諏訪春雄通信 36
アジア文化研究プロジェクトへようこそ。
連休期間途中の5月1日、久しぶりに電話があって古くからの友人の中山幹雄さんと、浅草雷門で待ちあわせました。午後6時半が約束の時間でしたが、なつかしい場所ですので、1時間以上まえに到着して、仲見世から奥山のあたりをあるきまわってみました。
私がはじめて浅草をおとずれたのは、もう半世紀以上もむかし、大學4年の秋でした。全国学生文化振興会という国立の大学生主体で運営していた大學受験組織の全国会議が東京大学で開催され、新潟大学の代表として私も上京、参加したのです。
この会議がおわったあとで、あまった時間を利用して、一人でおとずれたのが、私の浅草体験の最初でした。その翌年、東大の大学院にすすみ、それ以降、どのくらい浅草をおとずれたかわかりません。田舎から親戚や友人が上京するたびに浅草へ案内しました。私たちのような田舎者にはなんとなく郷愁をよぶ場所だったのです。
久しぶりにおとずれた浅草の様変わりはやはりはげしいものでした。ことに六区の興行街にむかしの面影はありません。映画、軽演劇、女剣劇、ストリップなどの小屋が軒をつらねて、猥雑な熱気をはなっていた町が、妙にとりすましてしずまりかえっていました。永井荷風の浅草はもう小説のなかにしかありません。
六区を通りぬけて言問い通りをよこぎり、北へむかったあたりが千束です。この地は吉原遊郭のあったところで、いまも吉原大門などの地名、見返り柳などにむかしの名残がのこっています。浅草から吉原、あるいはその逆のコースは何回か学生をつれて文学散歩であるいた場所でもありました。
六区をすぎて、千束にむかってあるきだしたところで時計をみると約束の時間がせまっていましたので、雷門へもどりました。
通信32で「遊女」をあつかったときに、私は最後のほうでつぎのようにのべました。
「聖性説だけでは、日本の平安時代末期ごろに売春がはじまった歴史的事情が説明できません。社会的弱者説だけでは、たとえば近世の江戸吉原などの遊郭が神社の境内と類似の空間構造をもち、揚屋での初会の儀式が結婚式の形式をとっていた事実の説明がつきません。」
吉原が神社の境内と類似の空間構造をもっている、という発想もじつは、私の浅草体験の産物なのです。「遊女」の補足の意味で、吉原遊郭と浅草寺の空間構造を今回はテーマにあつかってみます。この問題を私はすでに「遊廓の構造」という論文(長谷川強編『近世文学俯瞰』汲古書院・1997)で論じていますので、くわしくはそちらをご参照ください。
吉原遊郭は、明暦3年(1757)に江戸市中の日本橋近くの元吉原から浅草千束村日本堤へ移転を命じられ、新吉原とよばれました。この新吉原の空間配置はつぎのようになっていました。
大門が北にあって南へ仲の町がのびています。仲の町には遊女屋はなく、享保のころまでは茶店と日用雑貨の店だけで、享保以降は茶屋だけになります。遊女屋は仲の町の裏側にひろがっていました。
仲の町の突き当たりは水道尻でした。この水道尻の左端にあったのが九郎助稲荷、右端にあったのが開運稲荷でした。稲荷はほかに大門口側の両端に赤石、榎本の二つがありましたが、吉原の鎮守として別格のあつかいをうけたのが九郎助稲荷でした。二月の初午の稲荷祭りがいとなまれたのはここでした。
また、水道尻の中央には秋葉神社の常明灯がおかれ、十一月にはここで《ほたけ》(火焚)の神事や、遠州の秋葉山から秋葉権現を勧請した祭りがおこなわれました。
水道尻は遊郭全体のなかでも聖なる空間とみなされており、明治になって遊郭内の稲荷を合祀した吉原神社がこの場所に設置されたのもそうした意識のあらわれでした。
このような吉原遊郭の空間構造は近世の寺社の空間構造と一致しています。隣接する浅草寺の地割とくらべてみます。
浅草寺の寺内配置は、雷門にはじまって、奥の仁王門・本堂にむかって仲見世通りがつづきます。仲見世通りの両側には茶店や物売りの店が軒をつらね、そしてその背後には浅草寺の子院や別院がならんでいます。
この寺内配置は吉原の空間構造と以下のように対応しています。
雷門と大門 仲見世通りと仲の町 本堂と水道尻 子院と遊女屋
寺院建築の各種の様式に共通するもっとも注目される特色は、たいせつな本尊を安置する金堂(仏殿、本堂)を堅固な回廊または土塀でかこいこんでいることです。そこにはあきらかに仏のいます聖域を俗なるものから遮断しようとする精神がはたらいています。仏教では仏は現世にいますとおしえています。
これにたいして、神社建築の注目される特色は、外部から来臨する神々をむかえいれるためのひらかれた構造をもっていることです。もっと正確にいうなら、鳥居や玉垣、注連縄に象徴的にしめされるように、邪悪なものは排除につとめるが、聖なるものや清浄なものとともに、俗なるものをも積極的に受けいれようとする解放の精神がいきわたっていることです。
当然なことですが、仏教とは異なる日本神道の信仰のあり方が神社建築の様式を決定しています。シャーマニズムの神道では神は他界から飛来すると認識しています。
浅草寺が天台宗の寺でありながら境内に仲見世に代表される世俗的なものを豊富にとりこんでいるのは、伝統的な仏教の遮断の伽藍配置に神道系神社の解放の空間様式をとりいれたからです。
遊郭ということばは、外部とへだてた内部に特殊な空間をつくることを意味しています。しかし、また遊郭は、本来は外部の存在を前提とし、外部をうけいれるためにつくられました。近世の遊郭は、遮断と解放という、一見矛盾する二つの精神に支配される空間でした。
空間構造に一致点のある吉原と浅草寺は、ともに遮断と解放という二つの精神に支配され、根底には、聖性と俗性という二つの本質を共通にそなえていたのです。
私が以上のような説をたてることができたのも、学生時代からいくどか浅草や千束、日本堤などをあるきまわった経験があったからでした。
時間どおりにやってきた中山さんに、車でつれてゆかれた入谷の居酒屋野風は、江戸の伝統的な民家をそのまま改造した、落ち着きのある小さな店でした。その晩の客は最後まで私と中山さんの二人だけ。しかし、一人で切り盛りする無口な主人がはこんでくるお任せ料理は、江戸前のすっきりした、しかもなつかしい味で、二度、三度とおとずれてみたいという気持ちをよびおこすものでした。
中山さんの用件は、近く出る『忠臣蔵ノート』(高文堂出版社)という著作に私の序文が欲しいというものでした。中山さんはすでに20冊ちかくも著作があり、演劇研究家、美術評論家として一家をなしている人です。学習院大学の非常勤講師もお願いしています。いまさら私の序文などを必要とする経歴ではないのですが、今度、永年つとめた教職をはなれて、研究者・評論家として一本立ちをする記念のためということでした。
前進座にはじまって、中村鴈次郎、中村吉右衛門、市川団十郎、澤村宗十郎、中村富十郎など、歌舞伎界の大立者ともふかいつながりをつくり、歌舞伎脚本の執筆なども数作こころみています。
アジア文化研究プロジェクトでは、5月28日(火曜日)午後2時から5時まで、学習院百周年記念会館正堂で、「人間国宝、芸術院会員中村富十郎さんの芸談の会」を開催します。この企画の橋渡しも中山さんにたのんで実現しました。
飲むほどに酔うほどになめらかに中山さんの口をついて出る歌舞伎界裏事情は、まさに平成の役者論語とでもいうべき興味深々の内容でした。これが表に出ると歌舞伎の世界では生きてゆけませんという中山さんのことばにしたがって、文章にできないのが残念です。
通信30で紹介した私の一文「日本神話と中国長江流域神話」をのせた『新潮』6月号が刊行されました。この号には、また、前回の通信35でふれた川村湊さんの「舟山群島の海民信仰」が増補改訂され、面目を一新した「補陀落―観音信仰と日本文学」200枚の力作となって掲載されています。ぜひ、書店ででもご覧になってください。
今回はこの辺で失礼します。