[2017年度第1回例会]第1回ゾンビ映画研究会 例会レポート
去る平成二九年四月一四日、学習院大学身体表象文化学会主催の「ゾンビ映画研究会」第一回が行なわれた。身体表象文化学専攻の在学生、卒業生、教員、ほか関係者によって、以前から不定期で開催し回を重ねていた「ゾンビ映画を見る会」という研究会を、折からの学会設立にあたって例会化した次第だ。名前にあるとおり、毎回、事前にゾンビ映画を一本指定し、またそれに関係する発表を行なう者を立て、当日は鑑賞と発表、その後、当該作品と発表内容をめぐって参加者が自由に議論する時間を設けている。
ここで急いで附言すれば、いままで見てきた作品は映画にかぎらない。映像ソフト化された演劇、コミックス原作の海外ドラマ、そして、英国の作家メアリー・シェリー原作の小説に端を発するいわゆるフランケンシュタインものといった、狭義のゾンビ映画にとどまらない広がりと(こういってよければ)ゆるさを持ったラインナップで回を重ねてきた経緯がある。が、すべてに共通するのは、いまやカルト的な人気を越えて、あらゆるジャンルとメディアにそれこそ徘徊しているというほかない、ゾンビとそれに類する表象だ。
このたび扱った作品は、ロバート・ロドリゲス監督作の『プラネット・テラー in グラインドハウス』(二〇〇七、米)であり、発表は身体表象文化学専攻助教の岡田尚文が担当した。また上映中には、同専攻副手の脇なつみ、ドイツ語圏文化学科助教の芹澤円のふたりによるオーディオ・コメンタリーがつくなど(いずれも敬称略)、なかなかアカデミックには取り上げられることの少ない、というかほぼ皆無であることからも推して知るべしの作品の向こうを張って、われわれも可能なかぎり自由かつ大胆に鑑賞を試みた。
鑑賞後、発表者の岡田によって、本作の名前にもあるグラインドハウス(アメリカにかつてあった、広義のB級映画を二、三本立てで上映していた映画館のこと)とゾンビ映画の浅からぬ関係を始めとして、従来のアカデミズムの文脈では、視覚に限定されて論じられることの多かった映画体験が、いわば触覚のレヴェルでの議論に推移していることが話された。いいかえれば、それは、ほかならぬホラーやポルノグラフィといった「ボディ・ジャンル」(リンダ・ウィリアムズ)の鑑賞において可能となる映画体験であり、それに伴って研究手法はとりもなおさず、視線論から身体論への移行を余儀なくされる。
紙幅の都合で微に入り細を穿ったレポートをできないのが心苦しいが、ともあれ以上のような岡田の発表をめぐって、参加者からは、そこでいわれている触覚とは具体的にいかなるものか、そして何より、そもそも視覚や聴覚といった五感を自明のものとすること自体への疑い、すなわち、はたして人間の感覚はそのようにして分節可能なのかという問いが出た。ヘーゲル以来、近代という時代は視覚を特権化してきたが、かといって近代の終わりを特徴づけるように、それ以外の五感が前景化してきた、という簡単な話ではむろんなかろう。
五感の分節可能性に関しては、なるほど確かに、たとえば味覚の曖昧さを挙げることができるだろう。辛い食べ物を食べたとき、われわれは「辛い」と感じるが、舌にはじつは辛さを感じ取る機能はない。そのため、痛覚、つまり広義の触覚によって代替することで味を感じ取る仕組みが舌には備わっている。ことほどさように、この例ひとつ取っても、五感は分節不可能、より正確にいうなら、互いに補い合っていると考えるのが自然だろう。映画に話を戻すなら、視覚から触覚へという単純な話にはせず、より広汎で総体的な行為と現象に開かれた体験として記述していくこと、これが今後の映画研究の課題となるはずだ。
最後に、これは筆者の考えだが、おそらく岡田は、一般には語られることのほとんどないモンド映画やスラッシャー映画などの低予算映画の研究をとおして、すなわち大文字の映画史には入らないそれらが有するポテンシャルを最大化することで、根源的なところからの映画史の書き換えを迫るつもりなのであろう。それは映画史の一部に微修正を加えるような生易しいものではなく、きわめて全的な地殻変動をもたらす営為になるはずであり、その意味でまさしくカント的な批判と呼ぶにふさわしい作業だ。いまや私たちにとってゾンビ映画を見ることは、そのプロジェクトに加わることの別名にほかならない。
(文章:中里昌平、写真:関根麻里恵)