諏訪春雄通信 38


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 今年の夏は中国の二つの学会から招待をうけています。一つは7月の下旬に四川省で開催される中国儺戯学術研究会です。異様な巨大仮面の出土で有名になった紀元前10世紀にさかのぼる広漢の三星堆出土品の見学にはじまって、羌族の遺跡を中心に見学と討議の1週間の日程がくまれています。

 もう一つは8月上旬に貴州省黄平県でひらかれる太陽文化国際学術検討会です。やはり1週間の日程です。こちらは中国少数民族学会が主催で、責任者は去年の夏に長江流域の少数民族調査に同行してくださった劉芝鳳さんです。私は、両方の学会にすでに参加の返事を出しています。

 四川の広漢県三星堆遺跡が一躍有名になったのは1986年7月にこの地から700点を超える祭器、神像、仮面などが出土してからです。ことに両眼がながくまえにつきでた巨大な仮面群は論議をよび、多くの研究論文が中国や日本で出ています。私も1989年の12月にこの地にはいって実物に接し、その当時、中国で注目されはじめた画像石の研究とあわせて、「鬼の図像学―漢代画像石の世界からー」という論文を『日中文化研究 第6号 古代伝承と考古学』(勉誠社・1994)に発表しました。

 四川省は何度もおとずれていますので、今回の学会ではそれほど新しい発見に出あうことはないかも知れません。思い出の土地をおとずれ、なつかしい人々にあうことがこの学会参加にかける私の期待です。

 新発見があるかも知れないという予感をいだいているのは、貴州省黄平県の学会です。この地に革家とよばれる2万人ほどの所属のはっきりしない、その意味では謎の民族が住んでおり、彼らがじつにはっきりした太陽信仰をもっているというのです。

 黄河流域の天の信仰にたいし、長江流域の太陽信仰という対比は、去年の夏の中国調査で、私が強調してまわった論点でした。1か月ちかくも同行した劉芝鳳さんの記憶にものこったはずです。今回の彼女の企画はあるいはそんなことが、一つのきっかけになっているのかも知れません。

 この謎の民族のトーテム、歴史、生活習俗、生産習俗などを調査研究して、彼らの太陽信仰の実態をあきらかにするという、この学会参加の成果は、いずれ、この通信で紹介しましょう。

 一昨年の2000年8月、青海省の首都西寧でひらかれた海峡両岸崑崙文化考察と学術検討会に参加したときの成果報告がようやく本になりました。この通信のホームページの冒頭に掲載されている「中国青海省に居住するチベット族の仮面舞踊」という写真はこのときに私が撮影した傑作?です。こうした写真を中心に、私と有澤晶子・王承喜両先生の紀行と研究の文をあつめた、

「中国秘境 青海崑崙 伝説と祭を訪ねて」

という題の本で、出版社は勉誠出版、値段は1500円+税 です。


 前回につづいて、「後宮と宦官(かんがん)」についてかんがえます。

 日本の後宮が中国の後宮制度をとりいれたというのは定説です。しかし、両者の本質には大きな差があり、そのことが日本の後宮に宦官制度の取り入れを拒否させたというのが、私の基本的な考えです。

 日本の後宮が中国の後宮とはちがっていたという事実を、もっともよくしめしているのが、宮城内における後宮の位置の相違です

 日本の平城宮(奈良時代)と平安宮(平安時代)の直接のモデルとなったのは唐の長安宮です。こまかな点をぬきにして、長安宮の基本の構造だけをのべますと、北から南へむかって、一直線に、後宮―両儀殿―大極殿がならんでいます(平岡武夫『唐代の長安と洛陽』同朋舎出版・1977年)。

 これを模倣した奈良時代の平城宮は、両儀殿を紫宸殿とあらため、後宮とともに内裏にくみこんだうえで、後宮―紫宸殿―大極殿と、北から南へ一直線につらなっています。手本とした中国の長安宮そのままの建物の配置です。ところが、平安時代の平安宮では、後宮と紫宸殿が一つになった内裏が南北軸から15度ほどずれて東北の位置に移動し、後宮―紫宸殿\大極殿とずれてしまったのです。このことの意味を私は重視します。

 唐の大極殿は、皇帝を北極星になぞらえる天の思想の産物です。大極は太極ともしるし、宇宙の根元であり、その宇宙の根元である大極の存在するところが大極殿です。両儀殿は大極が変化して生じた陰と陽または天と地です。

 大極殿も両儀殿も皇帝が政治をおこなう場所です。この二つの場所での皇帝の聴政(政務をおこなうこと)の違いについてはつぎのように説明されています。

 制度的建前では皇帝の聴政場所はあくまでも大極殿だけであったが、すべての政策を大極殿で開放的に決定することは現実的ではなかったことなど種々の理由から、内朝である両儀殿で政務を視る形態がとられたかと思われる。とすれば両儀殿での聴政は現実に即応した非本来的なものであって制度的枠組みでは大極殿での聴政こそが本来的であり、両者は並列的な関係ではなかった(吉田歓『日中宮城の比較研究』吉川弘文館・2002年)。

 日本の紫宸殿は天子の居場所という意味です。内裏(紫宸殿)と大極殿との関係については同書ではつぎのように説明されています。

 大極殿での聴政と内裏での聴政は並列の関係にあった。すなわち大極殿での聴政は象徴的なものであり、一方で内裏において実質的な聴政が行われていたのである。

 つまり、中国では大極殿重視、日本ではその比重がかるくなったということです。これと内裏の位置を15度移動させたということはふかく関わりのある現象です。

 中国の大極殿は北極星である皇帝が出現して政務をおこなう場所です。その根底には中国の王権をささえた天の思想が存在します。日本はこの中国の宮城制度を形としてうけつぎながらそれをささえた天の思想まではうけつぎませんでした。代って伝統的な太陽の思想=女性霊力の信仰を根底にすえたのです。そのために大極殿での政務は形式化して、後宮にささえられた内裏の紫宸殿での政務が重視されるようになったのです。

 このあたり、もうすこし説明をくわえる必要があります。

 平安時代の内裏は東北に移動しました。東北は陰陽道で鬼門とよび、険悪の気があつまり、百鬼が出入りするという危険な方角です。生活のすべてにわたって方位を異常に重視した当時にあって、なぜわざわざそんな危険な方角に内裏をうつしたのでしょうか。答えは後宮にあります。後宮が内裏を、さらに宮城全体を守護しているから、安んじて内裏を鬼門の方角にうつしたのです。というよりも、〈宮城全体を後宮に守護させるため〉に、後宮が背後をまもる内裏を鬼門にうつしたという方がより適切な表現でしょう。

 中国の後宮は天子の後継者を育成する場所です。後宮が天子を守護するという信仰はありません。それにたいする日本の後宮は天子を守護する機能をもった聖なる空間でした。

 前回の通信37のはじめで説明したように、日本の後宮は律令制度以前の采女制度を前提として成立しました。采女については通信31、それをささえたヒメ・ヒコ制は通信30で説明しました。日本の後宮は、たんなる後継者養成機関にとどまらず、女性の霊力にたいする信仰がはたらいていたのです。

 納戸神という信仰があります。通常、納戸神は〈寝室や物置に使う納戸にまつる神。西日本に多いが、関東や東北にも点在する。女の神で作神様と考えられているものが多い〉と説明されます(『日本国語大辞典』)。納戸は衣服、調度類、器材類をおさめておく物置部屋です。その点で後宮とは異なりますが、私は、この納戸神も、女の霊力信仰の変化したものではないかとかんがえています。

 納戸はしばしば寝室として使用されることがあります。また、そこにおさめられている衣服以下の物品は家の主婦が管理するものです。本来は自身霊力の持主であった主婦が、その霊力にたいする信仰がうすれていったとき、家の奥の神の専門管理者になります。その変型が納戸神ではなかったでしょうか。納戸神が女性の神であり、作物の神とみなされていることから、私はそのように推定します。

 女性だけで新穀の神をまつる新嘗の行事は、中国長江流域から日本に伝来しています。また、女性が家の中の神を管理する習俗はいまも沖縄にのこっています。1998年に私は沖縄県平良市池間島の民俗を調査し、家の奥にマオーとよばれる女性だけが管理する神をまつった神棚があることを確認しました。こうした民俗を総合して、納戸神は、本来、女性の管理する女性のための神であり、さかのぼれば後宮の神に通じると、私はかんがえます。

 後宮は聖なる女神の空間でした。そのような女神の聖空間に異国の奴隷である宦官がはいりこむ余地はまったくなかったのです。

 今回はこの辺で失礼します。


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