2001年度卒業生 共同研究 
  【明治維新とフランス革命の共通点】

 明治維新とフランス革命は、大きくわけると2つの共通点がある。まず、1つ目に明治維新とフランス革命は、近代社会を作り出したという意味で、同じだと云われる。それは、フランス革命の結果、領主の組織していた権力が破壊され、商工業・金融業の上に立つブルジョワジーが権力を握った。一方、日本では、江戸時代に領主が権力を組織していたが、明治維新以後は、商工業・金融業の上に立つ者が権力の指導権を握っている。その点で、フランス革命と明治維新は、基本的に同一の変化を引き起こしたといえる。そもそも市民革命の定理は、「領主の権力からブルジョワジーの権力へ」である。古代・中世において土地支配の上に立つ者が集まって権力を組織していた。その中で、商工業・金融業が発達してくる。領主は、支配の仕方を変えながら延命策を講じた。それが、西欧における絶対主義であり、日本では鎖国をすることで経済の発展を抑え、領主の権力を温存していた。しかしその後、内部要因、外部要因の圧力を受け、商工業者・金融業者が権力を握ることになった。

 2つ目の両革命における共通点として、その革命の基本的な原因が財政問題にあったことが挙げられる。まず、フランス革命においてであるが、革命以前、当時の貨幣の基本は貴金属であった。そのため、不換紙幣を増刷することが出来ず、アメリカ独立戦争の戦費による支出で、国家の財政が破綻した。資金がなくなると、権力を持っている宮廷貴族は、徴税政策を取り、ブルジョワジー以下の国民に負担をかけようとする。すると、「権力を取らないことは、自分たちの破滅につながる」と考えた商工業者・金融業者が反乱を起こした。これが、バスチーユ占領であり、近代フランスの出発点となった。その後、年に7月革命が起こり、フランス革命以前の宮廷貴族で大土地所有者の生き残りである極端王党と商工業者・金融業者で構成された革命側との間で、権力と国家財政をめぐる争奪戦が繰り広げられた。一方、日本では、もともと赤字であった幕府の財政が、開国に伴い、外圧から義務づけられた武器戦艦の輸入や賠償金の支払いで、更に赤字が加速した。その解決策として、商人に対する御用金を増加し、譜代大名や上級旗本が自ら自分たちのの特権を返上しようとしなかったことから、商人層と幕府を構成している領主層との間での権力争奪戦が激化した。そこで、商人層は薩長両藩に対して援助をした。というのは、幕府に対して関ヶ原の戦い以来の恨みを持っていたこと、下級武士の勤王派勢力が伸長したこと、幕府の財政の中では、商人と同じように冷遇され、負担をかぶせるだけの存在しかなかったこと、幕府からの討伐計画が予想されていたこと等の理由で、薩長両藩は幕府にかなりの不満を持っていたためであった。


  【一般的に行われている誤解についての解説】

 
「明治維新は武士によってなされ、フランス革命は民衆によってなされたものであるので、明治維新の方が保守的である。」という意見について、まず、明治維新は下級武士によってなされた革命ではないと指摘できる。その理由として、明治維新は、商人層の献金がなければ、戦費をまかなうことが出来ず、幕府を倒せなかったことが挙げられる。そして、下級武士層全体が、討幕に動いたわけではなく、薩長両藩を中心とした少数の藩の下級武士が戦力になっただけであり、多くの藩の下級武士は、勤王派として参加していた。また、官軍に抵抗した諸藩の下級武士は、上級武士の指揮権の下で抵抗していた。一方、フランス革命においても、民衆を反乱へと掻き立て、組織したのは商工業者・金融業者の一団であった。そこで、なんらかの武力を持つ集団と商工業者・金融業者の同盟という意味で、明治維新とフランス革命に共通点があることがわかる。

 第二に「明治維新が市民革命であるというならば、天皇制は絶対主義ではなるので、戦前の天皇の絶対的権力はどうなるのか」という意見がある。これに対して「絶対主義は必ずしも絶対的ではなく、市民革命以後の権力の方が、より絶対的権力を行使し、より中央集権を強化する」と反論できる。まず、絶対主義とは、実は比較の違いである。各地に大貴族が割拠していた時代から、フランス王国という1つの国境線を確立することは、当時のヨーロッパの人から見れば、目覚しい変化であり、それがフランス王国の名で達成されたとすれば、従来に比べて王権が絶対的になったと感じたために、フランス絶対主義という言葉が生まれた。しかし、実際は中世の封建的分裂要素を充分に解消しておらず、、フランス革命後に、その状態を一掃した。「フランス共和国は唯一にして不可分」という言葉があるが、これはフランス絶対主義の下では、フランス王国が唯一ではなく、「可分」であったことの裏返しであると取れる。そして、革命後に出来たナポレオンの権力とフランス絶対主義時代におけるブルボン王朝の権力の絶対性を比較すると、ナポレオン側に中央集権の強さが認められるのである。

 第三に、「明治憲法は、プロシア型である」という意見があり、そこから明治維新後の日本や統一後のドイツ帝国をフランスに比べて、保守的、反民主主義的なものであるという意見がある。これについては、フランス革命後にナポレオンが作った第一帝政がドイツ憲法の模範となり、それが更に明治憲法の模範となったという事実から、明治憲法は確かにプロシアを模範としたものであるが、ナポレオンの第一帝政が模範となっていると考えられる。

 第四に、明治維新は外部的要因によって起こされた革命ではないといえる。もし、明治維新が外圧によって起こったと考え、フランス革命がアメリカ独立戦争の出費による財政負担が原因になったと考えると、明治維新とフランス革命の共通点がなくなってしまう。しかし、実際は外部要因が内部要因に作用し成熟を早めただけであるので、変化の基本は内部的要因にあるといえる。もし、外部的要因が明治維新を起こしたと考えるのであれば、なぜ開国を迫られた寛永年間にそれが起こらず、また攘夷意識が高揚していた1863年に起こらなかったのかという疑問が出てくる。実際に討幕が起きた時期は、外圧が減少しつつある時期であった。そこで、何故その時期に討幕が行われたのかというと、この時期に幕府の財政が破滅的に増加したためであった。もともと財政特権を巡る内部対立があったところに、武器戦艦の購入費が加わり、幕府財政の赤字を加速させた。確かに、外圧と明治維新の関係は認められるが、外圧が直接作用したのではなく、武器戦艦の購入による赤字の加速が財政特権を巡る闘争の激化を招いたと考えられるので、外圧も大きな要因ではあるが、基本的な要因は内部要因であるといえる。フランス革命においても同じことがいえて、アメリカ独立戦争の戦費は、重い負担であったが、フランス革命が起きたのは、その約10年後のことである。だから、この場合も、確かに戦費が国家財政の赤字を加速させ、国庫を空にする時期を早めたが、あくまでも基本的原因は、国家財政を巡る内部対立であったと考えられるので、ここでもフランス革命と明治維新の共通点を見出すことが出来る。

 最後に「フランス革命は、流血のみで何の意味もなかったので、その意味では、市民革命など大した問題ではない」という意見がフランスの学者の間で根強く存在している。また、日本においても「幕府中心の開明政策でも日本はうまくいったはずだ」という意見も少数ながら存在する。フランスでは、名門貴族が未だに大土地所有として残り、また財界の有力者にもなっているために強い影響力を持っているが、フランス革命なしには、フランスは近代化出来なかったであろう。なぜなら、旧体制の下では、大貴族の息子は15歳で連隊長になれたが、どんな能力がある者も下級貴族であれば、一生下級将校止まりであった。そのような軍隊で、近代戦が戦えるはずはなく、フランス革命が無意味であったとはいえない。一方、日本においては、確かに幕府の下で開明政策が行うことは出来た。しかし、それでは有力な人材が、町人、農民、中級武士、下級武士の中に沈んだままであり、大名や上級旗本の家に生まれても、次男や三男であれば、家督が相続できないので、社会の指導的地位につけなかった。逆に、譜代大名の名家と上級旗本に限定された社会では、指導的地位についた者は生まれたときからその地位を約束されていたのである。しかし、このような人々の中で名君の高い人が、明治維新後に一個人となると、普通の水準の人であった。この点が、フランスの名門貴族の息子が15歳で連隊長になるのと本質が同じだといえる。