諏訪春雄通信 28


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 今回のテーマは「天皇号」です。しかし、前回、前々回とすこし硬い文章がつづきましたので、今回は雑談からはいります。

 3月2日(土曜日)午後2時から東洋大學文学部助教授有澤晶子先生を講師にお招きして、「中国の地方劇」という公開研究会を学習院大學で開催しました。この通信の読者のなかで当日おいでいただいた方々もいらっしゃるとおもいます。

 内容といい、発表形式といい、最近の講演や研究発表のなかでは出色のものでした。当日、おいでになった方は幸運であったといってよいでしょう。

 発表形式はパソコンとビデオを組み合わせたもので、私の所属している国際浮世絵学会などではよくおこなわれている形であり、大學での講義などでも採用される先生が多くなりました。

 ただ、有澤先生のばあいは、その演出がよくゆきとどいており、写しだされることばとビデオの配合が絶妙で、観客を飽かせることがありません。

 機械に習熟せず、機械にふりまわされている発表者(私などはその典型です)がままいますが、有澤先生は機械を、平凡な表現ですが、手足のように使いこなしておられました。

 内容は、360種をこえるといわれている中国の地方劇のなかから4大国劇といわれる、昆劇、京劇、川劇、椰子劇の4種をとりあげ、その概要と特色を紹介したものです。私も前々から関心をもって、研究をすすめている分野ですので、発表内容の評価が多分当日の一般的な聴衆の方々よりはできます。

 小さなテーマで高度な発表をすることは、じつは、一定の水準に達した研究者にはそれほどむずかしいことではありません。真にむずかしいのは、そしてこれからの人文科学系の学者にもとめられることは、

「広く、高度な内容を、わかりやすく、興味ぶかく伝える」

ことなのです。有澤先生の実力をあらためて再認識したというのが、私の率直な感想です。

 この公開研究に先立つ2月26日(火曜日)、私のもとにあるテレビ会社からの取材がありました。といっても、テレビ撮影ではなく、番組の台本づくりのための取材です。松竹株式会社からの依頼をうけて、歌舞伎役者、それも今人気絶頂にある三之助クラスの役者を中国に旅させて歌舞伎の源流をたずねさせるという企画です。

 私が平成12年に吉川弘文館から「歴史文化ライブラリー」の一冊として刊行した『歌舞伎の源流』をじつにていねいに読みこんで、要点をついた質問をしてきました。ディレクターと台本作家と二人で、私の研究室に訪れてきて、交互に質問をしてメモをとっていました。

 そのときに、「歌舞伎の遠い原型が故郷の地を出発して、しだいに演劇としての形をととのえながら、日本にまで到達する歌舞伎ロードという構想は成立しますか」という興味ぶかい問題を、台本作家の方が私に問いかけてきました。

 じつはこの問題はここ数年追いかけている私の重要な研究テーマの一つなのです。

 学習院大学文学部は平成13年に人文科学研究所を創設し、助成金を出す研究プロジェクトを募集しました。そのときに私は「東アジア演劇形成過程の比較研究」という3年計画のテーマで応募し、九件の応募のなかからトップで採用されました。

 有澤先生にもそのプロジェクトにくわわっていただいており、3月2日の公開研究会は、この人文研究所の研究プロジェクトの費用で開催されたものでした。

 この通信の25で私はつぎのようにのべたことがあります。

「私は、中国の長江流域、稲作農耕の誕生地である湖南省にはじまって中国全土にひろまっていった来訪神儀礼13種の調査結果にもとづき、出現の時期、役柄、服装、神の性格、扮装、持物、出現の目的、演じ手の6項目にわたって、日本の来訪神儀礼との共通性を確認しています。日本の来訪神儀礼は中国の来訪神儀礼が稲作農耕とともに日本へわたってきたものと断定できるのです。中国、ベトナム、日本などの分布状況から、その伝来の経路もほぼ特定できます」

 その伝来の経路は大きく二つにわかれるとかんがえています。一つは西回りのルートです。ほぼ長江にそって貴州、雲南、広西チワン族自治区などを経由してベトナムにはいり、沖縄にわたり、北上して九州、福井、石川、新潟、山形、秋田などにつたわったものです。有名な秋田のナマハゲはその最末端の痕跡です。

 もう一つの経路は東回りです。西回りが比較的純粋に来訪神儀礼の原型を保存しているのにたいし、東回りのコースは、悪鬼ばらいの儺の儀礼と結合しながら、文化の先進地帯を経過したことによって、高度な演劇化をとげたというのが、私の基本的な考えです。

 私は概略以上のような構想で「東アジア演劇形成過程の比較研究」というプロジェクトを立ち上げたのです。

 したがって来訪されたテレビ局の台本作家から歌舞伎ロードについて質問されたときにすぐにこの東回りのルートをかんがえました。そしてつぎのようにこたえました。

「東回りをたどった来訪神と儺の複合体は、中国では古代演劇、宋元南戯、元雑劇、明清伝奇劇、地方劇などへと発展しました。おなじ複合体は、朝鮮半島では、処容舞、山台雑戯、農楽などを誕生させ、日本にも上陸して、中世以降の民間神楽、田遊び、王の舞、能、狂言などを生み、最後に歌舞伎として結晶しました」

 そして、中国長江中流域からいったん北上し、山東、遼東、朝鮮などの各半島を経過し、日本海側の出雲に上陸し、京都の五条、北野を経て、現在の四条の南座を終点とする歌舞伎ロードの具体的な道筋についても説明しました。

 この構想を、テレビ局が、台本としてどのように生かしてくださるか、仕上がりが楽しみです。

 大風呂敷のひろげすぎと眉をひそめる方も多いとおもいます。ことに実証主義をたいせつな方法とする専門研究者はそのように批判するとおもいます。

 しかし、私は、このごろ、学問の究極とは「志」であり「夢の実現」なのだとおもうようになりました。もちろん、堅固な実証にささえられた「夢の実現」です。

 通信26で、中国の古代文化と日本の古代文化につぎのような対応があると申しました。

    中国の信仰・祭祀→日本の信仰・祭祀
    中国の神話   →日本の神話
    中国の民俗   →日本の民俗
    中国の民間芸能 →日本の民間芸能

 自分でもそれなりに調査したことのあるこのような対応を前提に、

中国の演劇→日本の演劇

という対応も確実に存在するとかんがえています。

 「天皇号」についてのべます。

 天皇は中国の道教に由来することばです。その出典は、中国古代、紀元前3世紀ごろの各種の道教文献に「天皇大帝」とみえるのが最初です。たとえば、その一つ『春秋緯合誠図』には

 天皇大帝は北辰の星であり、元を含み陽を秉(と)り、精を舒(の)べ光を吐き、紫宮中に居りて四方を制御する。

 とあります。わかりやすくいえば、宇宙の根源として全世界を統御する北極星である、ということです。中国の道教では最高神として崇拝される北極星を天皇といったのです(福永光司『道教思想史研究』岩波書店・1987年)。

 ここから、日本の天皇号についてはむずかしい議論が生まれました。道教信仰そのものと関係があるのかないのか、いつごろから、どのような目的で使用されるようになったのか、などです。

 こまかな詮索はおいておいて、最新の研究成果にもとづいて、結論的なことだけをのべますと、最初は単なる尊称として使用されていた段階(推古天皇の時代)があり、持統天皇の時代に君主号としてもちいられるようになりました。また、東アジア世界における日本国家の地位を意識した呼称ではあるが、かならずしも道教思想と関連させる必要はないということです。

 日本が国家体制をととのえつつあった7世紀から8世紀のころに、主として対外意識のなかで採用され、浸透していったことばが天皇であったということになります。

 この天皇にたいする和語が「すめらみこと」です。平安前期に成立した『令集解(りょうのしゅうげ)』には

君は一人を指す。天皇これなり。俗にすめらみことというなり。

とあって、公式用語の天皇にたいする一種の俗語とかんがえらえられていたようですが、天皇号が成立する以前にはひろくもちいられていたことばです。

 すめらみことは「すめら」と「みこと」にわけられます。すめらについては、「統べら(統治する)」とおなじ意味というのが通説でしたが、上代特殊仮名遣いから判断して、「統べ」のベはエ列乙類、「すめ」のメはエ列甲類であって、甲乙が一致しないという疑問が提出されました。

 そこから、アルタイ諸民族が世界の中心とかんがえるSUMERE(梵語で至高・妙高の意味の蘇迷盧)と同義とする説、清澄、神聖の意味の「澄める」とおなじ意味であるとする説などが出されました。

 上代特殊仮名遣いというのは、奈良時代およびそれ以前のある種の仮名(エキケコソトノヒヘミメヨロ、古事記ではモも)に二種類の書き分けがあったという説です。したがって、発音と表記法がちがうことばは、当然意味の違うことばになるという考えです。

 しかし、私はこの法則をあまり厳密に適用すると行き過ぎになりはしないかという危惧をもっています。

 私は新潟県の出身であるためにイとエの発音があいまいで、仮名遣いもよほど意識しないと誤ってしるしてしまいます。私の友人の数代つづいた家に生まれた江戸っ子はヒとシの区別がまったくできません。こうした現象が古代にもあったのではないでしょうか。

 すめらみことの「みこと」は「尊」「命」などの字があてられますが、もとの意味は「御言」とする説が有力です。

 各様の説があるにしても、結局、すめらは尊貴な存在をあらわすことばであり、このことばを上にかぶせたすめらみことは「天の神のことばを代ってつたえる尊貴な御方」という、折口信夫の説(「天子の諡」)が妥当性をもちます。つまり、高位のシャーマンです。

 すめらみこととよばれた尊貴な方は、この世にあって天の神のことばを体現する神の代行者でした。南方原理につらぬかれた存在だったといえます。

 これにたいする天皇は、天界の北極星そのものと合一する北方原理をとりいれた存在です。

 この通信で、私がもっとも強調したかったことは、のちには混同されますが、本来は、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったということです。

 日本が、6世紀から7世紀にかけて、国家組織を整備してゆくときに、南方原理を北方原理で補完してゆくという当時の基本略を象徴的にしめすものが、君主号すめらみことと天皇の使い分けでした。

 今回はこの辺で失礼します。


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