【明治維新の原因−財政問題】
幕府は天保年間、すべてに数十万両の赤字を出していた。この赤字の原因は、幕府官僚の財政特権によるものであり、それは、譜代大名、上級旗本の収入になった。大奥の浪費も赤字の原因であったが、それは、そこに仕える女官(大奥女中)の収入につながり、ほとんどの場合、女官は旗本の娘であったから。彼女を通じて、旗本の経済的利益につながった。
幕府財政の赤字は、とくに譜代大名、上級旗本の収入増加につながる。赤字を埋める為には、御用金の増徴がもっとも手軽に行なわれた手段であった。そこに、譜代大名、上級旗本の収入増加が財政赤字をもたらし、その犠牲は、御用金という形で、商人層、金融業者にかけられてくるという因果関係があった。
しかし、天保年間においては、商人層は反抗までには至らない。同じく、開港の起にも、尊王攘夷の全盛期にも商人層の全般的反抗は起きなかった。大多数の商人、金融業者はまだ反抗に動かず、中には、開港と貿易を利用して、利益を上げた者がいた。攘夷運動は、こうした商人層を脅迫し、金品を掠奪し、時には暗殺、放火を行なったので、商人層の有力部分とは対立する形で進められた。
【尊王攘夷運動の敗北】
主体―下級武士
背景―開港に伴う物価上昇、下級武士の生活の破綻という経済的原因
重点―攘夷の実行と攘夷親征にあった
内容―各地の下級武士が京都に流入して一大勢力となり、幕府に対する脅力となり、幕府は彼らの要求に対して讓歩を強いられた。彼らの要求に応えて、将軍が上洛し、攘夷期限を布告した。長州藩士は、攘夷実行を果たすべく、下関で外国軍を砲撃した。しかし、幕府も他の諸藩も攘夷実行には踏み切らなかった。これを約束違反と考えた攘夷派の志士達は、攘夷親征の計画を立てた。京都で朝廷を立てて挙兵し、近畿一円から東海地方までを幕府から奪いとって朝廷領とし、これを背景にして攘夷戦を行なうというものである。幕府は攘夷のために領地の一部を取りあげようというのである。しかし、幕府としては、これを手放すわけにはいかない。幕府は讓歩を捨てて対決に転じた。攘夷親政は中止となり、生野義挙と天誅組大和義挙が、反幕府の直接行動になったが、どちらも、付近の藩兵によって鎮圧された。その後、水戸藩士を中心とした天狗党の身乱と、その翌年の禁門の変が、尊王攘夷運動の最大の武力行動であったが、このときもまだ下級武士を主体とした運動に留まり、他の階層としては、水戸の郷士、長州藩の中級武士、上級武士の一部が参加したのにとどまり、孤立した運動として敗北した。ここまでに、攘夷派の有力指導者はほとんど死んだ。こうして、攘夷運動は、まだ下級武士のなかに大衆的基盤を残してはいたが、その指導者に一流の人物を欠いた状態になった。
【討幕開国論への転換】
元治元年の末から、今まで孤立気味であった志士の一団が、急速に影響力を強め始めた。それが、西郷隆盛(薩摩藩士)、高杉晋作(長州藩士)、坂本龍馬(土佐の庄屋、郷士出身)に代表される者であった。彼らは、様々な体験と知識によって攘夷の不可能を知り、開国の必要を悟り、同時に、幕府を倒さなければ、本当の意味の日本の近代化には成功しないことを知った。尊王攘夷の方針を捨てて、討幕と開国の方針に沿って動き出した。その転換点が、慶応二年(1866)の薩長連合の盟約であった。
【攘夷戦実行の効果】
薩摩と長州における攘夷戦実行の効果は討幕開国論者の大衆的基盤を作り出した。攘夷戦の経験で、多くの尊王攘夷の志士が、攘夷の不可能を知った。こうして、討幕開国を目指す指導者が、支持者を獲得するための有利な条件を作り出した。
【討幕開国派と大商人の同盟】
第二次長州征伐は、幕府の敗北に終わり、幕府の軍隊は撤退した。ただし、まだ日本は何一つ変わっていない。幕府はいぜんとして権力を握っている。これを倒すことは至難のわざである。ここで急速に浮上してくる勢力が大商人であった。大商人は慶応二年までは、あまり大きな変化を起こさなかった。ほかならぬ財政問題がこれら大商人を急速に反幕府の側に押しやった。財政問題の引き金は、幕府の軍隊の近代化であった。慶応二年の長州征伐の経験から、幕府軍隊の洋式化の必要が認められ、そのための改革が急速に進行した。
問題はその巨額の費用をだれが負担するというものであった。そこで、二つの解決案しかなかった。一つは、商人層、金融業者からその費用を取り上げることである。もう一つは、外国から金を借り入れることであった。しかし、この二つの方法はあまり解決できなかった。だから、薩摩、長州両軍が京都に集結し、幕府の軍隊が大阪城からでて、京都に進撃した階段において、三井、小野の二大商人が率先して勤王の側に附いた。新政府が樹立されると、商人層、金融業者が積極的に献金を行い、財政的に支援した。この資金的援助があったため、明治維新政府は東征に成功し、幕府を滅ぼし、彰義隊を討伐し、東北諸藩を平定し、新しい権力を固めることが出来た。
こうして、財政問題が大商人の幕府からの離反を決定的なものとし、それが討幕の成功を実現させ、明治維新の時期を決定した。したがって、幕府の崩壊は、安政年間でもなく、文久年間でもなく、財政赤字が破滅的になった慶応三年に現実のものとなった。
【討幕における基本的対立関係】
明治維新政府は、もはや領地支配の上に立つ権力ではなくなり、別な分野の二大勢力によって組織された。一方の側に、薩摩、長州、土佐を中心とした武士、とくに下級武士を代表する勢力がある。他方に、大商人、金融業者を代表する勢力がある。その二つの討幕開国が日本において初めて、土地支配の上に立つ権力を破壊し、商工業、金融業者の上に立つ権力を組織した。その意味では、討幕開国がフランス革命におけるバスチーユ占領と同じ意味を持つ。
【明治維新政府の財政改革】
権利をとれば、それにふさわしい財政改革を行なう。これがフランス革命で行なわれたことであった。明治維新では、討幕の階段で幕府の財政をとりあげ、これに改革を加えた。幕府直轄領約700万石は、明治維新政府のものになった。名目は天皇のものになったが、その運営の実権は、新政府の官僚の手に握られた。その結果、旧体制の下で最高の生活を享受していた上級旗本が貧民に転落した。この変化はきわめて激烈であり、フランス革命をみても、このような劇的な変化を引き起こしたあとはない。「王政復古」という外見的保守性の中で、財産的特権の急激な変化がすすめられた。その本質は、領主の組織した権力を破壞したことであった。こうして新政府は、とりあえず商人、金融業者の現状を保護するものとして登場した。それを保護するための財源が、旗本と譜代大名の財政特権の削減によるものであり、これを実現するために、討幕という幕府権力の破壞が必要であった。そこに討幕の財政問題があった。
【明治政府の二大勢力―大商人と下級武士】
新政府は二つの勢力の連合体であった。薩長と土佐藩の下級武士は、討幕戦力の主体であり、これに財政的援助を与えたものが商人、金融業者であった。明治政府は、この二つの代表者を中心に構成された。
【廃藩置県―市民革命の完成】
廃藩置県は、まだ残っていた地方権力を中央政府に集中することによって、大名と上級武士の権力を取りあげたものである。上級武士は、江戸時代においてほとんど知行地(領地)の所有者であったから、地方権力もまた土地支配のうえに組織されていた。これを打破したかぎりにおいて、廃藩置県は討幕に続く第二の革命となり、ここで日本における市民革命は完成した。討幕は旧幕僚内の革命であり、廃藩置県はそれ以外の地域における革命となった。
【大商人の生き残りと新興企業家の勝利―フランス革命の共通点】
大商人、新興企業家、のちの財閥が明治維新以後の日本の新しい支配者である。ブルジョアジーの内部構成の変化は、フランス革命よりも急激であるが、とにかく商工業、金融業の上に立つ者が権力をにぎるようになったことは、フランス革命と同じの内容をもつ。この点において、フランス革命と明治維新は共通である。それ以外の要素は、それぞれの国における相違点である。