいじれるという仕様になっていると、作業がたいへんな割りに結果が思うようにならないと思われる。 最近になって執筆をやめた(ちゃんとしている)人の述懐をみると、そういう雰囲気がよくわかる。


というようなことは前から思っていて、専門家の手で、なにか代替になるようなものが web 上でできないかなということも折に触れて考えていたのだが、な、なんと、
scholarpedia
という、すごいものが作られつつあるのを知った。

見た目は Wikipedia と似ていて、もちろん、web 上で無料で公開されている。 ただし、選ばれた専門家だけが執筆できて、しかも、ちゃんとレフェリーがついている。

いや、実は、単に専門家というレベルじゃないのだ。たとえば、 Kolmogorov-Sinai Entropy という項目の場合、執筆者は、なんとシナイ先生その人。 Kuramoto model という項目は、(まだ書いていないけど)蔵本先生が書くことになっている。

要するに、単なる専門家という以上に、自分自身がそのトピックに大きく貢献しているような人に書いてもらおうという、超贅沢な企画なのだ。 これは、先を越されたというレベルではなく、さすがの私も、ひゃーと感心するしかない。 もちろん、物理の場合(とくに、基礎分野の場合)こういう方針で行けるかどうかはむずかしそうだが(今のところ、scholarpedia は物理をカバーする気配はない)、ともかく、これが充実していくのは素晴らしいことだ。 めずらしく素直だが、こういう努力をしてる人たちに敬意を表し、この企画の発展することを願いたいと思う。


ところで、scholarpedia の現時点での最高齢の執筆者というのは、実は、ぼくがよく知っている人なのである。 これを見ると96歳か。そんな歳とは知らなんだ。 ぼくがいうのも何だが、やっぱり、すさまじい人です(彼の記事はこっち)。
6/19/2007(火)

数学科の談話会に出席。

スピーカーは、今年から教授として着任された松本幸夫さん。 トポロジーの分野の大御所だ。

実は、松本さんには、ぼくが大学生の頃にお会いしたことがあり、しかも、畏れ多くも面接をしてもらって単位をもらったのだったと(記憶は朧気なのだが)思う。


「ゲージ理論の導入で、 4 次元トポロジーはむずかしい分野になってしまった」とのことで、「リーマン面の退化族(リーマン面の上に別のリーマン面がファイバーとして乗っかっていて、ところどころで、ぐちょっとつぶれているような感じのもの(←いい加減な理解))」というクラスにかぎって、もっとトポロジーらしいトポロジーの研究をしようという趣旨 ------------- だと思う。 もちろん、それだからといって4次元のトポロジーなんだから「むずかしくない」わけがない。そもそも、ゲージ理論ではしょせんは不変量ができるだけだから、最終的に多様体を分類していくためにはちゃんとトポロジーをやらないとダメだということのようだ。

大学に入り立てのころ、面白がってトポロジーの入門だけは勉強したことがあるので、なんとなく雰囲気が分かるような気がしないでもない(←めっちゃ自信なし)。 もちろん、そんな知識では、4 次元のトポロジーという一番むずかしい(より高次元のトポロジーは、ずっと易しいらしいが、ぼくは、それも勉強してない)ところのむずかしささえもわらかないわけだが、きわめて高級な「切った貼った」のトポロジーをやっている雰囲気だけはつかんだつもりになって、よしとしよう。

それにしても、松本さんが楽しそうに話して、そこに飯高さんが例の無邪気な調子でツッコミをいれて、松本さんがうれしそうに答える --- とかいう状況を目の当たりにすると、ミーハー的な喜びを感じてしまう素直な私である。


こうやって数学者の話を聞いていると、いつか研究の流れのきりのいいところを見定めて、数学の何かの分野を一生懸命に学んで、少しでも自分で研究してみたいなあ --- という気持ちになってくる。

おまえはアホかと言われるかもしれないが、Princeton の数学者 Nelson は、歳をとってから(六十過ぎくらい?)整数論かなにか新しい分野に移り、立派な仕事をしたらしい。 もちろん Nelson 先生と比べるのはおこがましいにもほどがあるが、でも、ある程度の年齢になってから新しい分野にチャレンジするのも絶対に不可能ではないということだ。

ぼくにとって数理物理と理論物理は、ほぼ天職といっていいと思うんだけど、数学にもかなりの魅力を感じてきたのは事実。 今回の人生のあいだに少しくらい数学を本気でやる時間が取れたら愉しいだろうなあと思うのであった(あと、実験も一つくらい本気でやってみたいなあと前から憧れている(要するに、欲張りだね))。


6/28/2007(木)

明らかに余裕なし。

日記も書いてない。

プールも、月の前半は、3 日、7 日、13 日、16 日とハイペースで通っていた(プリペイドカードに日付が印字されるのですよ)のだが、それ以来、行ってない。 もう、十日以上、いってない。

ああ、プールに行きたい。泳ぎたい。水着に着替えてシャワーを浴びプールサイドに立つときの微妙な緊張感。体のそれと近い水の比重と温度のなかに自然に体を浸す感覚。静かに手をかいて水の中をスムーズに進み流体力学を体感するあの快感。ああ、何もかもが皆なつかしい。

あ、いかん、書いてたらいよいよプール行きたくなってきた。いけないけど。


日常の講義と学科の事務とちょっとした研究でほぼ日々が埋まっていくのだが、実は 7 月 8 日から、イタリアに行って統計力学の国際会議に出てくる。 しかも、会議が終わる前にあちらを出て、13 日に戻ってきて 14 日には大学院入試の面接をやるという、まるで多忙を売りにしているおっさんのような、アホみたいな過密スケジュール。 私が予定表を見ながら教室会議で大学院入試の日程を決めたはずなのに、こんな日程になってしまったのだ。 現代科学では解明できない謎がまた一つ生まれた。

イタリア出張に向けた準備などは、週末にやるしかないわけだが、この前の 23, 24 日の週末は、研究室の夏期集中セミナーで、すべてつぶれた。 来る 30 日は、とある PTA の合同講演会で「ニセ科学」関連の講演をすることになっている。 普通、こういうのはしないのだけれど、以前お世話になった方からのお話なので、引き受けることにしたのだ。 で、その次の週末の 7 日は「ニセ科学フォーラム・東京」があるので、まあ顔を出す。 となると、旅行の準備はそれが終わってからということになるが、すでに 8 日は出発の日だ。

イタリアに行く直前まで講義はあるし、行く前に、あれとあれとあれとあれだけはすませておく必要がある。

ま、ようするに、余裕がないんだなあ。最初に書いたけど。


6/30/2007(土)

とある PTA の合同講演会にて、講演。

科学と「ニセ科学」
二つの「信じられない話」をめぐって
というタイトルで、一時間半ほど話した。 ちょうど京都では、小波さん主催の「ニセ科学フォーラム」がおこなわれていたはず。

 空梅雨や 西も東も 「ニセ科学」

聴衆は、小中学校の父兄(といっても、主にお母さんたち)、小学校の先生たち、近隣のみなさま、あわせて二百人ほど。 考えてみたら、このように本当の意味で「一般の」人々の前で話すのは、ぼくにとって初めての経験だ。

副題にある「二つの信じられない話」というのは、「水に『ありがとう』という言葉をみせると、きれいな結晶ができる」という「水からの伝言」と、もう一つは、「すべてのものは原子や分子という小さな粒からできている」という「原子・分子」の話。 どちらも日常感覚からするとまったく信じられない。 でも、どちらも本に書いてあるし、学校で教えている。 それでは両者は同じようなものなのだろうか、ということを考えるため、それぞれの「信じられない話」について少し詳しくみていこう、というストーリー。

単純な「ニセ科学」批判だけになってしまっては面白くないと思い、原子・分子の存在をめぐって、ボルツマン、マッハ、アインシュタインらの一流の科学者たちが何を考え何を論争したかを、ごく駆け足で紹介する、プチ科学史も取り入れたのである。 それによって、科学の言説というのが、単なる「お話」でもなければ、「科学者集団の合意事項」でもないことが浮き彫りになるだろうと思ったのだ。

もちろん、それぞれについて考えたあとには、二つの「信じられない話」が、もう比較するのもアホくさいほど別次元のものだということが浮かび上がって来るわけだ。

みなさん熱心に聴いて下さって、ギャグにも積極的に反応して、たくさん笑って下さった(なんか、幼稚園前くらいのチビちゃんもいて、おとなしく座っていたのには感心したけれど、申し訳なかった。あんな小さな聴衆がいると分かっていたら、ピングーの物まねを再練習して臨んだであろうに)。 しかし、やはり「ニセ科学」の部分の方が皆さんの関心が高く、「原子・分子」のパートでは、少し集中度が落ちたようだった。 このあたりは、今後の課題として考えよう。 質問は、やはり「ニセ科学」を中心に、スタンダードなものだった(「ニセ科学」の見分け方はあるか? 植物に音楽を聴かせる話はどうか? 「波動」って何だろう?)。


今回の講演会は、初めての一般向け講演の上に、出張の一週間前ということもあり、本番に臨む前はけっこう精神的な負担になっていた。 しかし、当日、学校に行ってみると、みなさん暖かく迎えてくださって、きわめてよい雰囲気になった。おかげさまで、本番では完璧にリラックスしてマイペースで話すことができた。

大人ばかりの聴衆のみなさんの顔とリアクションを見ながら、アドリブも交えて話を組み立てていく。 講義とは、また一味ちがう、緊張感を伴う楽しい体験だった。 また、一般の方々に科学や「ニセ科学」について語っていくということについても、直接的な皮膚感覚をもって考えることができる貴重な時間を過ごした。


今回の講演会の仕掛け人は、かつて「月間アスキー」のインタビューでお世話になったライターの A さんである。 ただし、今回は、同じ A さんが PTA 役員のママとして講演のお話をもちかけてくださったのだ。

ぼくが「ニセ科学」批判関連の活動を抑えめにしているのは、ときどきこの日記にも書いているとおりだが、他ならぬ A さんからのお話ということで、今回は思い切って引き受けたのだ。 その結果として、「小中学校のお母さん方に『ニセ科学』批判の講演を聴いてもらう」という、おそらく今ままでほとんどなかった場が実現したのである。 (自分が講演者ということは忘れるとして)これは、なかなか意味の深い試みであり、さすが A さんは企画力もしたたかだと、今さらながら関心している。

今回は、プロのカメラマンをされている A さんのご主人や、お元気な二人のお子さんにもお会いできて、それも個人的にはうれしかった。 ご主人は、いろいろと有名人の写真もたくさん撮られている方で、感動。 ほんとうは、そのあたりのお話もいっぱい伺いたかったが、ま、それは今回の趣旨ではないのでがまん。


しかし、まあ、通常の一週間の仕事のあとに土曜日も電車ででかけて講演すると、さすがに疲れる。

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田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
田崎晴明ホームページ

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