茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。
昨日、ふと、量子力学と古典力学の関係についてのぼくの考えを簡単に書いておこうと思って Twitter に書いてみたのだけれど、もちろん、140 字に収まるはずもなく、10 以上の連続ツイートになってしまった。 おまけに、ぼくがリプライできる人を制限しているためなのか、多くの人からは連続ツイートの最初と最後しか読めないという謎な状況になってしまったようだ。(これは何のことか未だ理解していなけど、まあ、無料サービスを使わせてもらっているのだから仕方がなかろう。) そもそも 140 字で切れるのも面倒だし、どこかにまとめて書けないかなと考えたところ、実は、ぼくはかつて、人もすなる web 日記といふものをしていたのを思い出して、ここに書いておくことにした。 日付の付け方とかリンクの仕方とか忘れつつあるけど、多分できるだろう。
以下が、Twitter に書いた内容をペーストして、無駄なスペースを省いたりしたもの。ただし、この機会にちょっとだけ文章をいじり、あと、その後の Twitter 上での専門家のつっこみなども見て舌足らずだったところに加筆しました。 なお、タイトルは、今つけた。
量子力学の理解が進み、この世界では「異なった量子状態の重ね合わせが可能」なこと、「測定しない物理量の値が確定していない状況がある」ことなどが(理論と実験の双方から)確立した。
しかし、だからといって、「目の前の世界が安定しているというのは単なる幻想」とか「誰も見ていないときにも月がそこにあると考えるのは誤り」などと言ってしまうのは無茶な飛躍だ。むしろ、こういう(わりとよく見かける)言明こそ科学的に誤りだと言いたい。 --- と昨日は言い切ったのだが(というわけで、この部分は今日の加筆)、「・・・がある」といった言明の解釈は多岐に渡るので、ここでの書き方は不十分・不注意であった。すみません。(この点については、下の「付記」も参照してください。)もう少しちゃんと言い直せば、「量子力学のために、『目の前の世界が安定しているというのは単なる幻想』とか『誰も見ていないときにも月がそこにあると考えるのは誤り』という主張を裏付けるような現象がわれわれの身の回りで実際に生じうる」という印象を与えるような言明はよくない、そういう解釈を誘発する説明には問題がある --- というのが、ぼくが言いたかったことだ。 ミクロな対象であれば、重ね合わせ状態が実際に生じていることや、測定していない物理量が定まっていないことを、明確に示す実験がある。ぼくらのまわりの猫や月についても、同じような実験が(現代のテクノロジーあるいは、その短期間の延長で)できるという印象を与えるのはよくないことだと言いたいのだ。(以上が主要な加筆部分。)
まず何よりも物理学は経験科学である。そして、われわれを取り囲む外界の安定性、再現性は、長い歴史の中で繰り返し確かめられ、確立した経験事実である。正しい物理学の理論はもちろん経験事実と整合しなくてはいけない。 "Is the moon there when nobody looks?"(← これは、Einstein の言葉)と聞かれたら "Sure! Why not?!" と即答すればいい。それが「・・・がある」という概念についてのぼくの立場だ。(この点については、下の付記もご覧ください。)
ただし、これは、この世界が古典世界と量子世界に二分されていて、前者には古典物理が、後者には量子物理が適用されるということではない。
この世界の(究極かどうかはともかく)基本法則が量子論であることに疑う余地はない。だから、もちろん、マクロな「古典世界」も量子力学の法則で記述されているはずだ。 量子力学の法則に従っていても、マクロな系どうしが相互作用しあう状況では「量子らしさ」が隠されて、我々が慣れ親しんだ安定した決定論的な物理世界が現れるようになっているのだと考えられる。 自由度が極めて大きい量子系がなんらかの条件を満たしているとき、そこで自然に「古典世界」が創発するのだと言ってもいいだろう。そして、これは、量子力学の法則を大自由度系に適用することできちんと示すことができる事実のはずだ。
しかし、大自由度の量子力学系というのは人類ごときの数理能力からすると異常に難しい問題なのだ。ここで推測したようなことを示すことは現段階では絶望的なまでの難問だと言っていい。もちろん、そういう方向の研究はあるが、本当の解決からは程遠いとぼくは考えている。 こういうのは、天才のアイディア一発で解決するような話ではないと思う。時間をかけて、ちょっとずつ知見を蓄え人類の数理能力を高めながら解決していくしかない問題だろう。(実は、ぼくも興味を持って研究している「孤立量子系の熱平衡化の問題」とも関連している。)
かつて、ぼくは、拙著『統計力学』に
科学の知識が進んだために、それまで自明の経験事実とみなされていたことが深遠な疑問へと変貌するという事がしばしば生じる。と書いた。例えば、全てのものが分子や原子からできていることを知ってしまえば、
われわれの日常世界での体験のほとんどすべてが深遠な科学的な謎になる。と続け、
なぜ岩はしっかりと硬いのか、なぜ水は冷たくさらさらと流れるのか、なぜ木々は緑で空は青いのか? さらには、自分の体は「粒」からできてるはずなのに、なぜ本人は「粒」らしく感じないのか? この世界の多様さ、安定性、美しさ、など、すべての「当たり前」だった経験事実が、おそろしく込み入った説明を要する非自明な事実へと昇格(あるいは転落)してしまうのである。と結んだ。
量子力学は、これと同様に、いや、もっと根本的に、ぼくたちに様々な謎をつきつけてくる。
あなたとぼくが同じ昨日を覚えていること、誰も見ていなくても月がちゃんとそこにある(と考えて経験事実と整合する)こと、散歩で出会う猫が満腹の猫と腹ぺこの猫の重ね合わせ状態でないこと、などなど、すべてが、現代最高の数理的な知性にも全く歯が立たない最高級の難問になるのだ。
言い換えれば、量子力学が世界の基本法則であることわかったために「(量子論を基盤に)古典力学を理解する」ということが未解決の課題になったということである。
「異なった量子状態の重ね合わせが可能」で「測定しない物理量の値が確定していない状況がある」量子の世界は無茶苦茶おもしろい。それとともに、そんな量子論の法則を基盤にしながらも、マクロには安定した古典世界が生じる(そして、そこにぼくたちが生まれ、生き、去って行く)というのも猛烈におもしろいことではないだろうか。
「・・・がそこに存在する」ということをどう理解するのかというのは、いうまでもなく、古来からの難問で多種多様な立場がある。「なるべく、科学的に、受け入れられることだけを受け入れて議論を進めれば、立場は自ずと一つに定まるのではないか」と期待するかもしれないが、それは甘いと思う(というか、歴史的に、そうなってはいない)。
そもそも、かなり極端ではあるけれど、外界というものが存在することを否定するという立場もあるわけで、そうすると、科学法則がどうのこうのという以前の話になってしまう。例えば、「私の脳は地下の施設に保存され、コンピューターでシミュレートされた『外界』の様子をインプットされて感じてるだけなのだ」というような厨二病的な主張を退けるのは意外に難しい(というか、こういう主張は原理的に論駁不可能だと思う)。
もう少し緩いけれど相変わらず極端な立場としては、「自分が直接に感覚できることだけに立脚して世界を理解すべきだ」という考えがある。で、実際に世界を生きてみると、自分が感じる様々な感覚経験は互いにバラバラではなく、それらの間には一連の非自明な関係があることがわかる。こういう関係こそが法則だというのが、一つの(頑固な)立場だ。なので、この人にとっての法則は、あくまで諸経験を結びつける関係に過ぎないので「自分の外に世界がある」というふうに考えるのは堕落だということになる。これは古くからある一つの(面白くないけど)定番の立場だが、この場合、別に古典力学だろうが量子力学だろうが、話は同じだ。自分の知覚以外の「実在」を語るのは御法度ということになる。(なので、たぶん、「誰も見ていないとき月があるなどと言ってはいけない」ということになるはず。しかし、この立場を貫くと、実験装置を不透明な箱に入れて誰からも見えなくしてしまうと「そこに実験装置があると言ってはいけない」とかいうことになって、科学をやるには大変に不便だろう。)
もうちょっと現実的な考え方として、われわれが経験することが「外界に何かがある」という(論理的に整合した)モデルと首尾一貫して整合している場合には、「そこに・・がある」と言ってしまうという立場がある。ちょっと大雑把だけど、目で見ても手で触っても足をぶつけても、そこに「机がある」というモデルと整合していれば、「机がある」と言ってしまおうということだ。 ぼくは、「・・がある」という言明を、だいたい、こういう意味で使っている。 そうすると、「机は見ていなくても(誰かが持っていかないという保証があれば)そこにある」し、「誰も見ていなくても月はそこにある」ということになる。一方、「測定する前の電子のスピンの値」については、同じ基準で考えても「そんなものは、ない」と答えることになるということだ。
今年のノーベル物理学賞は Parisi と(実質的には)新設された「ノーベル地球科学賞」のお二人だ(今まで賞を出さなかった分野に持ってきたのだから、このお二人の業績はすごいのだろうと思う)。
Parisi は、ぼくも専門としている統計物理学の分野の超大御所で、ずっと前から統計物理でノーベル賞が取れるのは Parisi くらいだろうと言われていた人だ。同じ統計物理と言っても、ちょっと分野がずれているので、Parisi 先生とは知り合いというわけではない。考えてみると、2007 年 7 月の統計物理学国際会議で(今はぼくが首席編集者をしている)Journal of Statistical Physics の編集者の会合でご一緒しただけかもしれない。 (今、検索してみると、その日の日記がちゃんと出てきた! 会議初日の長い一日がずっと描写してあって最後の方に Parisi 先生の名前がちょこっと登場する。自分の書いたものなんだけど、めっちゃ面白くて、前後の記事を含めてつい読み耽ってしまうではないか!!)
ノーベル物理学賞といえば、もう 5 年も前になってしまったが、Thouless, Haldane, Kosterlitz の会があまりにもぼくに近くて(ぼくの一般向けの解説をどうぞ。より個人的な反応が2016/10/20 の日記あります)これ以上の近いものはないという感覚になってしまっているんだけど(それはやっぱり正しくて、なにしろ Haldane 先生は受賞記念の講演会では必ず AKLT model に言及してぼくらが描いた図を見せてくれているのだ)、考えてみると、Parisi 先生の仕事は学生時代から色々と学び親しんでいたんだよなあ。
しかも、Parisi 先生の場合、業績の幅がめっちゃ広い!! 笹本さんや竹内さんが素晴らしい仕事をされている KPZ 方程式の P は Parisi だし、ぼくも Parisi-Sourlas の dimensional reduction の厳密版に相当する臨界指数の不等式の論文(←笹本さんや竹内さんのお仕事に言及した後では何段階も格下だけど)を書いている(と思う(←昔すぎて記憶が曖昧じゃ))。他にもいろいろ、それ一つだけでも「あ、あの仕事で有名な」と言われるレベルの仕事をいっぱいしているすごい人です。 こういうのを、ひとつひとつ、1時間くらいかけて説明していくと、そもそも統計物理学というのはどういう学問かが伝わるかもしれない。それもいいですね。
そして、メインの業績である「スピングラスのレプリカ対称性の破れ」の仕事が難物だ。これは「興味深い現象を理論的に解明した」という普通の物性の枠組みに収まる話ではないのだ。乱れのある磁性体という元々の出発点を大きく超えて、乱れた環境にある大自由度の問題を扱う普遍的な数理的描像と方法を生み出したと言えばいいだろうか?(←訳がわからないですよね。)そして、この仕事は、磁性体を超えるどころか、物理という枠さえも超えて(正確な言葉遣いはよくわからないのだけど)情報工学とか機械学習の分野などにも大きな影響を与えているのだ。
こうやってまとめてみると、(実験や応用につながる理論を重視する傾向が強かった)ノーベル賞委員会が Parisi に賞を出したのはかなり大胆な方向転換とみるべきなのかもしれないですね(もちろん、みんなが運動して大量の推薦が集まったのだとは思うけれど)。個人的にはこれは素敵な方向転換だと思います。